尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

安倍政権「ヤンキー文化」論-安倍政権のいま③

2014年02月02日 22時44分08秒 |  〃  (安倍政権論)
 生き急ぎ、「ポエム化」する安倍政権。そのよってきたる由縁はどこにあるのか。そう思う時、精神科医斎藤環さんがいう「自民党ヤンキー論」が慧眼だったのではないかと思い当たる。それは第2次安倍政権発足直後の2012年12月27日に朝日新聞に掲載されたインタビューで示されたものである。以下に少し引用してみる。(太字は引用者)

・「自民党は右傾化しているというより、ヤンキー化しているのではないでしょうか。 自民党はもはや保守政党ではなくヤンキー政党だと考えた方が、いろいろなことがクリアに見えてきます」
・「私がヤンキーと言っているのは、日本社会に広く浸透している『気合とアゲアゲのノリさえあれば、まあなんとかなるべ』という空疎に前向きな感性のことで、非行や暴力とは関係ありません」
・「自民党の政権公約では『自立』がうたわれています。気合が足りないから生活保護を受けるようなことになるんだ、気合入れて自立しろという、ヤンキー的価値観が前面に出ています。経済やふるさとを『取り戻す』と言っても根拠は薄弱で、要は気合があれば実現できるという気合主義を表現しているに過ぎません。」

・「ヤンキーには、『いま、ここ』を生きるという限界があって、歴史的スパンで物事を考えることが苦手です。だから当座の立て直しには強いけれども、長期的視野に立った発想はなかなか出てこない。自民党が脱原発に消極的なのは、実は放射能が長期的に人体に及ぼす影響なんて考えたくないからじゃないか。『まあどうにかなるべ』ぐらいにしか捉えていない節がある。原発は廃炉にするにしても100年スパンで臨まなければいけないので、もっともヤンキーにはなじまない課題です」

・「あえて知性を捨てているのでしょう保守は知性に支えられた思想ですが、ヤンキーは反知性主義です。言い方を変えれば、徹底した実利思考で『理屈こねている暇があったら行動しろ』というのが基本的なスタンス。主張の内容の是非よりも、どれだけきっぱり言ったか、言ったことを実行できたかが評価のポイントで、『決められない政治』というのが必要以上に注目されたのもそのせいです。世論に押されて実はヤンキー化しているマスコミがその傾向を後押しし、結果、日本の政治が無意味な決断主義に陥っています。」

 こうして見ていくと、「ポエム」というのは「気合主義の空疎な感性」と言えるから、まさに斎藤氏の「ヤンキー文化」という文脈で理解できるのではないか。安倍政権が靖国参拝など、自分だけは陶酔できるけれど、他者に理解してもらうのが難しい問題を「ポエム」で語る非論理性も理解可能である。基本的には「歴史に学ぶ」ことができない、「反知性主義」と言える。

 今までの「保守」は「顕教」と「密教」の違いを当然判っていた。判っているものを抜てきして、下から引き揚げて重職に就かせるシステムだった。地方出身で優れた高級官僚をリクルートし、時には自分の娘婿として迎えて、支配層のインナーサークルを強化していった。地方出身の岸信介、佐藤栄作兄弟が東大法学部を出て高級官僚となり、岸は安倍晋太郎を婿に迎える。(安倍晋三の祖父、安倍寛は2回衆議院に当選した地方政治家だが、戦後すぐに死亡し、安倍晋太郎は毎日新聞記者から岸の女婿となり政界入りする。)今、「顕教」と「密教」と言ったのは、思想史で久野収、鶴見俊輔らが使用した用語だが、国民向けに言う言葉(顕教)と支配層内部で発する言葉(密教)ということで、まあタテマエとホンネとも言える。

 ところが安倍晋三は支配層内部で引き継いだ地盤を守る立場であり、支持する国民向けに言っている言葉(靖国参拝)などを自分で疑う必要なく生きてきた。自分で発する言葉を実現することを使命と考えるという生き方なので、これが「空疎なポエム」を生み出していく。それはそれぞれの「地元」で地域を支えている「ヤンキー」=「ジモッティー」の強力な支持がある。失敗に学ぶことがないので、時を経て同じことを繰り返すという振る舞いも、そのような特性から来るのだろう。

 こういう政治家はどこかで見たような気がするが、ジョージ・ブッシュ(ジュニア)政権の振る舞いと同じなのではないか。人生行路が似ていたのだと思う。あの政権は「9・11」以前は、「思いやりのある保守」とか言っていた。それがテロ以後は、露骨なホンネ路線を進めて行った。歴史に学ぶことなく、反知性主義をひたすら進み、イラクに侵攻していった。それは「大量破壊兵器を持つフセイン政権を世界平和のために見過ごすわけには行かない」という「ありがたい」(おせっかいな)政策だった。言葉にすれば「積極的平和主義」になるんではないか。安倍政権が靖国参拝を米国から「失望」と言われても動じないように見えるのは、もともとオバマ政権に親和感がないからだろう。今秋の中間選挙後の「レームダック化」を見こし、今さらオバマ政権に与しないという路線ではないかと思う。ブッシュ政権は「ポエム」ではないが、「空疎な感情主義」という点では共通する。銃のある国では「ポエム」に訴える代わりに「銃が解決する」のだろう。銃のない日本では、「ポエム」が人々をつなぐということか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

テオ・アンゲロプロス「エレニの帰郷」

2014年02月02日 00時47分49秒 |  〃  (新作外国映画)
 ギリシャの映画監督、故テオ・アンゲロプロス(1935~2012)の結果として遺作となってしまった「エレニの帰郷」が公開されている。アンゲロプロス監督は、2012年1月に新作映画製作中に交通事故で亡くなってしまった。僕はずっと見てきたし、非常に重要な映画作家と評価していたので、それらのことを「追悼・テオ・アンゲロプロス」に書いた。今回の「エレニの帰郷」は、東京では新宿バルト9という所だけで上映で、全国でもあまり公開館が多くない。関心がある人には見逃せないので、注意。ただし、今まで一本もアンゲロプロス作品を見ていないというような人は、他の作品(特に「旅芸人の記録」や「霧の中の風景」など)から見ることをお勧めする。
 
 2008年製作の「エレニの帰郷」は、アンゲロプロスの作品としては異例というべき作品だと思う。前作「エレニの旅」から始まる「20世紀3部作」の2番目の作品で、だから最後の「もう一つの海」(未完成)を見てみたかった。今回の映画は、何しろギリシャが出てこないのである。むろんギリシャ人の物語だけど、いわば「さまよえるギリシャ人」の物語である。そのため、ギリシャ語以外の英語やドイツ語、ロシア語などが多い。初めは英語版なのかと思ったけど、最初に登場する映画監督(ウィレム・デフォー)はアメリカを基盤としているという設定らしい。撮影もイタリア、ロシア、カザフスタン、ドイツ、カナダなど世界のあちこちで撮られている。字幕は、やはり池澤夏樹が務めていて、結局日本公開されたアンゲロプロス全作品の字幕を付けたことになる。

 その映画監督はイタリアのチネチッタ撮影所で映画を撮ろうとしている。その時点は1999年。そこから1953年に時間が飛び、ギリシャ内戦を逃れソ連のカザフ共和国(当時、現在は独立国のカザフスタン)にいたエレニ(イレーヌ・ジャコブ)を救おうと、スピロス(ミシェル・ピコリ)が訪ねていく。その日はスターリンの死んだ日だった。その日、誰もいなくなった市電の中で、エレニとスピロスは結ばれ、息子が生まれる。(それが映画監督である。)しかし、怪しまれたエレニは逮捕され、シベリアに送られる。彼女と親しかったドイツ系ユダヤ人ヤコブ(ブルーノ・ガンツ)もシベリア送りになる。二人は1973年末にようやく出国を許されるが、ヤコブはイスラエルに行き、二人は別れ別れになる。一方、監督の娘は祖母と同じエレニと名付けられたが、ベルリンに住んでいる。高校生だが厭世的で、家出してしまう。このように、1953年~1956年のソ連、1973~1974年の出国、1999年(映画での現在)のベルリンでの「再会」と、三つの時間を行き来するので、まあいつも彼の映画はそういう感じだけど、なかなか理解しづらい。政治情勢の問題もあるが、人間関係の把握が難しい。パンフレットにシナリオ採録が載っているので、それを見るとようやくわかる部分が多い。

 前作と同じく「エレニ」が出てくるが、関係はなく独自の作品。いつもと同じくエレニ・カラインドルーが音楽を担当し、叙情的な音が印象的だけど、今までの作品の方が良いと思う。格調高い映像は相変わらずだけど、自然描写が少ないこともあり、印象が少し違っている。今までは「」(川や雨、湖、海など)が映画の中で大きな役割を果たしてきた。特に前作の大洪水は忘れがたい。今回はそういうシーンが全くないわけではないけれど、少ない。シベリアだから、そのわりに雪のシーンが印象的。まあ雪も水には違いないけれど。

 どの世代も生き難さを抱えて生きている。ラストで1999年が終わるが、次の2000年代はどのようになるのか。もう13年間経ってしまったけれど、惨憺たる時代だったのではないか。「革命の世紀」だった20世紀に、小国ギリシャを襲った悲劇をアンゲロプロスは描き続けた。しかし、21世紀の悲惨を描く時間は与えられなかった。とても残念だ。アンゲロプロスのような大叙事詩人は、他に思いつけない。正直言って、この作品で最後というのは、大変心残りだと思う。内容的にも、三部作の最後まで作って完結するところが大きかったのではないか。俳優、撮影、音楽など見応えがあるが、題名と違いギリシャに帰郷しない映画だった。英語原題は「The Dust of Time」で、「時の塵」という方が含蓄が深いと思う。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする