あちこち歩くのが結構趣味なんだけど、まとめて写真を載せたりするのが面倒だった。でもカメラを持って自覚的に歩こうと思わないと、だんだん歩かなくなってしまう。そこで「カテゴリー」を作って、時々書きこむようにしたいと思う。まずは「銀座界隈」で、次回は「東京駅周辺」を予定。
銀座界隈って言っても、今回は東銀座と銀座のはずれの三吉橋。このブログでも、三原橋の映画館銀座シネパトスが閉館と言う話は何回か書いている。今、リクエスト特集と銀座映画特集をやってる。またこの映画館を舞台に作られた「インターミッション」と言う映画を公開中で、たくさん催しも行っている。映画館の閉館は今珍しくないけど、「三原橋地下街」そのものの再開発である。ここは昔は「三十間堀川」という江戸時代に掘られた人工河川が通っていた。数寄屋橋、三原橋など、銀座周辺に橋の名前だけ残っているが、もとはちゃんと川を渡る橋だったわけで、江戸が世界有数の美しい水の町だった証である。それが第二次世界大戦のがれき処理のため、戦後に埋め立てが始まり、地下街が形成された。それが東日本大震災による耐震建築の見直しで、再開発になる。
家から地下鉄日比谷線で一本、東銀座駅で銀座方面に地上に出てすぐ。

壁が今「インターミッション」の宣伝、色紙や感謝の言葉などであふれている。店もほとんど閉まっているけど、「三原」と言う食堂だけ、昔懐かしいようなメニューで営業している。入ったことがないので、閉まるまでに食べてみたい感じ。最近新聞なんかでもこの地下街が取り上げられて「昭和の名残りが消える」などと書いてある。僕はそれがよくわからない。「昭和」は「64年」まであった。もっとも大正15年12月26日と昭和64年1月8日に改元されたわけで、実質は「62年と2週間」だったのだが。(もっとも昭和天皇は1921年の末から摂政を務めていた期間もあるが。)昭和の最初の20年は戦争で、最後の頃は「バブル」である。この三原橋地下街には、戦時下の軍国主義の影もバブル期の華やかな面影もない。つまり「昭和」全部ではなく、高度成長以前の50年代、60年代っぽい感じが残るということだ。なんだか戦後にできたものが、バブルでオシャレに改造されなかった古い感じが今では珍しいということだろう。映画館も狭く、小さな画面に地下鉄の音がするという条件の悪さが「昔の名画座」らしいということになる。
ところで東銀座と言えば、歌舞伎座である。今まで地下鉄駅とは結ばれていなかったが、今回の新築を機に直結した。歌舞伎座開業を前にもう地下通路は開通していて、お土産屋もいっぱいあって早くも賑わっている。地下鉄駅の歌舞伎座方面に大きな道が出来ていて、そこを少しくとちょうちんが下がっている広い空間に出る。その広場にお店が出てる。コンビニもあった。そこのちょうちんの右の方にチケット売り場がある。

歌舞伎座そのものは裏にビルが出来ているが外見は昔をきれいに直した感じにまとまっている。今、みんながデジカメやケータイで写真を撮っているけど、これが難しい。近くからだと全景が撮れず、道の向こうに行くと車が映ってしまう。大きなトラックが通ると、半分見えない。なお、歌舞伎座の向かいあたりが、岩手県のアンテナショップ「いわて銀河プラザ」である。近くに群馬県の店もある。どちらも近くに来たら是非寄りたい場所。

今日は東京大空襲の集会(昨年は行った)の他、行きたいところも多かったのだが、フィルムセンターで見逃していた「東京の人」という川端康成原作の日活文芸映画(西河克己監督)を見たかった。そこで、まずシネパトスで「恋人」という市川崑の初期作品を見て、東銀座から京橋まで歩いたわけ。その途中で、今まで行ってなかった三吉橋(みよしばし)に寄っていった。中央区役所と中央会館(銀座ブロッサム)を結ぶところにある橋で、下は首都高だけど、昔は築地川。そこに掛かる三つ又型の橋が三吉橋で、三島由紀夫「橋づくし」に出てくる橋と言えば、思い出す人もいるかと思う。願掛けで橋を渡るんだけど、三吉橋だと一つの橋で2回渡れる勘定ができるというところがミソ。その時代は木造だったが、もちろん今は改造されコンクリ橋になっている。でも「三つ又」と言う点は同じ。なお、今は向島に桜橋という隅田川に架かるX型の橋がある。ここを渡れば一回でもっと渡ったことになるんだろうか。
銀座界隈って言っても、今回は東銀座と銀座のはずれの三吉橋。このブログでも、三原橋の映画館銀座シネパトスが閉館と言う話は何回か書いている。今、リクエスト特集と銀座映画特集をやってる。またこの映画館を舞台に作られた「インターミッション」と言う映画を公開中で、たくさん催しも行っている。映画館の閉館は今珍しくないけど、「三原橋地下街」そのものの再開発である。ここは昔は「三十間堀川」という江戸時代に掘られた人工河川が通っていた。数寄屋橋、三原橋など、銀座周辺に橋の名前だけ残っているが、もとはちゃんと川を渡る橋だったわけで、江戸が世界有数の美しい水の町だった証である。それが第二次世界大戦のがれき処理のため、戦後に埋め立てが始まり、地下街が形成された。それが東日本大震災による耐震建築の見直しで、再開発になる。
家から地下鉄日比谷線で一本、東銀座駅で銀座方面に地上に出てすぐ。




壁が今「インターミッション」の宣伝、色紙や感謝の言葉などであふれている。店もほとんど閉まっているけど、「三原」と言う食堂だけ、昔懐かしいようなメニューで営業している。入ったことがないので、閉まるまでに食べてみたい感じ。最近新聞なんかでもこの地下街が取り上げられて「昭和の名残りが消える」などと書いてある。僕はそれがよくわからない。「昭和」は「64年」まであった。もっとも大正15年12月26日と昭和64年1月8日に改元されたわけで、実質は「62年と2週間」だったのだが。(もっとも昭和天皇は1921年の末から摂政を務めていた期間もあるが。)昭和の最初の20年は戦争で、最後の頃は「バブル」である。この三原橋地下街には、戦時下の軍国主義の影もバブル期の華やかな面影もない。つまり「昭和」全部ではなく、高度成長以前の50年代、60年代っぽい感じが残るということだ。なんだか戦後にできたものが、バブルでオシャレに改造されなかった古い感じが今では珍しいということだろう。映画館も狭く、小さな画面に地下鉄の音がするという条件の悪さが「昔の名画座」らしいということになる。
ところで東銀座と言えば、歌舞伎座である。今まで地下鉄駅とは結ばれていなかったが、今回の新築を機に直結した。歌舞伎座開業を前にもう地下通路は開通していて、お土産屋もいっぱいあって早くも賑わっている。地下鉄駅の歌舞伎座方面に大きな道が出来ていて、そこを少しくとちょうちんが下がっている広い空間に出る。その広場にお店が出てる。コンビニもあった。そこのちょうちんの右の方にチケット売り場がある。



歌舞伎座そのものは裏にビルが出来ているが外見は昔をきれいに直した感じにまとまっている。今、みんながデジカメやケータイで写真を撮っているけど、これが難しい。近くからだと全景が撮れず、道の向こうに行くと車が映ってしまう。大きなトラックが通ると、半分見えない。なお、歌舞伎座の向かいあたりが、岩手県のアンテナショップ「いわて銀河プラザ」である。近くに群馬県の店もある。どちらも近くに来たら是非寄りたい場所。


今日は東京大空襲の集会(昨年は行った)の他、行きたいところも多かったのだが、フィルムセンターで見逃していた「東京の人」という川端康成原作の日活文芸映画(西河克己監督)を見たかった。そこで、まずシネパトスで「恋人」という市川崑の初期作品を見て、東銀座から京橋まで歩いたわけ。その途中で、今まで行ってなかった三吉橋(みよしばし)に寄っていった。中央区役所と中央会館(銀座ブロッサム)を結ぶところにある橋で、下は首都高だけど、昔は築地川。そこに掛かる三つ又型の橋が三吉橋で、三島由紀夫「橋づくし」に出てくる橋と言えば、思い出す人もいるかと思う。願掛けで橋を渡るんだけど、三吉橋だと一つの橋で2回渡れる勘定ができるというところがミソ。その時代は木造だったが、もちろん今は改造されコンクリ橋になっている。でも「三つ又」と言う点は同じ。なお、今は向島に桜橋という隅田川に架かるX型の橋がある。ここを渡れば一回でもっと渡ったことになるんだろうか。


