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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

奥田英朗「沈黙の町で」を読む③子どもの世界編

2013年03月03日 00時19分12秒 | 本 (日本文学)
 「沈黙の町で」と言う小説の中で、警察が突っ走る、学校はアタフタするというのは、もちろんやむを得ない。小説世界が成立する前提条件なんだから。「事件」というか、「事故」というか、そもそもそれが起こらなければ、小説にならない。小説になる以上、学校の対応になんらかの問題があることになる。だから僕は2回にわたりそれを指摘したが、読んでる側の気持ちとしては、学校や警察の対応も確かに大事だけど、多分それは背景事情の描写にしか過ぎないと思う。最初のうちは、事件そのものの推移に目が離せないが、途中で時間が戻って4月のクラス分けの時の女子の話が始まる。このあたりから生徒の世界の複雑な事情に読む側の心も乱れてくる。この小説を読んで一番思うことは、中学生の世界は捉えがたい、教師や親の目からは見えないものがいかに多いかと言うことではないかと思う。

 親の様子も実にリアルに描かれている。結局親は自分の子どもが一番かわいいわけである。僕はそれは当然だと思うし、別に批判するつもりはない。実際の生徒指導の場面でもそう思ってきた。生徒は学校では家庭とは別の顔を見せていることが多いが、それを言えば親や教師も家と職場では別の顔をしているはずである。教師は仕事で生徒と接しているだけで、卒業させれば二度と会わない生徒も多い。親は何があってもこの先何十年も親子の関係が続く。親以外に「子どもを全面的に信じて支えてあげられる存在」はいない。だからと言って、あまりにも非常識な言動は困るが、常識の範囲内で親が子どもを信じてあげるのは、学校の生徒指導にも意味があることだと思っている。

 もっとも今の話はこの小説内の「加害生徒」側の親の話である。「被害生徒」の方の家庭には問題が多い。事件後のことはまあ仕方ない。学校の不備も多すぎるので。それ以前の問題である。その生徒はいかにも「いじめられっ子」のタイプとして描かれているが、それと同時に地域で有力な呉服店の一人息子なんだという。この呉服店は学校指定の業者にもなっていて、学校との経済的結びつきも深い。だから、学校はそれまでは、多分「腫れ物に触る」ような対応をしていたのではないかと思う。それにしても、技量が全然ないテニス部に入っていて、親はいつも高価なラケットやスポーツウェアを買い与えている。これでは「いじめて下さい」と言ってるようなものである。小遣いは毎月1万円、加えて祖母がひそかにもう1万を与えているらしい。なんだ、これ。「うちの子にたかってください」と育てているようなものだ。「お金でいじめられない位置を買う」と言う指導方針なのか。どうもそういう覚悟もないようだ。従って、この小説内では実際に「たかり」行為が発生しているが、これは「自発的におごっている」と言う解釈も不可能ではない。「不良の先輩」が店から生地を持ってこさせる事件もあるが、被害生徒はすでに死亡しており、刑事上の立件は難しいのではないか。こういうケースを読むと、「過剰」は「欠乏」と同じくらい人生の大問題なんだなとよく判る。家が貧乏でお小遣いも不自由なら、みんなで遊びに行ってもつらいだろう。でもその反対に、自分の家だけお小遣いが豊富すぎても、いろいろな問題が起こるのである。(そういうリッチな家なら、親は「基本給」は押さえて、何か勉強や部活に必要なものがあったときに、申請により「ボーナス」を与えるという方式を取るべきだったろう。)

 実際の事件の場合、学校の対応は批判の対象になるが、生徒や親は被害者も加害者も情報が公開されないので、表立っては論じられることが少ない。小説だと、両者の家庭環境も出てくるので、どうしても小説内の被害生徒の事情に触れざるを得ない。この小説の「被害生徒」は、いかにも「空気が読めない」生徒として描写されている。部活でもクラスでも孤立しているが、なんでテニス部に入っているのか判らない。でもテニス部の同学年のリーダー格の生徒に守られていると言ってよい。その同学年のテニス部の生徒が、事件当日の直前まで一緒に部室にいた生徒であり、逮捕・補導されることになる生徒たちである。そのような「守られていた関係」が完全に終わるのが、「6月事件」である。だから6月のキャンプ合宿で起こったことの理解が決定的に重大なんだけど、それが学校にも警察にもよく判っていないことは前回に書いた。6月のキャンプで、教師には内緒で、ある「裏行事」が企画されるが、その「秘密」が発覚してしまう。そのきっかけが、「被害生徒」が「不良生徒」にちょっかいを出されたことである。そして「被害生徒」は「裏行事の全貌」を教師に話してしまう。いわゆる「チクリ」である。この「いじめられっ子がチクリ役になってしまった」という事件の性格を考えると、学校も慎重の上にも慎重を期した指導が必要だったはずである。(「情報源の秘匿」を考えなければいけなかった。)それはともかく、こうしてテニス部は他部の恨みも買い、学年全体に恥をかかせてしまった。が、もちろんそのことは「被害生徒」には通じず、相変わらず技量もないのに高級ラケットを買ってもらったりして、皆呆れてしまう。ついにはリーダー格の生徒からも「退部勧告」されてしまう始末である。

 さらに大変な問題がある。この「被害生徒」は一人っ子だが、実はようやくできた子で、母親は旧家に嫁ぎ後継ぎ出産を望まれるが、1人目は流産、2人目がようやく生まれたものの、次の子も流産した。そういう結果もあって、溺愛されて育つのである。そういう事情はともかく、いつもいじめられたり無視されたりしたからか、いつの間にかこの「幻の兄」「幻の弟」がその生徒の脳内に実在し始めたらしいのである。もうテニス部で一緒に練習してくれる生徒もいなくて、後輩の1年生にもバカにされている。そういう部活に平気で出ていられるのも不思議だが、ぶつぶつ「兄」や「弟」と会話しながら、壁打ちを続けている。これでは、いじめを通り越して不気味な存在として敬遠されざるを得ない。それなのに、平気でテニス部のリーダー格生徒に接してくるから、いわゆる「うざい」というか、最後の頃は「いい加減にしてくれ」状態だったのである。それを担任も顧問もつかんでいないのは、何としたことか。

 この「被害生徒」の理解がこの小説のキーポイントだが、今見てきただけで判ると思うが、どう考えても「自閉症スペクトラム障害」である。自分のしたことの結果がよく判らない。だから「反省」の仕方が判らない。周りとの接し方もよく判らず、お金だけはあるからつい「パシリ」的におごってあげることになるが、本質はいじめではなく「発達障害の人間との付き合い方の無知」からくる相互誤解の積み重ねなのであると思う。さらに、「解離」もうかがわれるので、発達障害に加えて、精神疾患がある可能性も高い。テニス部で全く相手にされないくらい技量が低いのも、僕は発達障害の現れだと思う。(「壁打ち」できるんだから、それほど重度ではないらしい。)発達障害の子どもは、知識の理解や人間関係の理解がトンチンカンだけど、同時に運動技能もトンチンカンであることが多い。例えば、「運動神経が低い」「体力がない」生徒も多いから、バレーボールのサーブが相手のコートに届かないなんていうことはもちろんよくある。野球やテニスや卓球のボールを打ち返せないことも多いが、相当すごいスピードで来るから、打ち返せる方が運動神経のいい生徒というべきだろう。でも、バレーボールのサーブをしようとして、いつも手にボールが当たらない。卓球でサーブするとき、台に球を落として跳ね返った球を打とうとするけどラケットにかすりもしないという生徒。そういう生徒が他の言動でも発達障害を感じさせるときが多いように思う。そういう場合、本人も何も感じていないように思えるが、実は人間関係の作り方がわからず、「生き難さ」の世界をさまよっていることが多いと思う。

 この学校の教員に限らないが、発達障害の理解はまだまだ教育界に不足している。研修を行えば、多分「そういう生徒、ウチのクラスにいるいる」という状態になるはずである。1割はいないかもしれないが、各クラス一人二人いるに違いない。頑張っても成績が上がらない生徒に、頑張りを求め続けるのは拷問に近い。「学習障害」の理解が教師にあるとないとでは大きく違う。この生徒の場合、昔は「アスペルガー障害」と呼ばれてきたものの中度位の感じだけど、教師がしっかりと研修して、「生き難さを抱えた生徒にどう接していくか」を共通理解していれば、「6月事件」の指導も大きく違ったはずである。周りの生徒の接し方も、「ああいう行動しかできない」という障害と言うかビョーキだと理解していれば、だいぶ変わったのではないか。

 ところで、もう一つの問題がある。それは女子生徒の理解で、これがいかに難しいかがよく判る。僕は「教室内カースト」の本の書評で、生徒の世界は「カースト」というより「すみわけ」ではないかとして指摘した。球技大会での女子の班分けを見れば、まさに「すみわけ」である。生徒集団間の上下もあるかもしれないが、それより「好きな者同志のグループ」が同格的に形成されていて、そのグループの「平和的すみわけ」が成り立っていることが多いのではないか。そのグループ間の関係は、成績や部活、容姿、好きな男子などにより、複雑に合従連衡する。その事情は外部にはなかなかつかみ辛く、教師にも警察にも判らないが、それだけでなくクラスの男子にも判らないだろう。「女子の秘密」は例外的に読者だけに知らされるのである。

 この学校には「不良グループ」の3年生が数人いるとされる。2年にも部下がいる。学年に数人いれば、授業や行事はずいぶんかき回されるはずである。そういうグループは概ね2年後半には「デビュー」するから、この学校は1年ほどは大変な思いをして来たと思う。職員会議や生活指導部会もほとんどその問題で時間を使って来たと思う。その結果、2年生の「ちょっと変わったいじめられっ子」に関する研修に取り組む余裕が持てなかったのだと同情する。しかし、結果論だがその「不良」と「いじめられっ子」はリンクしてしまった。誰か発達障害生徒の経験が深い教員が一人でもいれば、容易に気が付くレベルの問題だったと思う。

 この小説には他にもいろいろ考える論点はあると思うが、大体は書いた。僕にはとても小説としてただ楽しんで読むことは出来なかった。自分がこの学校の教師だったらと思って、かなりドキドキしながら読んだ。こういう小説を多くの人が読み、いろいろ考えることが大事だと思う。絶対損はないから、是非多くの人に読んで欲しい本。
 「①学校対応編」と「②警察捜査編」から続いています。
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