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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

「何者」2

2013年03月18日 20時24分21秒 | 本 (日本文学)
 朝井リョウ「何者」について書いた後で、なんだかまだ書きたりないような気がした。この小説はいろいろと語りたくなるところが多い。昔だったら「読書会に最適」という感じだけど、今では「読書会って何ですか?」と言われるのだろうか。今は「ビブリオ・バトル」って言うんでしょ、とか。何で本を読んだ後でまでバトルしなくちゃいけないのかな。あれこれおしゃべりするだけでいいじゃないか。

 僕はこの小説と「横道世之介」を読んで、ケータイやネットは若者を不幸にしたと思ったけど、こう言ったからって、インターネットを無くすわけにはいかない。僕もインターネットという場を通して書いてるわけだし。つまり時代というか社会というか、変わってしまった後では元に戻れない。電気、電灯というものが出来てしまった後で、それを使わないで夜は暗いまま早く寝るという生活はできない。何でもそうである。インターネットというものを使って企業が就職情報を広報する以上、学生側が見ないという選択はできない。その結果、大量に応募することができるようになり、大量に落ち続ける(逆に何社も内定を貰う学生もいる)ということになったとしても。学生側にはインターネット環境を使うかどうかの選択は許されない。ツイッターでいちいち就活戦線を経過報告するかどうかは自分で決められるが。

 だから、その渦中の学生には「インターネットをうまく使いこなす」ということが求められるわけだけど、これでは当たり前すぎる。中にいると、その環境自体を客観的に見ることができない。大学の最後の年は、今まで勉強してきたことの集大成の年であって、本来はその卒業論文なんかの方が重大なはずである。そしてそれを受けて、就職が決まるべきはずなんだけど、今は卒論書く前に大学院の試験さえある時代だ。僕にはそれが本当に不思議で、卒論見ない段階で大学院に受け入れ可能かどうかが何故わかるんだろうか。しかし、そういう時代になっている以上、学生の方はそれに自分の方を適応させないとやっていけない。

 若い時期は恥ずかしいことをいっぱいしてしまう。「勘違い」が多いのである。小説の中の登場人物も、ずいぶん「勘違い」が多いと思うけど、でもそれは誰もがそうなんで心配する必要はないと思う。それを若い人同士が責め合ってしまっては、ものすごく消耗するだろうと思う。お互いに攻撃的になるのも若いからで、家庭環境も違えば個人の能力、容姿なんかも違うわけだし、お互いの羨望、嫉妬なんかも避けられない。でも、そういうのが完全にないのがいいのかどうか。若い時は「勘違い」がエネルギーの基であり、どんどん好きなことを言い合いながらやりあえばいい。だから、この小説の中の登場人物を、僕はごく一部しか知らないので、あれこれ決めつけるように言いたくない。10年、20年すれば、まただいぶ違ってくるし、何がいいか判らない。「観察してるだけじゃダメ」という問題が最後に出てくるが、僕は「観察者」は世の中に絶対に必要だと思う。舞台にたって演じたり歌ったり踊ったりすることだけが重要なんだろうか。演劇評論家、音楽評論家、舞踊評論家…という人が交通整理して批評することで、現場で活動している人が、自分の場所を見つけられるんだと思う。どんな仕事でも、内部に「評論家」がいないと、うまく回らないのではないか。問題は「深い観察か」「浅い観察か」ということの方にあるんじゃないか。

 もう一つ、この小説の中で、大学出たら全部自分で人生を作って行かないといけないんだ、今までみたいに学校に守ってもらうわけには行かないんだよ、みたいなことを言う。それにみんななんか納得してるんだけど、今の学生はこう思うんだと僕はビックリした。そうか、この中では就活の模擬面接で大学の就職部のお世話になりましたという話もあるし、大学生でも「守ってもらってる」のか。確かに私立大学では就職に力を入れないと経営に響くし、得意分野を作って面倒を見てくれるらしい。公務員や教員なんかの試験もずいぶん細かくケアしているらしい。いやあ、そう言う時代なんだ。何十年か前は、大学に入った段階で、親や学校の世話はないものと思っていた。もちろんものすごい大金持ちなんかは別だけど。確かに大学生段階では、学費は親掛かりの学生がほとんどだと思う。だから完全に独立しているわけではないけど、もう親は入学式にも卒業式にも来ないし(子供も招待しない)、大学も必要なガイダンス以外はない。大体高校の進路指導なんかもとくにないし。自分の行きたい大学に願書を出して、試験で決まるだけだし。推薦入試というものは、学校推薦はあったけど、他の制度はなかった時代である。だから大学へ入った段階で、もうほとんど公的制度、または温かな配慮の世界から放り出されていた。それは「横道世之介」なんかでもまだそういう感じ。大学でさえ変わってしまったなんだなあ。それはこの20年間の非常に大きな変化ではないかと思う。
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