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尾形修一の紫陽花(あじさい)通信

教員免許更新制に反対して2011年3月、都立高教員を退職。教育や政治、映画や本を中心に思うことを発信していきます。

ベルリン・アレクサンダー広場

2013年03月18日 23時05分46秒 |  〃  (旧作外国映画)
 「ベルリン・アレクサンダー広場」をユーロスペースで上映中。西ドイツ(当時)のライナー・ヴェルナー・ファスビンダー監督が1980年に作ったテレビ映画、1929年に出版されたデーブリンの原作を映像化した13話とエピソード。15時間の超大作である。噂にたがわぬ面白さ。ファスビンダーは作品が多すぎて見てない映画が多いが、これが代表作という人もいるのがよく判る。順番に見ないと判らないから土曜は12時から全4回続けて観た。入れ替え時間がほとんどなく、朝食べた後8時半ころまで食べられず。しかも最初の2回は立ち見で、通路に座ってみるというテント芝居かという感じ。だんだん座れるようになってきて、日曜日は土曜日の半分ほどの人数に減ってきた。でもその人々は僕と同じく、土日で全部見てる人だろう。僕は全回鑑賞券を買っていたので、順番に全部見ないといけない。最後のエピソードは、22日のレイトショーで見て、ようやく全話完結である。

 テレビ映画というのは、テレビ放映向けに製作された映画で、テレビドラマと映画では画質が大きく違ったし、茶の間で子どもも見るかもしれないテレビでは配慮がいる。画面が小さなテレビではロングショットは避けないといけないので演出上の違いが出てくる。でも、映画というソフトはテレビ放映に重要だから、テレビ局が出資して放映目的に映画を作ることは結構ある。70年代では「フェリーニの道化師」とかスピルバーグの「激突!」などは、好評のため日本で劇場公開されてベストテンに入選している。日本でも小林正樹監督の「化石」はテレビ向けに作られた後で、再編集されて劇場公開された。中でもファスビンダーのこの作品は、テーマ的にも芸術的にも長さの点でも重要な作品と言われてきた。今までもアテネフランセ文化センターなどで公開されたことがあるが、今回ドイツでデジタル・リマスター化され、日本でもソフトが発売された。元がテレビなんだから、DVD鑑賞でもいいと思うけど、まとめて劇場で見る方が安いし、一度に見る気になる。

 僕がこの映画を見たかったのは、昔からワイマール共和国時代のベルリンの「爛熟」した都市文化に関心があったから。例えばマレーネ・ディートリッヒとか映画「カリガリ博士」とか。その怪奇と幻想の世界を栄養にして、猥雑で混乱した文化への対抗としてナチスが支持されたという解釈がよくされていた。70年代には、今振り返るべきは「30年代」か「20年代」かという、今では不毛の論争みたいなものもあった。原作はドイツ最高にして唯一の都市小説という話で、ナチスの政権獲得直前の騒然、雑然とした情勢が反映されているのは間違いない。ただし発表は1929年でナチス後は出てこない。デーブリンはユダヤ人だったから33年にはパリに亡命するので、当然である。原作はぼう大で読んでないけど、映画に関しては都市の街頭を描くというより、都市下層民衆の愛と犯罪を描く大ロマンという感じである。

 光と影をくっきりと印象付ける撮影抒情的な音楽に合わせて、主人公フランツ・ビーバーコップの流れゆく人生が始まる。フランツは恋人のイーダを殴り殺し、4年間の刑務所暮らしを終えて今出所した。そこから「まっとう」に生きることを誓いを立てながら、時には犯罪に関わり、友人を信用し過ぎて間違った道を歩む。時には女たちを渡り歩き、酒におぼれ、ナチスの新聞を配ったり、左翼の集会に出たりする。街頭の商売をやるときもあるが、大体は失業者で、戦間期ドイツの最大の問題だった失業をめぐる話でもある。だんだん友人と思っていた犯罪集団との関わりで身を滅ぼしていく様が冷徹に描かれている。一端は車から落とされ片腕を失うが、本人は仕方なかったと考えてしまう。主人公フランツを演じるギュンター・ランブレヒトという俳優の、心の内面のないような演技が素晴らしい。何度かの出会いを経てフランツとの関わりが続く愛人のエバにハンナ・シグラの名演。それより女をとっかえひっかえし、フリッツが最後まで信じ続ける悪党のラインホルトを演じたゴットフリート・ヨーンが正体をつかめない悪党の姿をリアルに演じて圧巻である。

 1話が82分、エピソードが111分の他は、2話から13話まで大体58分か59分。こういうのがテレビ映画だが、その分話は長くなるが各回に起承転結めいた流れがあるから、退屈しないで見られる。ファスビンダーは演劇は映画のように演出し、映画は演劇のように演出したという。演劇は日本では見られなかったが、映画を見る限りなんとなく納得できる感じがする。今回はテレビ映画なので、演出が判りやすい。ただ中身は犯罪やセックスや飲酒の場面の連続で、テレビだからどぎつくはないんだけど、だいぶ西ドイツでは論議になって深夜にしか放送できなかったと書いてある。原作はやはり都市小説らしいけど、このテレビ映画はほとんど室内劇として作られている。最後のエピソードだけが、幻想的と言うか、フランツの夢の世界でフランツの半生を裁く冥界めぐりになっている。とにかく面白かったけど、主人公が友人関係を学ばずにだんだん悲劇が近づいてくるのが見ていてわかる怖い映画だった。
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「何者」2

2013年03月18日 20時24分21秒 | 本 (日本文学)
 朝井リョウ「何者」について書いた後で、なんだかまだ書きたりないような気がした。この小説はいろいろと語りたくなるところが多い。昔だったら「読書会に最適」という感じだけど、今では「読書会って何ですか?」と言われるのだろうか。今は「ビブリオ・バトル」って言うんでしょ、とか。何で本を読んだ後でまでバトルしなくちゃいけないのかな。あれこれおしゃべりするだけでいいじゃないか。

 僕はこの小説と「横道世之介」を読んで、ケータイやネットは若者を不幸にしたと思ったけど、こう言ったからって、インターネットを無くすわけにはいかない。僕もインターネットという場を通して書いてるわけだし。つまり時代というか社会というか、変わってしまった後では元に戻れない。電気、電灯というものが出来てしまった後で、それを使わないで夜は暗いまま早く寝るという生活はできない。何でもそうである。インターネットというものを使って企業が就職情報を広報する以上、学生側が見ないという選択はできない。その結果、大量に応募することができるようになり、大量に落ち続ける(逆に何社も内定を貰う学生もいる)ということになったとしても。学生側にはインターネット環境を使うかどうかの選択は許されない。ツイッターでいちいち就活戦線を経過報告するかどうかは自分で決められるが。

 だから、その渦中の学生には「インターネットをうまく使いこなす」ということが求められるわけだけど、これでは当たり前すぎる。中にいると、その環境自体を客観的に見ることができない。大学の最後の年は、今まで勉強してきたことの集大成の年であって、本来はその卒業論文なんかの方が重大なはずである。そしてそれを受けて、就職が決まるべきはずなんだけど、今は卒論書く前に大学院の試験さえある時代だ。僕にはそれが本当に不思議で、卒論見ない段階で大学院に受け入れ可能かどうかが何故わかるんだろうか。しかし、そういう時代になっている以上、学生の方はそれに自分の方を適応させないとやっていけない。

 若い時期は恥ずかしいことをいっぱいしてしまう。「勘違い」が多いのである。小説の中の登場人物も、ずいぶん「勘違い」が多いと思うけど、でもそれは誰もがそうなんで心配する必要はないと思う。それを若い人同士が責め合ってしまっては、ものすごく消耗するだろうと思う。お互いに攻撃的になるのも若いからで、家庭環境も違えば個人の能力、容姿なんかも違うわけだし、お互いの羨望、嫉妬なんかも避けられない。でも、そういうのが完全にないのがいいのかどうか。若い時は「勘違い」がエネルギーの基であり、どんどん好きなことを言い合いながらやりあえばいい。だから、この小説の中の登場人物を、僕はごく一部しか知らないので、あれこれ決めつけるように言いたくない。10年、20年すれば、まただいぶ違ってくるし、何がいいか判らない。「観察してるだけじゃダメ」という問題が最後に出てくるが、僕は「観察者」は世の中に絶対に必要だと思う。舞台にたって演じたり歌ったり踊ったりすることだけが重要なんだろうか。演劇評論家、音楽評論家、舞踊評論家…という人が交通整理して批評することで、現場で活動している人が、自分の場所を見つけられるんだと思う。どんな仕事でも、内部に「評論家」がいないと、うまく回らないのではないか。問題は「深い観察か」「浅い観察か」ということの方にあるんじゃないか。

 もう一つ、この小説の中で、大学出たら全部自分で人生を作って行かないといけないんだ、今までみたいに学校に守ってもらうわけには行かないんだよ、みたいなことを言う。それにみんななんか納得してるんだけど、今の学生はこう思うんだと僕はビックリした。そうか、この中では就活の模擬面接で大学の就職部のお世話になりましたという話もあるし、大学生でも「守ってもらってる」のか。確かに私立大学では就職に力を入れないと経営に響くし、得意分野を作って面倒を見てくれるらしい。公務員や教員なんかの試験もずいぶん細かくケアしているらしい。いやあ、そう言う時代なんだ。何十年か前は、大学に入った段階で、親や学校の世話はないものと思っていた。もちろんものすごい大金持ちなんかは別だけど。確かに大学生段階では、学費は親掛かりの学生がほとんどだと思う。だから完全に独立しているわけではないけど、もう親は入学式にも卒業式にも来ないし(子供も招待しない)、大学も必要なガイダンス以外はない。大体高校の進路指導なんかもとくにないし。自分の行きたい大学に願書を出して、試験で決まるだけだし。推薦入試というものは、学校推薦はあったけど、他の制度はなかった時代である。だから大学へ入った段階で、もうほとんど公的制度、または温かな配慮の世界から放り出されていた。それは「横道世之介」なんかでもまだそういう感じ。大学でさえ変わってしまったなんだなあ。それはこの20年間の非常に大きな変化ではないかと思う。
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