チャコちゃん先生のつれづれ日記

きものエッセイスト 中谷比佐子の私的日記

捻挫した

2021年09月13日 10時40分50秒 | 日記
土曜日の夜階段を踏み外し捻挫した
地下鉄に乗っている間20分ほどだがずっと霊気をかけた
人の目など気にしている暇はない

捻挫って久しぶり20年くらいしていない
捻挫をするときはたいてい洋服を着ているときだ
「男歩き」していて、何か足元に注意をしていない
上の空に歩いている

その時も
「勇気をもって言わなければならないな」という言葉を選びをしていたら足元がお留守になっていた
考えるときは体性をきちんと整えてからにしなければいけないな、と霊気を当てながらハンセイ

帰ってからは忙しい
ご飯シップをする準備をしなければいけない
このご飯シップは捻挫や打ち身によく効く
天才整体師に教えていただいた。油紙(亜麻仁)ンご飯をたっぷりのせ、そのご飯のある方を患部に当てる、そして真綿を当て包帯を巻く

翌朝すでに晴れが引いた。ありがたい。早速また新しいのに取り換える
このご飯をどうしようかと考えた、前の時はスカイガーデンに遊ぶ雀がたくさんいたので、その子たちに食べてもらった、そうか公園に持っていこう

まさしく人目を気にしながら鳩にあげる
炊いたご飯は口にしたことがないのか、遠巻きになってなかなか口をつけない
「贅沢言うんじゃあないよ、警備員さんが来る前に食べておくれよ」
と祈るように見ていたら、ぱーっと黒いのがやってきて亜麻仁油紙ごと加えて行ってしまった
「ほらごらん」
ひっさしぶりにあった「からやん」だった

上田夫妻の「カバーるの崩壊」というセミナーに出席することになっていて、今日は歩かない方がいいだろうとタクシーに乗る(贅沢だ)

足を引きずっている私を見て、出席者の一人がマグネット用のシールに特別のエネルギーをいれてくださる。そこへ上田夫妻も加わって強いエネルギーをいただく

帰宅しご飯シップを外したらすべての熱と痛み #を取ってくれたらしくご飯が黄色く合っていた。そこにいただいたチップを張って休んだら、なんと今朝はもう正座が出来た

お礼のメールをしたら
「比佐子さんがもともと持っていた治癒能力を高めるのにお役に立っただけ」

あらためて思う
ケミカルな薬に頼らず昔の人の知恵、更に自分の免疫力を高める方法を熟知したほうが、病知らずの体になるのだと

クラス会に出席するとどれだけ薬を飲んでいるかという自慢話を聞かされる
「全く飲んでいない」
というとシラーとしらけ鳥が飛ぶので、そういう話になるとその場から消える

薬大好き人は次から次に病気を作っている
神様は病気の体を私達に貸していない、だからお返しするときは無傷でお渡ししたい
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人体実験

2021年09月10日 09時43分48秒 | 日記
ほとんどの国民が人体実験に参加している
何のために?
誰のために?
厚生労働省のホームページを見ると○○○○は独自の判断であって強制するんのではないと書かれてる。マスクもそう。
それなのに、みんな恐怖にかられて打ちまくっている
マスクをし続けて免疫を落としている。何時間も自分の吐いた息をまた吸っているのだもの

その○○○○の中身を知っている人は決して打たない
製薬会社と政府の契約の中で、中身の公表はしない、何があっても製薬会社側は責任を持たないという契約があることが、フアイザー社の元副社長から公表された
ビルゲイツが人口削減のために○○○○を作ったとはっきり動画で話している
ある意味正論のようにも聞き取れるほど学生に向けての素晴らしい講義
一分もあればそういう動画はたくさん出ている
自分自身の命を大切にしてほしいとつくづく思う

恐怖が人の判断を狂わす
落ち着いて真実のニュースを探してほしい
そして命を大切にしてほしい、

総裁選がある
日本の国民に真実を告げる人がなってほしい
真実は痛みを伴うことが多い
人は騙されている方が楽だから、起きることを人のせいに出来るから

生ききるというのは真実を知って清く正しく美しく(宝塚の標語みたい)生きて行くということだと思う

いまよりもっともっと平和で皆が誠実で豊かな時代が、もうそこまでやってきている
トンネルの中から目指す明かりがはっきり見えている,
そんな時代を古代の神様たちのように あなうれし、あなたのし、と一緒に過ごしましょう

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重陽の節句

2021年09月09日 10時29分13秒 | 日記
五節句の最後重陽の節句が9月9日の本日(旧暦では10月14日)
菊酒を飲んで一句捻って友と語り合う
わが秋桜舎は市谷に事務所を持っていたころ、スタッフ全員と五節句を祝った
特に重陽の節句は一句出さないとお酒が飲めないので必死

というのはわがスタッフに下戸はいなかったから
一応文章を書くことを仕事としているので言葉は大事にしたし語呂を習得するためには一週間に一冊は本を読むことが義務

ところが
校正はアルバイトを頼んでいたが、その人は「ハーレイクイン・ロマン」の校正者でもあった。そのため当社の校正の時期になると、ハーレイクインの発売されたものがどさっと編集部に来る。さあ大変、校正などそっちのけで読み漁るのが、じつはチャ子ちゃん先生一人

侮ってはいけない、女性心理がよくっ分かるし、世界の富豪たちの生活や趣味、風光明媚な自然描写が参考になる。筋は水戸黄門と一緒で最後はめでたしめでたしとなるが、落ち込んだ時この一冊で元気になる麻薬
そういうわけで(どういうわけだ)重陽の節句の時はいろんな角度からの歌が詠まれてそれを各々が色紙に書き壁に貼る。その中で無記名投票の審査があり、優勝者は「越の寒梅」(当時は幻の酒で新潟の龍言の女将からの差し入れ)一升

日本では数字を大事に思う心がある。陰数と陽数。陰数は偶数で割り切れる。陽数は奇数で割り切れない。ということで陽の数字をめでたいと考えた、その為月と日が陽で重なる日をお祝日とした。一月だけは7日、三月三日、五月五日、七月七日、そして九月九日。数字の中で一番尊い数字が重なる日。この日は旧暦では菊が真っ盛り、それで陽の重なる重陽の日には杯に菊の花びらを浮かせて菊酒をいただく。そうすると長寿間違いなしとされた。今年は特に飲みたい酒だ

日本酒のメーカーには「菊」とついた会社も多い
菊は香りが高く姿が美しい食用にもなることから古代から尊ばれたものだ。秋の花の王者。また菊の香りは悪魔払いもするといういわれがあり、平安時代から宮中では「秋蚕」の繭を真綿にし、その中に菊の花を包み部屋の四隅につって悪魔祓い儀式をしたという文献がある。今の宮中でも行われているのだろうか?私達で実行しよう。先祖がなさっていた尊い習慣だもの

本日は菊酒を飲み長寿と悪魔祓いをいたそうではないか
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着物が繋ぐもの 448

2021年09月08日 09時15分02秒 | 日記
24節気の白露(9月7日)に入ると、チャ子ちゃん先生は着物の整理を始める
まず麻の着物を点検、着るたびに霧吹きかけて物理的な汚れは絹石鹸で洗っている。そのあと寝押ししているので、悉皆屋さんに出す必要はない

紗とか絽の着物はじっくり点検、大体汚ごれている、汚しの天才!と悉皆屋さんに言われている
染み抜き、生き洗い、そして解き洗いと分ける。襟とか袖口の汚れはそのつど「襟元」で真綿を使って落としているのでこちらはアイロンをかけて仕舞うので、ついつい面倒で後回しになり、季節が通り過ぎていきあわててたたむだけにしてしまうこともしばしば

解き洗いは丸洗いを3回ぐらいするともう汚れが落ちにくくなり、全体にくすんだ感じになるので解く。忙しい年代は悉皆屋さんに解いてもらっていたが、ここ30年は自分でほどいている。これがなかなか楽しい

解く事の発端は、「えらそうなことを言っても着物一枚縫えないくせに」と陰口を言われたことが在る。まさしくその通りでいまだに着物一枚縫えない。それで悩んだこともあるがわたしの仕事は別にあるという結論を自分に与え、その代わり着物を解いて、仕立ての勉強をさせていただいている

着物はこうまで丁寧に縫ってあるのかといつも感心する。昨日なんと40年ぶりの着物を解いた。夏の色留めそでなので着る機会も少なく、丸洗いも三回してそのまましまっていた。この夏その色留めそでを浴衣風に肌襦袢と湯文字だけで着ていたら、さすがに色あせた感じと、なんと墨をつけてしまった。墨は落ちないので悉皆屋さんに頼んで柄を書いていただくつもりだが、解いていて感動した

この色留め白地の絽縮緬に紫で葦の葉を手描きしている。白地なので当然白絹糸で縫ってある、と思いきや模様の些細な葉っぱのところまでも、その都度紫の絹糸に替えている。その細やかな配慮に胸を打たれた。もちろん襟ぐりのカーブの布のたたみ方(最近は切り込みを入れてカーブを出している人もいる)袖口のくけ方、袖の丸みの処理、今の和裁士の縫い方とどこか違う。途中から解くのがもったいないと思ってしまった

この色留めは竺仙の先代社長と、尾形光琳の絵の中の葦の様子だけを引き出して染めていただいた。その時どうしても絽縮緬がいいと駄々をこねると
「比佐子さん絽縮緬は昔縮緬浴衣によく使われていて、堅気の人はあまり着なかったけどね」「だからめでたい席で着られるものをつくります!絽縮緬が喜ぶ」
と言い返した時の社長の顔まで目に浮かぶ
社長は仕立て職人も最高な腕の人を選んでくださっていたのだと、いまさら気づく。解いてしまったら、社長に、仕立て職人に、きものに感謝の気持ちがより深まった
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やんごとなきお方のこと

2021年09月07日 09時36分52秒 | 日記
皇女が駆け落ちのような形をとってまでいわくつきの家庭のお嫁さんになる、というニュースが多くの人の話題の種になっている

昭和33年、美智子上皇妃殿下が皇室に上がるというニュースが流れたときの国民の落胆と、新しい皇室が開けるという大歓迎と二つの意見が姦しかった
「血筋」ということを厳粛に守ってきたお家柄に平民という新しい血が入ることを、多くの人は恐れた。つまり「神聖」さがなくなるというのだ

「神聖」というのは神に近い、神の代理としての天皇陛下であると認識していた戦前の人たちにとって、そのお子がなんとまあ「平民」自分たちと同じような家庭の娘をーーーと混乱した

しかし戦後生まれの若い世代は、天皇の成り立ちが日本の歴史であるという教育を受けていないので
「別にいいじゃん、どこがいけないの」
という感覚で、正田美智子さんを「スター誕生!」という感覚で受け止めていた

いち早くその若い人の感覚をビジネスにしたのが「女性自身」という週刊誌、皇室専門の記者とカメラマンを設置し毎週正田美智子さんの「お妃教育」の現場を発信した。発刊間もない週刊女性自身は瞬く間に週刊誌の王座に君臨。ここで皇室は神代の時代から続く「やんごとなき」お方ではなく、一般庶民と何ら変わらない家庭という感覚になった

今でも皇室の使命をキチンと理解できている国民はどれほどいるのだろう、皇室の中にも使命が分かっていない家族がいるということが、この度の話で露出している。

後嗣の長女の行動が、逆に皇室って何だろうという疑問で過去を翻って調べ始めた人達も多く,
その結果をアナログやデジタルで発信している

世界中が様変わりする中、日本だけが無傷でいることはなく、皇室というアンタッチャブルなところからななにかが大きく変わる兆しが見えてきた、ということかもしれない

賛成とか反対とか言う前に、日本の歴史をしかと認識し、そのうえで、ご自分の考えをまとめるのが日本人の知恵というものであろうか

皇室は日本の伝統文化の継承をしっかっりなさっている、天皇陛下の日々の行事は表には見えないけど、日本の繁栄、世界の平和の祈りをなさっている。そのことを私達は感謝して日本を愛し続けたい
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クラッシックバレエ

2021年09月06日 11時00分12秒 | 日記
チャ子ちゃん先生クラシックバレエをはじめたのは70歳、13年続けた
長く生きて、更に仕事も続けていると、どうしても先輩としての境遇に甘んじてしまう。どこか恥じらいとか、謙虚という態度が薄れてくる
そういう自分自身を好きでなくなったとき、何か自分を鍛えなおすことはないかと思案していた。その時分、自分の体に贅肉が付き始めた

上の姉のお姑さんが
「比佐子ちゃんは姿がいいねえ」
と褒めてくれたことが在り、その言葉をずっと朱塗りの引き出しに入れていて、気分が落ちこんだ時それを取り出し元気付けていた。そのため姿を維持するためには暴飲暴食は控えていた

しかし
根が食い意地が張っているので、年経るうち、運動不足と共に贅肉が付き始めていた。48キロをキープしてい他にもかかわらず、60代に入って5キロも太り、顔も真ん丸。然も膝が痛く正座が出来なくなっていた。駅の階段も足が痛いので、新宿は最も苦手になった、その為ついついタクシー移動という散財が続いていた

久しぶりに着物サロンの編集者Mさんんと仕事で出張、彼女の身の軽さ、のびのびとした手足の動き
「何か運動をやってるの」
「バレエですよ、そうだ先生見にきて発表会があるので」
その舞台でMさんは溌剌として美しかった
「音楽に合わせて体を動かすのって気持ちよさそうね」
「先生はいりましょうよ、いくつになって始めても大丈夫ですよ、シニアクラスがありますから、それにバレエの先生はとても親切でお人柄が最高ですよ」

うかうかと入会
そしてすべての問題が解決した
とにかく何もできない、一から教わるの、しかも体がなかなか覚えない、それでも先生は優しく指導してくださる。クラスで最もできない劣等生、傲慢という漢字が失せる、週一回90分のレッスンで1か月でひざの痛みも消え正座が出来るようになり、お茶会に参加できた

骨格着付けを広めている身だが、バレエの骨の使い方が、まさしく着物の骨使いと同じ、こんな素晴らしいものを紹介してくださったMさんに感謝。しかも出っ腹が段々小さくなっていく。姿勢を正すことが姿を美しく見せることを実感

ついにトーシューズを履くまでになった。これがなかなか難関。他の同級生は簡単にトーシューズで歩いているが、私はへっぴり腰。その姿が前身鏡に映るのでおもわず笑ってしまう

人の後ろをのこのこついていくという屈辱も克服、できないことが出来る喜びに変わることの方がうれしい。それに手を貸してくださる人々の優しさがうれしい

ここ二年休んでいたが
先日「白鳥の湖」のバレエ公演を見て(日本人のバレエ公演は初めて)、その美しさ優しさに触発され、再度挑戦を始めるぞ!と客席で決心した次第
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着物が繋ぐもの 447

2021年09月05日 09時54分04秒 | 日記
夫唱婦随、加藤史郎さん夫妻
帯の仕立て職人になって65年
「15歳の小僧時代を入れるとそういうことになるかな」
「小僧時代は何年?」
「10年だよ」
「そんなに長いの?」
「帯の仕立ては3年で覚えたね、行商があるんだよ。当時は自転車で都内をぐるぐる回ったね」

師匠の家に28人が住み込み、そのうち男は二人、どうしても荷物持ちになる。仕立てて届けて、仕事をもらってくる。一日一本は仕上げる
今でもその速度はキープ。足の指に布を挟んで縫っていく針運びの速さは格別

奥方もその住み込みの仲間
「お二人とも可愛かったのでしょうねえ」
「うんそうだよ」
(・_・D フムフム

お二人とも80を超えた、奥方は60歳まで現役だったが、注文が少なくなり手を休めている
お礼奉公を2年して独立、新たに仕事を取らなければならないが、その行商の時代に営業のコツを覚えた。その成果ですぐ新しい得意先が出来、常に6人以上の弟子を抱えていた。そしてその弟子たちがまた独立していき、時代も着物を着る人が少なくなり、注文数も減って今は一人

チャこちゃん先生は、きちんとした帯の仕立てをする人を長く探していた
特に名古屋帯をぴちっと、ぴちっと仕立てる人に中々巡り合わなかった。特に縮緬の帯に納得がいかないまま過ごしていた時「名人がいる」という話で早速縮緬の帯を注文。出来上がりの美しさ、ぴしっとした仕立て上がり、締めたときの心地よさ、そしてお太鼓の丸みが形よく決まること、すっかり御贔屓だ、大フアン。届けてくれるたびどんな雪の日でも素足
「冷たくないの?」
「指を使うからね、あったかい靴下や足袋履くと指がねむっちゃうよ」

この言葉は仕事場に行って分かった
加藤さんのぴしっとした仕立ては足の指が大活躍、布を指が引っ張りそのことは体全身を使うということだ。素足で指を鍛えているのだと納得
表の生地と帯芯のなれ合いを生かすため、布を縫う時の針の音色を聞き分けるときも、足の指で布を引っ張っていないとわかりいくい。足の指をぃつも敏感にしておくのだ。素足でいることは帯づくりに欠かせない

昭和の時代は、職人がキチンお仕事をしていれば家を持てた時代だったなと思う。加藤さんは杉並に家を建てたのが30代後半。自分の仕事に信頼と自信をもって生きて来た。ふたりの素晴らしい笑顔の写真をわたしのFBにあげている。いつまでも見ていたい二人の笑顔。この顔がこれからの時代のみんなに訪れるといい
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何がほんと?

2021年09月03日 10時20分23秒 | 日記
何がほんとかわからない時は何も考えず、どの意見にも同調せず、気を紛らわすこともせず、静かに自分の中にいる。そうすると光が見えてくる、その道に進めば問題は解決する。チャ子ちゃん先生はいつもそうしている。しかしそこに欲や我が入るとすべてが逆の結果になり痛い思いをする

何回も痛い思いをしているのに、やはりひとを「善」と考えたい気持ちが強く、其れで判断を間違うケースがたくさんあった
そういう失敗を重ねてきたので何を信じるかが明快である。友人、知人の中には「神」を信じないと公言する人もいるが、私は「神」を信じる
だってこの体いったい誰が作ったの?完璧なこの体、五臓六腑、手足、五感、細胞や血流、動いたり考えたり、しゃべったり、こんな楽しいことをさせてもらっている体と心、いったい誰の制作?

そこの考えを基準にして「神」に問う
いろんな形で回答が来る。通りすがりの人の一言、電車の差内刷りの言葉、ちょっと耳にしたテレビドラマのセリフ、電車で隣のおじさんのが読んでいる新聞の見出し、自然の中の色やにおい、あらゆる手段を使って返答をしてくれる。時に自分の中からも答えがわいてくる。そのため自然の中を歩いたりするのが好き

人のほんとと自分のほんとが違うこともある。その人は何を基準にいして「本当」と思うのかをよく吟味すると、たいていテレビでみた、ラジオで聞いた、新聞で読んだ、あの人から聞いた、とご自分で考えた「本当」ではないことが多い。多くの人が自分で考えることをしなくなったのだなあと思う

少し前はよく議論を吹っかけられた。ちょっと生意気な人が寄り集まると議論沸騰。その時人の言った言葉を使う人は軽蔑されていた「自分の頭で考えろ」「心からそう思うか」などの言葉が飛び交った。戦時中の「右へ倣え」「大本営発表」の愚を犯したくないと考えていた世代だ

富士は動かず、開けて渦巻く鳴門の仕組み、一二三神事から学んだ言葉。今必要な人の行動だと思う。

自分の本当で生きて行こう
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戦争体験 15(戦後)

2021年09月02日 09時01分22秒 | 日記
9月2日本当の終戦はこの日。この戦争体験もひとまず終了
父母と上の姉は関東大震災まで東京に住んでいて、地震後故郷の大分に戻った
父母は二度の社会の転換期を過ごしていたのであのように落ち着いて子供たちを守ることが出来たのかもしれない。どんな境遇にいてもそこで精いっぱい喜びを見つけて過ごす両親を心から尊敬する

父はこの東京生活で「内村鑑三」先生の弟子になり、聖書の勉強をしていた。偶像を拝しない、教会を作らないという無教会の集まりで幕屋で聖書研究をする

その父は戦前から大分市の隣、別府に事務所を構えていて、別府は焼け残りその場所を「別府集会」として昭和21年から毎日曜日集会を始めた。82歳で死ぬまで続いた。学校の先生や公務員、主婦などが集まり、窓からのぞく戦災孤児たちを温泉に連れて行ったりしていたらしい。のちにその戦災孤児が大分大学まで進み、教職員組合に就職して、別府集会の世話係となっていた

父は子供たちに強制はしないので私は気が向いたら行って、讃美歌の伴奏役を務めていた
姉は父に殴られたその週から聖書研究の人となり欠かさず出席していた。この無教会のグループは各地横の連絡が密なので、しばらくしたら姉の結婚相手も決まり、集会にいらしていた富豪のお宅で結婚式が行われた。着物にチュールをかぶった和洋折衷が面白かった。集会に集まる人が増え事務所は手狭になり、その富豪のお宅が幕屋となった。内湯に温泉も引いているのでそれが一番の魅力で、私も時々父についていって伴奏を受け持ったので、讃美歌には詳しくなった

姉の婚家先の姑も茶道の師匠で姉はすぐ若先生として姑のお役に立ち、夫とともに聖書集会を開き、茶道を教えるという環境で93歳死ぬまで「現場」にいた

下の姉も父の見立て通りお金つくりが上手な夫で不自由はない

問題は我が家の御曹司
戦後の教育改正に全く馴染めず、というより社会のアメリカナイズに不服従。成績もよく父の跡を継ぐべく法科を目指して司法試験もうかりながら、何か納得できず親に内緒で「共産党」に入党 家を出ていった

五年後脱党して一般社会人として生活を始めるが、軍国少年の心の傷は一生治らず、結婚して一子をもうけながらも、父との心の隔たりは埋まらなかったようだ、母はその間に入り見守るという姿勢しかできなかった

社会人になり久しぶりに父の聖書集会に一緒に行き、オルガン弾いての帰り道、「ヒサちゃんが男の子だったらな」とぽつりとつぶやいた言葉に、兄に対する無念さが伝わってきた

その兄が両親の最後をみとってくれた。

戦争は戦地で戦う人も残された人もみんなそれぞれ傷を負う
その傷を学びにかえることは並大抵な精神力と知恵が必要。日本人の多くはその知恵を持っていて、社会の転換期をプラスに変えていった。

この度のコロナ戦争も日本人は知恵を出し合って生きて行けるのだろうか
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戦争体験 14(戦後)

2021年09月01日 15時07分14秒 | 日記
ラジオをつけると「訪ね人」の番組。まだ民間放送がない時代でNHKは夜の12時になると「君が代」の音楽で放送が終わった。それまでのほとんどの時間は復員してきて、自分の家族が見つからない、また空襲で離ればなれになった家族の安否、引き上げの家族が自分の親戚を探す。という放送であった

「何がなくとも家族全員顔がそろっている」と母は口癖のように呟いていた
もともと世話好きの母は、すっかり長屋のおかみさんになって、自分のうちに食べるものが集まると隣近所にホイホイ配っていて、わたしが食べようと大事にしていたバナナまで人にあげてしまうありさま。そのころバナナは高級品で、お客さんが弁護士料のかわりに持ってきたバナナを、目ざとく見つけて自分のエリアに隠し持っていたのに、いつの間にかなくなる。狭い家なので隠せない

「ヒサちゃんはまた食べられる、でもあの子は当分食べられない、だからあげたの」とケロリという
その子は二親を戦災で亡くし親戚の家に来てた。その親戚は焼け残ったおおきなお家だったが、住んでいる人はヒヤッとするほど冷たかった。母が目をかけるのも一理あるなと思った

学校では復員してきて兵隊さんの格好した先生方もいた。そのうちの一人が担任で、2年間受け持たれた。国語がお得意で教科書を大きな声で読ませる。本の持ち方も手をまっすぐに伸ばして姿勢を正しくしていないと、鞭を持っていて机をたたく。お弁当を食べていない子はお腹に力が入らない、先生はそれでも容赦しないでいた。そして職員室にその子を呼んでお結びを渡しているのを見たことが在る。鞭を持っていたがとてもやさしい先生で、遊ぶとき、勉強するときけじめのついた教育をしていた。そのためみんな先生を慕っていた。

中学に上がってもまだ復員帰りの先生がいて軍服を着ていたし丸坊主であった。復員してきた先生たちはきびきびしていてそして優しい。社会科、国語、どういうわけか英語の先生も復員帰りであった。この先生方は日本の古い歴史や日本の知性、更に日本の特徴などを教えるのが好きだったようで、「教科書は読めばいい」という態度であったので、授業が面白かった。英語の先生は、音楽も受け持っていたので、英語の歌をおそわって文法は後回しであった

地方都市はまだ日教組の教え方が波及していなかったので、先生たちの個性が生かされていたのだと思う。自由気ままな小中学生生活だった

戦後10年くらいまでは地方によって教育姿勢が異なっていたのだと思う。それは高校でも言えて、わが高校は県立でありながら自由で開放的であった。お爺さんおばあさんになってもいまだに「ちゃん」呼ばわりで集まって遊んでいる
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