チャコちゃん先生のつれづれ日記

きものエッセイスト 中谷比佐子の私的日記

戦争体験 13(戦後)

2021年08月31日 09時44分17秒 | 日記
お年頃の姉たちは庭にへちまを植えへちまの実を食べたり、乾かして体を洗うのに使ったり、茎から落ちる汁を化粧水にしたり、ヒマワリの種から油を採ったり、林の中で松葉を拾ってきては乾燥させて石でたたいて煎じて飲んでいた(今松葉のジュースは大流行)

防空壕に貯蔵していた母の漬けた梅干しがどれだけ役立ったか、歯が痛いとか、頭が痛いというと梅干しをすりつぶして患部に貼ってくれた。あら不思議。熱も下がり痛さは消える。毎年梅をつけていたので甕が3つもあって、戦後もすぐ梅干しつくりを始めていたので、我が家は梅干し大尽。特に青梅で作る梅エキスは万病に効いた

口紅はどうしたかと言えば、下の姉が「京紅」を持っていて上の姉と分け合って使かっていた。どこから京紅が渡ってきたのか聞かずじまいでわからない。
幸い卵は弁護士料の代わりによくいただいていたので、髪は卵の白身で洗い、黄味は生で飲まされていた(苦手だった、私の体は完全ではなかったので、よく飲まされた)

そうそう私の仕事は一升瓶の中に玄米を入れて棒で衝く、その時出る糠を紅絹に入れて(当時は着物の裏は紅絹だった)彼女たちは顔や体を洗っていた。使った後は庭で干していて、いよいよ使えなくなると廊下や柱をそれで磨いていた

茶碗を洗うのはヨモギ、ヨモギを摘むのも私の仕事だった。当時は冷蔵庫がないのでその都度つみにいく、しかし季節が変わると無くなる。そうするとやはりここでも米ぬかが活躍、まだたくさん草にお世話になったけど記憶があいまい。母はどうしてこんなにもくわしかったのだろう。きっとこの当時のお母さんたちの知恵はもっともっと深いものがあったに違いない

こうやって思い起こすと当時はケミカルのものは一切口にも入らないし、お掃除洗濯にもつかっていない。そうだ海藻も大活躍していたな、歯は塩で磨けと言われたし、絹物もふのりで汚れをとり、糊にもなった。ご飯はかまどで炊いていたので、灰がたまり、その灰を溶かしてお鍋を洗ったり、最後は植物に撒いたり。70年前はすべて自然との共存共栄の中で生活をしていたのだ

女たちの生活の知恵のおかげで、戦後の混乱もやりすごすことが出来た。そういう女たちの生活態度を見て男たちは生き残った家族の命を守ろうとして頑張ったのだと思う

今まさしく毎日の生活をケミカルから自然に戻そうと思う人達が増えてきたし、おそらく時代もその方向に進むことだろう。知恵のあったお母さんたちは鬼籍に入っている人も多い。残っている方にはその知恵をもっと伝える義務がある。ボケてる場合ではない90歳以上の女性さん❣


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戦争体験 12(戦後)

2021年08月30日 07時32分38秒 | 日記
たまに日曜日下の姉のお供で繁華街に出る
街の中は足のない、また片腕のない傷痍軍人がアコーデイオンで軍歌を弾きながら投げ銭を待つ姿があちこちで見られる。そのわきで戦争孤児たちが、靴磨きをしたり、いかがわしい新聞を売ったり、闇のたばこを売ったっりして日銭を稼いでいた

姉の目的はお付き合いが始まった男とのデートに、私を出しに使っていたのだ。そういうこととは気づかず、アイスキャンデーや、洋菓子につられ、帰りに本も買ってもらったりしてご機嫌だった。しかし町の中の進駐軍とか戦災孤児、傷痍軍人の姿に胸が痛み、二人の話など全く耳にも入らず、あの人たちは夜をどう過ごしているのだろうかとそればかりが気になっていた

焼け残った画廊があり、そこの一角にお茶を飲むところがあって、姉たちはいつもその画廊で落ち合っていた。私はおとなしく画集を見たりして過ごしていたが、そこの店にも傷痍軍人たちが奏でる軍歌が聞こえてきて、軍歌の何曲かを覚えてしまった。彼らがよく奏でていたのは「ここはお国の何百里ーー」という曲だった(今でも歌える、自慢にはならないけどーー)

町に出たついでに、姉と前に住んでいた町に行ってみる。見覚えのある建物は寺の一部と、乾物屋の倉庫、そのほかは簡単に建てられた家が軒を並べていた。我が家だった土地の上には、庭もない簡易住宅が三軒も建っていて、子供たちが出入りしていた。庭にあったボンタンの樹が健全でいて実をつけていたのには驚いた。

ザボンの収穫期になると、書生さんと兄が木に登って実を落とし、姉やお手伝いさんたちがキャーキャー言って受け取り、それをまた私が小さい腕にいっぱい抱えて母のところに持っていくというザボンリレーがとても楽しかった。ミカン箱につめて母はあちこちに送っていた。玄関わきにあった柘榴の樹は消えていた。兄が二階の窓から屋根を伝って柘榴の実を取ってきて絵をかいていたねえ、と姉と懐かしく話し合う

結局姉はそのデートの相手と結婚をしたのだが、戦後といえども「自由恋愛」というのはまだ許されず、相手は格式高い家の御曹司、今長屋に住んでいる娘とはーーーと親族の反対があったらしい。父はその相手を見て
「お金つくりにたけている男だ,生活力があり、これからの時代に向いている」
という評価で賛成も反対もせず、成り行き任せでいたという

交際1年でめでたく式を挙げた
その花嫁衣装があちらの家に伝わる三枚重ねの赤白黒の衣裳でなかなか見事なものだった。家で支度をし、三段重ねの花嫁草履を履いたまま座敷から降りていった姿を今も覚えている。戦後5年、姉は22歳になっていた
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イベルメクチン

2021年08月29日 11時05分09秒 | 日記
イベルメクチンのことはもうどこかで耳にした人も多いと思う
コロナはこのイベルメクチン一粒で完治するということが分かった。ワクチンを打った方や、打った方から移さされた人にも効く。しかもこの菌は日本の土壌菌から生まれたという安心感もある

トランプ大統領はコロナにかかったとき、このイベルメクチンで短期間で完治したことは有名な話。それをもっと大量に作ろうとしたけど、妨害になって断念

このイベルメクチンを作り上げた北里大学特別栄誉教授の大村博士が、1987年に静岡県伊豆の土壌菌の中からアベルメクチンを発見「回虫」駆除に効果貢献があり動物のオンコセルカ病が撲滅できた成果で、2015年にノーベル生理学賞をいただく。その後人間にも効果があるかどうかという、臨床実験の結果こちらも、コロナにかかった初期の患者に使用したら100%効果があった

このことは長尾クリニックの長尾和宏医師のところで、数百例の治験が出来たという。新しく流行しているデルタ株にも効き目があるそうな

東京医師会もこのイベルメクチンの服用をすすめている。コールセンターも設置された
厚生労働省のHPにも記載され始めた

北里大学の先生方もイベルメクチン普及のための論文制作に力を注いでいる

大量にイベルメクチンの制作をする製薬会社が現れ、安倍のマスクのように各家庭に配れるような日本になるように、みんなでイベルメクチンを応援しよう

どうしてイベルメクチンが大量に市場に出てこないか、もうお分かりのように利権を持つ製薬会社とそれに群がる利権好きの方々の手によって止められている
これから社会を担う子供たちの為にも私たち大人が正しい姿を毅然と見せて行かないといけない
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戦争体験 11 (戦後)

2021年08月28日 09時14分48秒 | 日記
長屋に音楽家が引っ越してきた
ピアノが運ばれ家族の引っ越しが終わると早速ピアノの音が響き始めた
吹っ飛んだ家にもピアノがあり下の姉がポロリポロリと練習をしていた。姉が喜んでそこの内を覗いたらなんとレッスンに行っていた先生家族だった!

早速姉は私を引き連れ弟子志願、ピアノの音が響き始めると軍医のお嬢さんも、またほかの家の子たちもレッスンをはじめ、瞬く間に10人のお弟子が誕生
(その音楽家の長男はのちに大分大学の教授、次男は(私と同級生)東京芸術大学の名誉教授になり、三男はジャズピアニストとして名をなし、長女はオペラ歌手という一流音楽家家族)

戦後の人心が落ち着かない中で、長屋に素晴らしい音の響き、私はすっかり虜になり、熱心にレッスンに通いはじめ、めきめき腕を上げた。特に同じ年の男の子との競争に負けん気を出していたのだ。
父母は私が初めて人と競争する姿を見て、「もう大丈夫やっと健康になった」と胸を撫ぜ下していたという

学校で遊び暮らしていたのに学校が終わると一目散に帰り、レッスンを受けていた。その成果が上がりなんと6年の時音楽家の男の子を差し置いて、学芸会で私がピアノソロ仰せつかり、張り切った上の姉は、真っ赤なタフタの生地を買ってきて、可愛いワンピースを作ってくれた。

しかしその姉は日々崩れていった
アメリカ兵が街にもあふれ、その男たちにぶら下がって歩く女達、また年頃の姉はそういうアメリカ兵に目を付けられる。誇り高き県立女学校の生徒であった同級生たちの中にも、アメリか将校の囲い者になって、裕福な生活をし家族を助けている人も出てくる。人生をともに歩く日本の男たちは戦地で亡くなっていて、結婚のお相手はいない

女は家庭に入って家族を支えるという教育で育った姉は、男女平等が叫ばれ、アメリカ文化が最上と教える風潮について行けず、どこに自分の軸を置いていいのか戸惑っていた。その戸惑いがマージャンを覚えたり、たばこや酒をたしなんだりとするようになり、お化粧も濃くなって、そばに行くのがこっわいなあと思っていたある晩

ちょっと足をふらつかせて帰ってきた姉を、父がさっと首根っこを捕まえいきなり両頬をパンパンと殴った!しかも家族全員の前で。生まれて初めて見た父の怒りにうろたえた私は大声で泣き出した。母はその私をしっかり抱きしめ、耳元「で目をつむてて大丈夫だから」とささやく

姉はその場に倒れて静かに泣いていた、父は姉の手を取って外に出て二人で話し合ったらしい。父が子供に手を挙げたのは後にも先にあの一回

次の日から姉は落ち着き、其れからは茶道のお稽古に身を入れ、父が毎日曜日行っている「聖書集会」に父のお手伝いとして顔を出し、93歳で死ぬその日まで茶道と聖書から離れなかった
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戦争体験 10

2021年08月27日 09時14分51秒 | 日記
30分歩いて学校に通うということがよかったらしく、私はみるみる健康になり、友達も増えて学校がとても楽しくなった
新しい学校での通知表を持ち帰ったとき兄が
「ヒサちやんこんな成績悪いの?」
父が
「今は元気に毎日学校に通うのが一番、教室できちんと授業うけているればそれで充分」
確かに往復一時間あるき、帰りはあちこちより道をするのでさらに時間はかかっている、そしてお休み時間は友達とドッジボールやかくれんぼうするので、家に帰って教科書など開く気力もなく横になる。予習も復習もしない毎日だった

しかし夕飯が終わるとお天気のいい日は父が私を散歩に連れ出し、兄が通う中学校の運動場で星空を見ながら、星の名前やその物語を教えてもらい、そのロマンの話がとても楽しかった。


冬が近くなって一人一人の冬布団が必要になり、母は生地を求めて闇市に行くと、昔の家の近くの布団屋さんと出会い、早速生地とワタを仕入れてきたちょっと興奮気味。それから毎日女たちは母を手つだって布団づくり。私はもっぱら真綿を引っ張る役目。ミシンはやはり焼け跡から取り出していたが組み立てることもできず、疎開先にほったらかしてたのを、兄が行って自転車屋さんの指導の下めでたく組み立て動くようになっていた。当時の足はすべてリヤカーだ。

今思うと爆弾は家は吹っ飛ばすけど、什器や本などは土にまぎってしまうので、無傷のものもある。本も随分掘り出していたし本箱も組み立てることが出来た。お天気のいい日は本を干して泥を落とす作業も私の仕事だった

姉たちの時代は小学校後年になるとお裁縫が必須だったらしく、着物も洋服も縫えるようになっていたし、下の姉は編み物が好きで編み物の先生のところに通っていた。そのおかげで私のセーターはすべて姉の手によるもので、いろや形の希望は却下され、姉の好みのものになるので、私は不満だったが、そんなことを言える時代ではなかった

同級生の中には同じ洋服を毎日着てくる子もいたし、弁当を持ってこない子もいた。みんな疎開から戻ってきたけど、住むところも食料もままならないという状況だったと思う。その話を母にすると
「薪集めを手伝って」といって家に連れてきなさい
3人の男の子と2人の女の子に声をかけて、土曜日の午後林の中で過ごした。家に帰るとどこでどう工面したのか母の手作りパウンドケーキと麦入りのお結びが廊下にお盆と一緒に出ていて、みんな目を輝かしてキャーキャー喜んだ

この子たちはその後母との交流が母が死ぬまで続いていた
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戦争体験 9

2021年08月26日 09時49分31秒 | 日記
新しい長屋の住処には家具らしきものはない
まだ戦争中に兄たちが命がけで焼け跡から掘り出した什器、または衣類、本、そそいぇ防空壕に入れてあった家具調度品が唯一の家庭道具であった

配給米は玄米だったので、子供の私は一升瓶に入れた玄米を棒で衝いて、お米から皮を外すさぎょうをさせられていた。長く持つ芋やカボチャがよく食卓に並んだ。父のお客さんが弁護士料代わりに缶詰を持ってきてくれて、その中の桃の缶詰のおいしさに感動をしたのを覚えている。食べられるものは何でも口にした
母は私の腎臓病で培った薬草の知識があったので、林の中から食べられる草やキノコを採集してきて食卓に載せた。味噌醤油も配給で、さいわい米穀卸組合に勤め始めた姉のおかげで塩も手に入れることが出来たので、野草もとてもおいしかった

ガスなどなく薪で煮炊きをするので、明るいうちに林に入り落ち葉や枯れ枝をかき集め手伝っていた。父も兄も姉も弁当持参で出かけるが、焼け跡から持ってきたおかまが大活躍。母は早くから起きて火をおこし、水は水道が来ていたのでそれだけは助かっていた

梅干しは防空壕に蓄えていたので、弁当に大活躍。焼け跡から掘り出した重箱を弁当箱として使っていた。漆の強さはすごいねと姉たちが感心していた。中身は覚えていないけど梅干しを入れる役目は私がしていたので、必ず梅干しが入っていたのは記憶がある

時にお芋だけという日もあった

私はまだ療養中でゆっくりした日々を母の手伝いをしながら過ごしていた

姉たちが日々おしゃれになって元気になり、自分が着る洋服を作ったりしていて私との接触も少なくなったころ、裁判所ではもう法廷衣裳は着ないということになり、父の法廷衣裳を解いて素敵なワンピースが出来上がり、それを見た私は一気に「綺麗な洋服を着たい」という願望がふつふつとわいて、体中に血がみなぎりはじめ、綺麗な洋服を着たいばかりにどんどん元気になっていった

そういう私を見た姉は、これも焼け跡から掘り出していた、彼女の真っ赤な無地の防寒コートを解いて白い襟をつけたワンピースをこしらえてくれた。そのワンピースを着て学校に行きたくなり私は徒歩30分の町の小学校に母と共に転校届を出しに行った

早速4年生のクラスに転入。真っ赤なワンピ―スが強烈なインパクトを与えたらしく、大騒ぎで受け入れられた。この日を機に勉強よりみんなと遊ぶことの方が楽しくなった
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戦争体験 8

2021年08月25日 09時15分45秒 | 日記
家族全員が同じ家に住むようになったのはあの自宅が爆弾で吹っ飛んでから1年半が経っていた
その間に幸せなことに父の一番下の弟も母の弟も戦地から戻ってきた
母の弟は出征したときがもう40を過ぎていたので、出征の知らせを受けたときは6歳と4歳1歳の女の子がいて、この話を聞いた母は
「女手一つでこれから暮らしていくのはご苦労なことだ」
「まあおじさんまで戦争に駆り出されて日本は負け戦だわ」
と姉が言うと、周りの人が「しー」と口に手を当てる

普通のおじさんたちが戦争警察のようになっていて、ちょっとした反戦の言葉を聞きつけると、軍に密告する。大分市にも航空隊や軍需工場があるので、敵機はそこをめがけて爆弾を落とす。姉たちはその軍需工場で働かされていたのだが、大人になって聴いたことだが、爆弾が落ちるとその爆風で人が数十メートルも空中に飛ばされ落ちて大地に打たれて亡くなる
青春真っただ中でそういう惨事を見てきたので、平和がことのほか尊いといっていた。しかしその時受けた心の傷は一生消えることがなく、逆に生きていることの価値を大切にして過ごしていた。そのため二人の姉は私の病気治療に積極的に参加して、遠くまで食料の買い出しに行ってくれたりしていた。
後に三人姉妹が顔を合わせると「ヒサちゃんを救ったのは私達ヨ」とくぎをさされるのだが、ふたりはいつも病床に私がまだいるみたいに丁寧に付き合ってくれた

その姉たちはまだ敵機が内地に来ない頃、お茶のお稽古、お琴のお稽古と日曜日着物を着て出かけていたのだが、大日本国防婦人会というのがあって、そこに入っているおばさんたちが街角に鋏を持って立ち、長い袖の着物を着ている姉を呼び止めて
「戦地の兵隊さんたちが戦っているのに、なんですかその恰好は」
と叱咤されてお袖をチョキチョキと切られた

それ以来長い袖は内側に折りこみ、モンペをはいてお稽古に通ったという
その婦人たちは日ごろから顔見知りの人たちもいて、その人に助けを求める目を向けても、もう目を吊り上げて一緒に叱咤していたそうだ

人というのは与えられた立場で性格も変わっていくのかしらと姉たちは思って恐ろしくなったと話してくれた

防空訓練というのもあった
末っ子の私は免除されていたが、父を除いて(父は戦争反対者だからみんなの前に出られない)家族全員が道路に出て、敵が来たら竹やりをもって戦う練習をさせられていた。また消火訓練というのもあり、バケツリレーで水を運び梯子を上って火事になっている家に水をかけるという。動作ののろい人たちを例のおじさんやおばさんが大声で怒鳴りつけていた

こういう努力もむなしく我が家は一発の爆弾で吹っ飛んだ
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戦争体験 7

2021年08月24日 11時06分40秒 | 日記
姉や兄は通学を始めた。長姉は女学校を卒業していて京都の女子大に通う予定であったが、戦後の混乱のため進学を断念した
8歳から始めていた茶道を京都のお家元のもとで修業したかったようだ
京都だけは無傷で町が残っているというニュースが入ったが、その途中の広島が原子爆弾というすごい爆弾が落ちて、人も建物も全滅、京都に行くにはそこを通らなくてはならず、余波で死ぬ人もあるというデマも飛んでいた。姉の人生目的が挫折

次姉は東京の女子大に行くと勉強をしていたが、こちらも方向転換。社会が急に動きだしたので、役所は男手が足りず、否応なく女の事務員が必要になり、上の姉は県庁に下の姉は米穀卸組合に就職した。まだお米、塩、たばこなどは配給制を取っていたので、米穀卸組合というのがあったのだ

父も裁判所に通い始め、土地を無断にとられた人々の民事裁判の弁護を手掛けていた。弁護士料はほとんど食料で清算されて、腎臓病に必要な白身の魚やトウモロコシのひげ、スイカ、新鮮な牛乳、卵、冬は干し柿などなどふんだんに頂き、病状は快方に向かっていた

問題は兄
14歳の少年の心には「米英鬼畜生」と教え込まれ、日本の軍国主義に染まり、しかも秀才の誉れ高かっただけに、このいきなりの連合国主導の教育が受け入れられず、民主主義という思想にもなじめず、また自分が通っていた県一番の中学に女学生が入ってくるという「男女共学」の実施に向き合えない硬派の心は自分自身で解決できず苦しんでいた。いきなり教育の場に入ってきた英語を無視してしまうというほど、時代の変化に戸惑っていた

根がやさしい兄は病床の私の部屋に来ては、小学生の勉強の相手をしてくれていた。そのため学校に行かなくても試験の点数は100点を取るほど成績がいいのだが、体育、音楽、図工などの科目は劣等生。少し歩けるようになったとき学校の担当の先生が
「比佐子ちゃん小学校は毎日元気で通う子が一番の優等生なのよ」
いくらテストでいい点を取っても優等生にはなれないということを暗に言われた気がした
「そうか元気になろう」
と自分に言い聞かせたらぐんぐん元気になり、母がやっと見つけた海軍宿舎に六人の顔がそろった。そこは8畳、6畳、4畳半に台所と洗面所、庭も5坪ついた4軒長屋の一軒。お風呂は近くの銭湯に行くという生活がはじった

海軍宿舎として建てられていて、遠くに別府湾が見えてサル山の高崎山、久住連邦の見える山の上にその家があり、まだ伐採されていない森林もあり兄が通う学校にも近く、海軍の軍医さんの屋敷も焼け残っていて、12所帯はみんな街で家を焼かれた人たちだった。100倍という競争率に母が手にした長屋だった
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なんかおかしい?

2021年08月23日 15時32分52秒 | 日記
昨夜友人のk子さんと露天風呂に入りに行った。月光浴が目的。満月の夜でしたからね
自粛のこの時、営業をしているかどうかがまずは知りたいところ。20時までは営業していると聞き勇躍車を飛ばす

ハッと気が付いたら19時30分
「30分しかないなあ」
念のためもう一軒に行ってみる
「比佐子さんとにかく早く入って受付してて」
「ほい来た」
駐車場が満杯で止めるところを探しているうちに時間が来そうな気配

ふー
受けつけに走り、念のため
「何時までですか?」
「ああ一時までですよ、ごゆっくり」
あたふたとかけつけたK子に
「1時までって」
「えっ」

月のエネルギーを感じながらゆっくり、炭酸ぶろや、塩風呂、洞窟風呂などなど、大いに楽しむのだが、もちろん全員マスクはしていない、混んでいるので超密着、しかも裸だぜ

二時間たっぷり楽しみ、はじめに行こうとしていたところは暗闇になっていた

なんだかちぐはぐだなあと話し合う
インフルエンザの死亡者はゼロ、毎年2万人近くの方が亡くなっている
コロナという病で亡くなった方は12000人
「かしいね」

また都内のあるデパートで、社員にコロナ患者が出たといって大騒ぎ

そのデパートは東京中で一番厳しいと評判で、マスクをしていない人は店内に入れないし、手の消毒も店員が目を光らせて付きっ切り。だから店は閑古鳥が鳴いている。ゆるーーいデパートは自発的にマスクはしているがあまり厳しくなく、満員御礼

マスクをし続けることで免疫が下がり、美しくなることを忘れてしまう
人生ってこれでいいのかな?

こんな日本ではなかったはず、何かちぐはぐな世の中で、滝つぼに連れていかれる日々。24時間あいてるスーパーもあり、パチンコ屋は言うに及ばず。自分の目でしっかり情報ををつかんで、落ち着いた日々を送りたい



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戦争体験 6

2021年08月21日 08時05分46秒 | 日記
やはりと言おうか、大人たちが敗戦ショックから立ち直るには時間がかかった
戦場に男手を取られた家族はこの難局をどう乗り切るか途方に暮れていた
戦死通知を受け取っていた家族は、その死がいまさらのように重くのしかかっていた
姉たちのように若い女は進駐軍が街に姿を現し始めたら怖くて街を歩けない状態だった

人はまず食量の確保に動く、疎開して来ている人たちは余分の人口という感覚が村人の中にも出てきて、親戚でない赤の他人に対しては食料の分配は最後という風潮になっていった
幸い母の今までの親戚付き合いが功を奏していて、我が家六人は食べ物には不自由はしなかった。母も姉たちもみんな主の帰ってこない家族の世話をしていて私にかまう時間が少なくなったために、私の病状はじわじわと悪化していた

学校が始まり世間も少し落ち着いてきたころ、私は村の小学校に通い始めたが、体育の時間に倒れてそのまま療養ということになった。そして約半年寝たっきりで、風通しのいい明るい部屋がいいということで、母の実家に母と私が同居することになった。腎臓病の悪化で体中がむくんでいた。
村には若い医師は軍医として出征していて、老先生が看護婦さんもいない病院を死守していた。また町の大きな病院は空襲でけがをした人たちであふれていて、私は病院に行くことすらできなかった

母は自分の手で私を直すと決めて、腎臓病の治療法を学び完全な漢方で完治させた。敗戦後の人心が落ち着かず、また食料もままならない時期に、病弱な子供を抱えて母は大変だったと思う

そのうえ家族だけで住む家をと空襲で吹っ飛んだ家の跡地に父が行ったら、その地はもうよその人の名義になってしまっていたという。父は弁護士なので、法律上自分の土地だと立証しようとしたけど、役場の書類は全部焼けていて、この土地は自分のものだという証拠を取るためには、当時住んでいた人たちの証言が必要、しかし多くの人の行き先もわからず、「とったものの勝」みたいになって土地も失った
さらに追い打ちかけるように農地改革が履行され、不在地主の土地はすべて国に取り上げられた。父が持っていた農地はとりあげられ、その土地を父から借りて作物を植えていた人のものとなった。(60年後、私道は父名義のものだったらしく、市から道路拡張のためその土地を売ってほしいという通知がいきなり兄のところにきて、いただいたお金で両親のお墓の修理と永代供養に使った。両親は自分たちの始末をきちんとしたのだ)
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