チャコちゃん先生のつれづれ日記

きものエッセイスト 中谷比佐子の私的日記

着物が繋ぐもの 104

2019年02月28日 19時50分46秒 | 日記
男が着物を着ると色っぽくなる
どんな男でも着物を着ると色っぽい
それは女が着物を着ると色っぽくなるというレベルではない
男は色っぽくなることを意識していないから余計色っぽさが強調される

洋服ではタキシードの男が色っぽい
悪の色っぽさだ
それは白と黒のバランスなのだと思う

本日はどうして男が着物を着ると色っぽくなるのだろうかといろいろ検証をした
その結果は
着物を着ると体が自由になるからだという説が多かった
体が自由になると考えも自由になる

「武士道」のなかに「心身相即的」という言葉がある
心と体はいつも一体
心をシャントしようと思えば姿勢を正す
心を自由にしようと思えば呼吸を深く胸を張る

「武士道」を堅苦しく捉える人が多いが
思うに武士は国民一般の模範になる生活態度が求められていたのだと思う
そのために心身を鍛えたのだ
究極の美学を求めていたのだと思う
刀は人を切るためのものではなく人を守るためにある
切られないように全身を見えないエネルギーで包み込んでしまう鍛錬をする
だから美しいしそこに色気が出る、強くて優しい姿がある

生まれて初めて着物を着た若き経営者たちは
「丹田を意識して頂戴」
「丹田ってなんですか」
「丹田はおへその下指二本くらい下にあるエネルギーの源よ、帯もそこを中心に締めるからね」
「気持ちいいです」
「丹田に意識を集め腰骨を立てて頂戴」

「背が伸びた感じ」
「首の両脇の筋も伸ばしてくださいね」
「目線が広がりましたあ!」
「今注意したとこ以外は全部自由にのびのびとしてね」
「あれっきものってこんなに楽で自由なんですね」
「そういうこと」

「あるきかたは?」
「ご自由に」
「足くんでもいいですか?」
「それが楽だったらどうぞ」
「足組むと裾が割れます」
「割れても様になるように自分で工夫しなさい」

いろいろ試して両足の裾の真ん中を手で叩いて足を組み
「これだったら裾が割れない」
「よろしい」
足首がちょっと出ているところが色っぽい、本人は意識していないけど全身が布で包まれているから襟元手首足首という素肌がちらりと出るので色気もでる

若い男は着物を着ることで心が自由になり童心に帰る
無垢な心が可愛い色っぽさになる
そのうちいなせになってくると男前だ
「着物を着て大人の色気を出せるようになったら女はほっとかないよ」
「ううへーー」

但し
ゾロリとした着方だけはやめてほしい
裾も裄もすこし短めに着るのが粹
だって男は手が早いほうが魅力的だもの

#男の着物 #男の色気 #武士道 #いなせ #丹田 #中谷比佐子


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着物が繋ぐもの 103

2019年02月27日 12時23分22秒 | 日記
戦争未亡人が着物業界を救ったと思う
今日は100歳で亡くなられた小泉清子さんの葬儀
小泉さんは鈴乃屋という会社を作り着物業界のみならずNHKの大河ドラマの衣装を長く担当され着物普及に貢献なさった
(若いチャコちゃん先生はドラマの衣装調達もちまちまやっていたけどお役目御免になったよこのときーー)
まそれはさておき

繊研新聞から出ていた「きもの」という雑誌のインタビューで小泉さんにお会いしたのは1972年いまから47も前になる
御年54歳だ 発展途上で元気ハツラツとしていらした
生まれてから今日に至る諸々のことを細かくお聞きし文章にまとめた
その文章を気に入ってくださってその後の取材に現れた他の会社の記者たちには「これ参考にして」と渡されていたらしい

ある時大手の新聞記者に出会ったら名刺の名前を見て「ああーお世話になったんですよあなたのルポ」「はーー?」
それがきっかけで夕刊のコラムをその新聞で一年続けたという副産物のある

その時の印象に「戦争未亡人」という言葉が胸に響いた
専業主婦が当たり前だった既婚女性は戦争未亡人になった時どう生活をしていくか途方に暮れたのだ
そして自分ができることを考えた時
着物を着せること
着物を販売すること
着物のいろはを若い人たちに教える
こういう道が残されていたのだ

戦争未亡人は小泉さんだけではなく着物着付け学院の創始者やまた地方の小売やメーカーなども戦争未亡人の必死の思いによって着物産業が伸びていった

未亡人だけではない
戦争から戻ってきた男たちも闇市で古着商売をはじめてのちに高級呉服店として大繁盛をした人達もいる

話をもとに戻すと
敗戦後日本は階級制度が廃止されすべての国民は平等となった
小作人制度もなくなり、今自分が耕している畑や田圃は自分の物となった
大地主はその土地に住んでいない限り土地は没収された

食べるもののない時代
食べものを生産する農家は強い
着物はそういう農家に米や野菜と交換できる最も価値のあるものだった
闇市では米と野菜の交換で手に入れた着物を農家で買って闇市で高く売るという商法もあった
農家で10円で買ったものがその日の夜闇市で100円で売れたという時代だ

この商法で大儲けして後に呉服屋を開業した社長にもインタビューそしてこの手の内を告白してくれた
聞いたまんま文章にしたところその社長は
「まいったな手の内書かれちゃって」
「だって社長がお話になったんですよとても興味深かったので」
「もう出ちゃったからね」とそれ以来とても可愛がってくださった

戦争未亡人という言葉も死語になっている昨今
その廃墟の中で美しい花を咲かせてくださった一人が今天に戻られた
感無量 合掌

#戦争未亡人 #闇市 #古着 #着付け学校 #小泉清子 #鈴乃屋 #中谷比佐子
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着物が繫ぐもの 102

2019年02月26日 11時14分58秒 | 日記
男が家で着物を着なくなって「男の権威」が落ちたように思う
男はもともと弱いから「権威」を持っていないと生きていけない
家で着物を着てどっかり座っているだけで家長としての貫禄と信頼感を得ていた
昔の女は賢いので子どもたちにそういう姿の父親を崇拝させるように仕向けていたようにも思う
男の着物姿が家から街から姿を消したのは昭和50年に入ってであろうか

こういう話もあった
昭和40年代だ
国政の選挙があると一気に大島紬が売れた
お金を配るわけにはゆかず大島紬を票を集めてくれる有権者に配っていたのだ
その桐箱の下にお金が並べてあったかどうかは知らない

先日その時に配られた大島紬の桐箱を見る機会があり「噂だけではなかったのだ」と思ったものだ
桐箱に収まっているのでカビも出ていないし新品のママ
「反物の下に紙幣が入っていない?」
流石になかった!

大島紬の亀甲絣が主流でだいたい藍大島
これはまた婚礼衣装の中に新婦側が花婿に贈呈するしきたりもあった
ずいぶん婚礼支度を見たが必ず大島紬が入っていた
この企画を考えた人はすごいマーケッターだ

その頃大島では生産が間に合わず韓国での生産もありそれは韓国大島と呼ばれていた
泥染めが出来ないので形だけは似てもペラペラだった

余談だが時を同じくして私は韓国絞りのお帯揚げや組紐の色出しを十日町のメーカーに仰せつかって韓国に度々行った
どうして度々行ったかといえば
色出しをしたときは、出した色と同じ色を染めてくれるのだが
そのままほっておくといわゆる「韓国色」に染めてしまい奥行きのない色となって日本では売れない
そのため毎回染出しに行くことになった

(その頃韓国に行く男たちの目的を目の当たりにみてショックを感じたけど今は書かないー苦笑ー)

さて本題
とにかく売れに売れた大島紬大体一疋(着物と羽織)が単位
だから必ず羽織を着るその羽織の裏に男たちは凝った
十二支、富士山、春画、浮世絵、能、スカーフなどなど
そして今その大島紬がリサイクルショップに山と積まれている

韓国大島も純然たる大島もほとんど同じ値段というのも本物の価値がわからない時代になっているからであろう

しかしながら喜ぶべき風潮もある
ある若手経営者(40代が中心)たちが着物に興味を持ち始め
自分の体が本物を求めていることに気がついた模様
頭での判断ではなく着てみて「本物は着心地が良いし着崩れない」ということを覚えた
なんと喜ばしい

彼らが海外で着物姿でビジネスをする日も近いような盛り上がりを感じる

#大島紬 #男の着物 #婚礼支度 #桐箱 #中谷比佐子 #羽裏 #羽織 #春画 #富士山


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着物を繋ぐもの 101

2019年02月25日 11時30分13秒 | 日記
皇太子妃のお后教育が始まった頃(現在の皇后陛下)
私は週刊誌にいたペーペーだ新人で使い走り
その頃のカメラマンは社内の暗室で自分で現像をし紙焼きして自分で写真のレイアウトをするという自己完結作業
お妃教育の道中を写真をとりそのフアッションを紙面に出す
一番陽の当たるページ作りだ

女性カメラマンだったので彼女が帰ってくるとすぐにお茶を出し暗室にくっついて入る
酸っぱい匂いの現像液になれるのは大変だったが
フイルムからだんだん姿がにじみ出てくるのが面白くて手伝いにはならないけど
そのアングルがいいとかこっちが美しく見えるなど言いながら本人は手伝っているつもり

現場には人数制限があるのでぺーペーはいけない
ある時皇太子妃は着物を着ていた
その頃着物に全く興味がなかったので「へーしっろっぽい着物も斬新ですね」
「そうかね よくわからないけどじゃあこれにするか」

カラー写真は現像所で焼きましをするので白地の着物が紙面に載るまでもう気にもかけなかったが
紙面に出るや大ヒーバー
いきなり白地の着物が巷にあふれてきた

後に着物の仕事をするようになり
京都の染屋さんでその頃の話をしたら
丹後から白生地が消えるほどの流行り様だったという

地色を染める手間は省けるが地紋が目立つので古典柄の紗綾形、小菊、青海波、七宝、ねじり梅などに人気が集中したのだそうだ
白地の着物は確実に腕のいい職人が模様を描かないと見栄えが悪いし安っぽくなる
そのために職人たちは勉強をした、腕も磨いた
更に天皇陛下が即位のときにお召しになる束帯の地紋が桐竹鳳凰なので
白生地も恐る恐る桐竹鳳凰の地紋を作ったりして(どこからも咎められなかったそうだ)
白きにの地紋の種類は一挙に増えた

その後その白生地を扱う場合刺繍に良いもの
手描き友禅に良い
素描がきれいに乗る
型染めにピッタリ
金箔が美しく置ける
たたき染めが美しく映える
墨流しに良い
古典柄にこそこの地紋
大胆な柄を表現するにはこの布

それぞれ技術に合わせた白生地が生産され着物も華やかで奥深い鑑賞に耐えるものがたくさん染め上がっていた

職人たちの中にはやがて「作家」さんになっていくのだが
自分自身の名前が出るようになると更に腕を磨き感覚を研ぎ澄まし
この世に残したい着物ん数々が誕生

それが昭和40年、50年代のことだ
先日この時代の着物を一気に見せていただき
作った人の気迫を感じた

昔美容家の大関早苗さんが「作った人の気迫をどれだけ自分が着物を着て表現できるかそれが難しい」
と仰っていた言葉が蘇った

#気迫 #着物 #皇太子妃 #桐竹鳳凰 #白生地 #丹後 #中谷比佐子 #刺繍 3友禅 #型染め #素描 #墨流し

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骨が落ちる

2019年02月24日 19時50分57秒 | 日記
昨日眼が覚めると両瞼が落ちていて視界を遮っている
なにが起きたのかさっぱりわからぬ
鏡を見ると両目がふさがっている
何事!

顔を洗い目も洗おうとするが落ちた瞼が邪魔
なにが原因か全く分からぬまま「比佐子つれづれ」に間に合うように会社に出向く
少し視界が見えるようになり眼鏡をかけて人目をごまかす
突然の病気か?

先ずはゴットハンドの整体を受けようと電話をするが休み
直接先生に電話をし理由を話し今日の予約を取る

原因は骨
脇の骨がくっつき過ぎて左半分が痺れ瞼の筋肉が緩む
よくわからん
わからないけど治療を受けたら目がぱっちり開いた

原因は「食べすぎ」
それで免疫が落ち血液まで濁らせさらに骨が落ちた

人間の体は正直全て「過ぎたるは及ばざる如し」

骨を美しく動かす着付けを広めているのに中心人物が骨を詰まらせては着物姿が綺麗にならない
食べ過ぎ禁物
と言われて休憩室に出ると「大福とお茶」
「これまずいんではないんですか?」
「食前に食べて他の物を減らしなさい」
何か納得できないが体が軽くなったので良しとする

皆々様食べ過ぎにご用心!
#骨#食べ過ぎ#比佐子つれづれ
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着物を繋ぐもの 100

2019年02月23日 18時31分54秒 | 日記
着物の寸法は一分二分が勝負を決める
着物を着始めたときは「標準寸法」というものに頼っていた
標準寸法はその頃(昭和40年代だが)身長155センチ 体重48キロが中心の標準だった
大雑把だ
そこから割り出していく
その頃の仕立ての方はこの割り出しが上手でチャコちゃん先生の場合身長156センチ体重48キロ
やや標準に近いので喜ばれていた

しかし毎日着物を着るようになってだんだん生意気になり
姑に袖付を標準より五分多くとか袖口を一寸縮めてよとかちょこちょこ細かい寸法直しを頼む
とにかく着物を着て電車に乗り、つり革を持つと袖口が標準寸法だと袖がズルズル降りて肘まで見えてしまう
また袖付を深くするとドアの取手に引っ借りにくくなる
その頃はよく引っ掛けて身八つをほころばせていた

自分の着方や行動を注意するのではなく寸法でいろんな不都合を治そうという根性
それを黙って受け入れ形にしてくれる姑
そんなある日
「裾を狭くし抱幅の寸法を両脇5分都合一寸詰めてください」
「比佐子さん着物は洋服みたいに布を裁ち落とすことはしないので抱幅の寸法を変えるときは襟肩あきにも影響が出るので、どういう感じで着たいのかよく教えて頂戴、それによってご希望に合わせるように努力するから」
「はあーそんなにややこしいんですか?」

ということで柄の見積もり、裁断、寸法の動かし方一つ一つを教わり私がお願いしている半分は無謀なことなのだと理解出来た
仕立ての寸法かかなわないところは着方で変えていき理想通りに着る術を身につけねばならない

誰の着物でも簡単に着られるとよく言われる
それはたしかにそうだが自分の思い通りの着姿にするには寸法がとても大切だということもある

「比佐子さん着物の寸法を変えたら長襦袢の寸法もそれに合わせないときちんとした着方は出来ないのよ」
「そうですねえ、では長襦袢も寸法を変えてください」
ちょこちょこ寸歩を変えるのでついにこの着物にこの長襦袢という組み合わせになり長襦袢とkきものの数が同じになっていたころもある

現在はもう寸法は確定したか?
いえそうではない、年令とともに内蔵が落ち、腕に肉もつき、バストは下がり、胸筋の肉も落ちる
そうするとまた少しずつ寸法を変えていく

イタチごっこみたいなので考えた
一番着やすい寸法をキープするには自分の骨を鍛えれば良いことに気がついたのだ
そして骨を意識した着物の着方立ち居振る舞いをしていると少々寸法があってなくても着心地はいい
やっと気がついたの、という姑の声が聞こえるようだ

最近は帯の寸法に気を使っている
つまり帯位置が年とともに変わるから
着物は奥が深い

#着物 #着物の寸法 #骨 #中谷比佐子 #長襦袢 標準寸法 #骨格着付け
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着物を繫ぐもの 99

2019年02月22日 18時03分29秒 | 日記
タンスの引出しから出された着物を見て
溢れる涙を拭うのに必死だった

その着物は熊谷好博子さんの江戸解模様だ(今は東京友禅という)
一枚二枚ではない次から次に現れる袷、盛夏、単重全部江戸解
その他にも熊谷さんが後年に楽しんでいた木版刷のきものもーー
全部を拝見できなかったが見ただけで10枚はくだらない

江戸解を描く現場に何回も立会い
また私も色留め袖を持っていて大事に着ている
ここににあるのは大事に着ているというレベルではない
「先生ーーと思わず声が漏れそうに懐かしく、また作品の精緻な美しさに言葉もないため息ばかり
先生は亡くなって20年以上にもなる

精魂込めた作品が今ここにこうしてひっそりと布に包まれていた!

それはほかの着物と帯を拝見していて美しい紫の色の着物に出会い
「あっこれ熊谷好博子さんの紫だわ江戸前ねえ」と感嘆したら
「熊谷好博子さんのタンスがあります」
熊谷さんだけの着物が収められているのだという
「ええええーー一竿全部?」
「ええ こちらです}
すべてを拝見する時間はなかったけどあの手仕事の凄さを知っている身には10枚を見せていただければ大満足
熊谷好博子さんの江戸解をこんなにもたくさん見ることが出来たなんてしれだけでも感動感謝

持ち主は2006年に亡くなった新制作座の座長真山美保さん

私達が青春の頃「泥かぶら」で一世を風靡した劇団の創始者だ美しい方でいつも着物を着ていらした
真山美保さんが一番好んだ染色作家が熊谷好博子さんだったなんてーーー

熊谷家に電話をした時
「あのー博子さんいらっしゃいますか?」
「どちらにかけてますか?」
「くまがやこうひろこさんの宅ではないのですか?」
「わたし くまがやこうはくし といいますがーー」
「ええーすみません読み方がわからず失礼しましたお仕事の取材に伺いたいのです」

こんな失敗があったにもかかわらずとても丁寧に仕事のあれこれを説明してくださった
長野の飯田の出身でおじさんのところで紺屋の職人見習いをしていたが日本画が好きで川端龍子の弟子になり20代は絵画の勉強に明け暮れる

あるとき芸者の座敷着に出会い
「着物にはいろんな模様の可能性があるそちらに行ってみよう」
と思ったのが36歳のときだという

細やかな江戸解と大胆な石摺や葉摺り木目染め同じ作者とは思えないのは
職人肌と芸術魂の為せる技なのだろう

いつも着物を着ていて絵の具のかごを下げふらりと我が社に現れ墨絵の牡丹の花の書き方を伝授していた
才能のない子ばかりだったが楽しそうだったな
見本は今も手元にある

江戸解模様は鎌倉時代に遡る(これはまたの機会に解説)という話にも納得
「着物はその人を表す」
という言葉をよく口にしていただから精魂込めて作る
真山美保さんはそういう熊谷好博子さんの心情に共感したのだろう

縁を頂いた人に感謝

#江戸解模様 #熊谷好博子 #真山美保 #泥かぶら #新制作座 #中谷比佐子
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着物が繋ぐもの 97

2019年02月20日 12時37分54秒 | 日記
我が父は硬い仕事の人だったが
戦争中家が爆弾で吹とっ飛ぶまではよくキーキーキーと耳ざわりなヴァイオリンのレッスンを受けていた
家にじっといるおとなしい私はそのレッスンが始まると
三階の物置(木造の三階建だった)逃げて行きしまってあるお布団にくるまって寝ていたそうだ
しかし
お謡の練習のときは一緒に正座して師匠の口を真似ていたそうである

父はその両方も物にできなかった
疎開先ではそんな悠長なことは出来ず毎日の生活に心砕いていたのだろう

能の取材の時その幼い時の記憶が蘇り取材をしたその日から弟子に入った
腹から出す発声が良かったことと謡曲の言葉の美しさが心をうった
贅沢なことに大先生のご指導を直接受けた5年間であった

謡だけではなく仕舞も一緒に稽古するようになり
着物を着ての裾捌き足の運びかた、手先と視線の関係など
着物を着る上で仕舞の教えはどれだけ役立ったか

丹田の位置胸筋の開き方大腰筋の使い方
この基本の動きはどれも着物を着る上で大切なことだ

この時代
まだ女が能舞台に上がることは出来ず
ある化粧品会社のポスター撮りに舞台上での撮影を試みたがいくらなんでもと断られた
そのため岩手まで能舞台を求めてたどり着いたのが平泉だ
そこで生まれてはじめてパチンコをして大儲けした(これはどうでもいい)

今は女も舞台に上がる これも時代だ
大相撲の千秋楽、当時の文部大臣が女性だったので、土俵には上がらせる上がらせないで大いに揉めた
女を不浄のものとみなしていた時代だ

今思うともっと深い意味合いがあるようだが今は問わない
その時天照大神は女だよと叫んだ女闘士がいた

まとにかく能の話
あの橋渡はなんのためか
霊界と現実世界の橋渡しなのだと聞いた

そういえば能は霊の話が80%くらいある
霊界からさっと幕があき現実の社会に降りて物語を繰り広げる
そうするともう歩き方が違う
あの裾野合わせよう 襟の開け方
全て役によって違っていくのだ
その着付けの違いを見ているだけでもその役の性格とか役割が理解できる

仕舞を教えてもらってよかったのは
大腰筋を鍛えることでいつも姿勢yくしていられということと
着物の裾がはねたりたるんだりしないことだ

また肩甲骨の貼り方で呼吸の深さを教えられた
肩甲骨を意識すると襟元が崩れない

父のおかげで能に親しむのに遠慮がなかったのはありがたい
日本の伝統芸能は体の健康度としっかり連動していると思う
 
#能 #仕舞 #橋掛かり #霊界 #大腰筋 #肩甲骨
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着物が繋ぐもの 97

2019年02月19日 10時40分06秒 | 日記
日本を救った皇女和宮のことを書きたいと思う

歴史上の人物で好きな人が二人いる
奈良時代の大津皇子 そして明治維新時代の皇女和宮
徳川家茂に嫁ぎ幕末の嵐に巻き込まれながらも徳川家を守ったことが日本を外国から守ったことになった

明治維新の話は男の活躍ばかりが取り上げられているが
和宮を筆頭に女たちの冷静な判断がなかったら日本という国はなくなっていたと思う

さて
皇女和宮に興味を持ったきっかけは
小説家有吉佐和子さんの「和宮様御留」を読み内容の事実確認をしたいと思った
というのは私が思っている和宮様と内容がかけ離れていたからだ
有吉佐和子さんの担当をしていた縁もあり直接疑問をぶっつけたら「小説よあくまで」と軽くいなされた

では自分で調べよう とっかかりは着物だった
当時私は着物は持ち主を表すことを理解していた

和宮の着物を見ると人柄がわかる品があって優しく大きな愛を感じる
ホンモノを見たいと思って芝の増上寺に出向くと
当時はまだ和宮様の遺品はこの寺に保管されていて早速拝見することが出来た

どうして拝見したいかの趣旨をきちんと前もって手紙を出していたので快く様々なものを見せていただいた
それだけではなく後日撮影も許可していただいた

着物は作る人への思いやりも溢れた心あらわれるような静かな品格があった
夫の家茂将軍と仲睦まじい様子も手紙や書物で見せていただいた

その頃
皇女和宮の御棺の中を開けた時胸に写真を持っていたがそれは幼少の頃の許嫁有栖川宮のものだろうと世間では取り沙汰されていた
皇女和宮は国の政策公武合体のための犠牲者という視方が強かったのでなんとしても和宮様を悲劇の皇女にしたかったのだろう

家茂が庭に降りようとした時
和宮はいち早く縁側から降りて夫の草履を揃えていた
という付き人の記述もあり仲の良いご夫婦だった姿が微笑ましく垣間見える

何よりも大きな二人の愛を感じる布がああった
それはいまでも九条袈裟として増上寺に遺っている

家茂が長州征伐に出陣するおり皇女和宮に
「土産はないがいい?」とお聞きになると
「西陣織りの打ち掛けを出来たらーー」と夫におねだりをした皇女和宮

しかしその夫は出陣先で他界
その後西陣織の打ち掛けが皇女和宮のもとに届く、その打ち掛けを「空蝉」と名付け歌を読んだ


「空蝉の 
唐織衣なにかせん 
あやもにしきも君ありてここそ」

この時和宮はすでに剃髪をしていた

その後アメリカやイギリスは開国をしつこく迫り日本という国を占領するつもりで厳しい条約を突きつけていた
徳川家は朝廷の敵とされ江戸は焼き尽くされることになっていた
静寛院宮となった皇女和宮は西郷隆盛 山岡鉄舟などに手紙を渡し徳川家存続と江戸を火の海にしない願いを命をかけて奔走した

明治維新が無血の成就した裏に
皇族と将軍家のそして日本を守った女人がいることを忘れたくない
32歳で日本の存続の夢を描いてなくなった和宮を私は忘れない

23日の比佐子徒然では 今回は和宮と日本という話をいたします
1時30分から二時間 会費無料

#皇女和宮 #空蝉 #九条袈裟 #増上寺 #中谷比佐子 #比佐子つれづれ #開国
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着物が繋ぐもの 96

2019年02月18日 14時00分19秒 | 日記
株式会社秋櫻舎は今季36期を迎える
その前の10年間は「編集室プラスワン」として仕事をしていた
場所は市ヶ谷駅の直ぐ側

チャコちゃん先生がマスコミ出身なので編集プロダクションとしてスタート
着物の編集を一手に引き受ける会社は他になくて重宝がられた
当時はまだ4大誌(主婦と生活。主婦の友、婦人生活。婦人倶楽部)がお正月の発行部数が100万部をそれぞれが超えていた時代だ
お正月はどこも巻頭カラーグラビアに当代きっての女優さんの着物姿を載せるのが習わしになっていた

先の着物ブックで女優さんたちとのコンタクトが取れやすいチャコちゃん先生
各マネージャーと話し合い女優さんを振り分け
着物の提供は何社かある着物ブックの会社から借りるということで
ほとんど同時期の撮影にてんわやんわだった

それぞれの雑誌は
しとやかで上品を選ぶ雑誌、当時はやったフアニーヘイスの女優さんで洋服感覚の着物を好む雑誌、古典で豪華若い女優に絞りたい雑誌、有名なら誰でもいい着物もおまかせという雑誌
そういう中で雑誌の特徴を活かし、その雑誌の読者が共感するような女優と着物選びは楽しかった
選んだ着物を着ていただくと女優さんが喜びスポンサーも満足、もちろん雑誌社も大喜び三方良しの仕事は今で言う「ウインウイン」笑顔のたえない撮影現場だった

仕事の順序は
カメラマンを決めるー一緒に女優さん選びーその雰囲気に合わせて着物を選ぶー帯小物の色合わせーヘアーメイクの担当を決める(女優さん専属というのはかなりあとになって)ー着付け担当者を決める
スタジをを決め、バックの色を選定、ライトの位置が決まるとすべて下ごしらえは終了

だいたい誰でも着物の撮影の時不機嫌な人はいない
着物は人を幸せにする衣服であることをこの時着物に教わった

当時本屋で購入できる着物専門誌は婦人画報の「美しいきもの」繊研新聞の「きもの」で繊研新聞のは業界誌だった
だからこそ女性誌に載る着物は多くの女たちに歓迎をされた

撮影が多くなると着付け師の養成が急がれる
美容学校の先生方は引っ張りだこだけど(このときはまだ着付け学校は成熟していない)
結婚式や礼装での着付けと撮影の着付けは微妙に違うので撮影用の着付け師を育てなければならない

撮影用の着付け師は手早く正確にしかも女優さんたちの信頼を得ることが重要
秋櫻舎は編集企画と撮影着付け師の誕生の場となった
ということは内でも本を出版できるとばかりに作ったのが「KOSMOS]という着物の雑誌
その名付け親が当時家庭画報の編集長だった本多光夫(チャコちゃん先生の師匠)

この雑誌からもプロが育ち今も活躍中だ

#着物 #撮影 #女優 #チャコちゃん先生 #中谷比佐子 #婦人倶楽部 #主婦と生活#婦人生活 #家庭画報 #ヘアーメイク #婦人画報 #KOSMOS #着付け師



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