チャコちゃん先生のつれづれ日記

きものエッセイスト 中谷比佐子の私的日記

戦争体験 14(戦後)

2021年09月01日 15時07分14秒 | 日記
ラジオをつけると「訪ね人」の番組。まだ民間放送がない時代でNHKは夜の12時になると「君が代」の音楽で放送が終わった。それまでのほとんどの時間は復員してきて、自分の家族が見つからない、また空襲で離ればなれになった家族の安否、引き上げの家族が自分の親戚を探す。という放送であった

「何がなくとも家族全員顔がそろっている」と母は口癖のように呟いていた
もともと世話好きの母は、すっかり長屋のおかみさんになって、自分のうちに食べるものが集まると隣近所にホイホイ配っていて、わたしが食べようと大事にしていたバナナまで人にあげてしまうありさま。そのころバナナは高級品で、お客さんが弁護士料のかわりに持ってきたバナナを、目ざとく見つけて自分のエリアに隠し持っていたのに、いつの間にかなくなる。狭い家なので隠せない

「ヒサちゃんはまた食べられる、でもあの子は当分食べられない、だからあげたの」とケロリという
その子は二親を戦災で亡くし親戚の家に来てた。その親戚は焼け残ったおおきなお家だったが、住んでいる人はヒヤッとするほど冷たかった。母が目をかけるのも一理あるなと思った

学校では復員してきて兵隊さんの格好した先生方もいた。そのうちの一人が担任で、2年間受け持たれた。国語がお得意で教科書を大きな声で読ませる。本の持ち方も手をまっすぐに伸ばして姿勢を正しくしていないと、鞭を持っていて机をたたく。お弁当を食べていない子はお腹に力が入らない、先生はそれでも容赦しないでいた。そして職員室にその子を呼んでお結びを渡しているのを見たことが在る。鞭を持っていたがとてもやさしい先生で、遊ぶとき、勉強するときけじめのついた教育をしていた。そのためみんな先生を慕っていた。

中学に上がってもまだ復員帰りの先生がいて軍服を着ていたし丸坊主であった。復員してきた先生たちはきびきびしていてそして優しい。社会科、国語、どういうわけか英語の先生も復員帰りであった。この先生方は日本の古い歴史や日本の知性、更に日本の特徴などを教えるのが好きだったようで、「教科書は読めばいい」という態度であったので、授業が面白かった。英語の先生は、音楽も受け持っていたので、英語の歌をおそわって文法は後回しであった

地方都市はまだ日教組の教え方が波及していなかったので、先生たちの個性が生かされていたのだと思う。自由気ままな小中学生生活だった

戦後10年くらいまでは地方によって教育姿勢が異なっていたのだと思う。それは高校でも言えて、わが高校は県立でありながら自由で開放的であった。お爺さんおばあさんになってもいまだに「ちゃん」呼ばわりで集まって遊んでいる
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