チャコちゃん先生のつれづれ日記

きものエッセイスト 中谷比佐子の私的日記

戦争体験 6

2021年08月21日 08時05分46秒 | 日記
やはりと言おうか、大人たちが敗戦ショックから立ち直るには時間がかかった
戦場に男手を取られた家族はこの難局をどう乗り切るか途方に暮れていた
戦死通知を受け取っていた家族は、その死がいまさらのように重くのしかかっていた
姉たちのように若い女は進駐軍が街に姿を現し始めたら怖くて街を歩けない状態だった

人はまず食量の確保に動く、疎開して来ている人たちは余分の人口という感覚が村人の中にも出てきて、親戚でない赤の他人に対しては食料の分配は最後という風潮になっていった
幸い母の今までの親戚付き合いが功を奏していて、我が家六人は食べ物には不自由はしなかった。母も姉たちもみんな主の帰ってこない家族の世話をしていて私にかまう時間が少なくなったために、私の病状はじわじわと悪化していた

学校が始まり世間も少し落ち着いてきたころ、私は村の小学校に通い始めたが、体育の時間に倒れてそのまま療養ということになった。そして約半年寝たっきりで、風通しのいい明るい部屋がいいということで、母の実家に母と私が同居することになった。腎臓病の悪化で体中がむくんでいた。
村には若い医師は軍医として出征していて、老先生が看護婦さんもいない病院を死守していた。また町の大きな病院は空襲でけがをした人たちであふれていて、私は病院に行くことすらできなかった

母は自分の手で私を直すと決めて、腎臓病の治療法を学び完全な漢方で完治させた。敗戦後の人心が落ち着かず、また食料もままならない時期に、病弱な子供を抱えて母は大変だったと思う

そのうえ家族だけで住む家をと空襲で吹っ飛んだ家の跡地に父が行ったら、その地はもうよその人の名義になってしまっていたという。父は弁護士なので、法律上自分の土地だと立証しようとしたけど、役場の書類は全部焼けていて、この土地は自分のものだという証拠を取るためには、当時住んでいた人たちの証言が必要、しかし多くの人の行き先もわからず、「とったものの勝」みたいになって土地も失った
さらに追い打ちかけるように農地改革が履行され、不在地主の土地はすべて国に取り上げられた。父が持っていた農地はとりあげられ、その土地を父から借りて作物を植えていた人のものとなった。(60年後、私道は父名義のものだったらしく、市から道路拡張のためその土地を売ってほしいという通知がいきなり兄のところにきて、いただいたお金で両親のお墓の修理と永代供養に使った。両親は自分たちの始末をきちんとしたのだ)
コメント
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