チャコちゃん先生のつれづれ日記

きものエッセイスト 中谷比佐子の私的日記

戦争体験 7

2021年08月24日 11時06分40秒 | 日記
姉や兄は通学を始めた。長姉は女学校を卒業していて京都の女子大に通う予定であったが、戦後の混乱のため進学を断念した
8歳から始めていた茶道を京都のお家元のもとで修業したかったようだ
京都だけは無傷で町が残っているというニュースが入ったが、その途中の広島が原子爆弾というすごい爆弾が落ちて、人も建物も全滅、京都に行くにはそこを通らなくてはならず、余波で死ぬ人もあるというデマも飛んでいた。姉の人生目的が挫折

次姉は東京の女子大に行くと勉強をしていたが、こちらも方向転換。社会が急に動きだしたので、役所は男手が足りず、否応なく女の事務員が必要になり、上の姉は県庁に下の姉は米穀卸組合に就職した。まだお米、塩、たばこなどは配給制を取っていたので、米穀卸組合というのがあったのだ

父も裁判所に通い始め、土地を無断にとられた人々の民事裁判の弁護を手掛けていた。弁護士料はほとんど食料で清算されて、腎臓病に必要な白身の魚やトウモロコシのひげ、スイカ、新鮮な牛乳、卵、冬は干し柿などなどふんだんに頂き、病状は快方に向かっていた

問題は兄
14歳の少年の心には「米英鬼畜生」と教え込まれ、日本の軍国主義に染まり、しかも秀才の誉れ高かっただけに、このいきなりの連合国主導の教育が受け入れられず、民主主義という思想にもなじめず、また自分が通っていた県一番の中学に女学生が入ってくるという「男女共学」の実施に向き合えない硬派の心は自分自身で解決できず苦しんでいた。いきなり教育の場に入ってきた英語を無視してしまうというほど、時代の変化に戸惑っていた

根がやさしい兄は病床の私の部屋に来ては、小学生の勉強の相手をしてくれていた。そのため学校に行かなくても試験の点数は100点を取るほど成績がいいのだが、体育、音楽、図工などの科目は劣等生。少し歩けるようになったとき学校の担当の先生が
「比佐子ちゃん小学校は毎日元気で通う子が一番の優等生なのよ」
いくらテストでいい点を取っても優等生にはなれないということを暗に言われた気がした
「そうか元気になろう」
と自分に言い聞かせたらぐんぐん元気になり、母がやっと見つけた海軍宿舎に六人の顔がそろった。そこは8畳、6畳、4畳半に台所と洗面所、庭も5坪ついた4軒長屋の一軒。お風呂は近くの銭湯に行くという生活がはじった

海軍宿舎として建てられていて、遠くに別府湾が見えてサル山の高崎山、久住連邦の見える山の上にその家があり、まだ伐採されていない森林もあり兄が通う学校にも近く、海軍の軍医さんの屋敷も焼け残っていて、12所帯はみんな街で家を焼かれた人たちだった。100倍という競争率に母が手にした長屋だった
コメント
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