チャコちゃん先生のつれづれ日記

きものエッセイスト 中谷比佐子の私的日記

戦争体験 8

2021年08月25日 09時15分45秒 | 日記
家族全員が同じ家に住むようになったのはあの自宅が爆弾で吹っ飛んでから1年半が経っていた
その間に幸せなことに父の一番下の弟も母の弟も戦地から戻ってきた
母の弟は出征したときがもう40を過ぎていたので、出征の知らせを受けたときは6歳と4歳1歳の女の子がいて、この話を聞いた母は
「女手一つでこれから暮らしていくのはご苦労なことだ」
「まあおじさんまで戦争に駆り出されて日本は負け戦だわ」
と姉が言うと、周りの人が「しー」と口に手を当てる

普通のおじさんたちが戦争警察のようになっていて、ちょっとした反戦の言葉を聞きつけると、軍に密告する。大分市にも航空隊や軍需工場があるので、敵機はそこをめがけて爆弾を落とす。姉たちはその軍需工場で働かされていたのだが、大人になって聴いたことだが、爆弾が落ちるとその爆風で人が数十メートルも空中に飛ばされ落ちて大地に打たれて亡くなる
青春真っただ中でそういう惨事を見てきたので、平和がことのほか尊いといっていた。しかしその時受けた心の傷は一生消えることがなく、逆に生きていることの価値を大切にして過ごしていた。そのため二人の姉は私の病気治療に積極的に参加して、遠くまで食料の買い出しに行ってくれたりしていた。
後に三人姉妹が顔を合わせると「ヒサちゃんを救ったのは私達ヨ」とくぎをさされるのだが、ふたりはいつも病床に私がまだいるみたいに丁寧に付き合ってくれた

その姉たちはまだ敵機が内地に来ない頃、お茶のお稽古、お琴のお稽古と日曜日着物を着て出かけていたのだが、大日本国防婦人会というのがあって、そこに入っているおばさんたちが街角に鋏を持って立ち、長い袖の着物を着ている姉を呼び止めて
「戦地の兵隊さんたちが戦っているのに、なんですかその恰好は」
と叱咤されてお袖をチョキチョキと切られた

それ以来長い袖は内側に折りこみ、モンペをはいてお稽古に通ったという
その婦人たちは日ごろから顔見知りの人たちもいて、その人に助けを求める目を向けても、もう目を吊り上げて一緒に叱咤していたそうだ

人というのは与えられた立場で性格も変わっていくのかしらと姉たちは思って恐ろしくなったと話してくれた

防空訓練というのもあった
末っ子の私は免除されていたが、父を除いて(父は戦争反対者だからみんなの前に出られない)家族全員が道路に出て、敵が来たら竹やりをもって戦う練習をさせられていた。また消火訓練というのもあり、バケツリレーで水を運び梯子を上って火事になっている家に水をかけるという。動作ののろい人たちを例のおじさんやおばさんが大声で怒鳴りつけていた

こういう努力もむなしく我が家は一発の爆弾で吹っ飛んだ
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