チャコちゃん先生のつれづれ日記

きものエッセイスト 中谷比佐子の私的日記

戦争体験 13(戦後)

2021年08月31日 09時44分17秒 | 日記
お年頃の姉たちは庭にへちまを植えへちまの実を食べたり、乾かして体を洗うのに使ったり、茎から落ちる汁を化粧水にしたり、ヒマワリの種から油を採ったり、林の中で松葉を拾ってきては乾燥させて石でたたいて煎じて飲んでいた(今松葉のジュースは大流行)

防空壕に貯蔵していた母の漬けた梅干しがどれだけ役立ったか、歯が痛いとか、頭が痛いというと梅干しをすりつぶして患部に貼ってくれた。あら不思議。熱も下がり痛さは消える。毎年梅をつけていたので甕が3つもあって、戦後もすぐ梅干しつくりを始めていたので、我が家は梅干し大尽。特に青梅で作る梅エキスは万病に効いた

口紅はどうしたかと言えば、下の姉が「京紅」を持っていて上の姉と分け合って使かっていた。どこから京紅が渡ってきたのか聞かずじまいでわからない。
幸い卵は弁護士料の代わりによくいただいていたので、髪は卵の白身で洗い、黄味は生で飲まされていた(苦手だった、私の体は完全ではなかったので、よく飲まされた)

そうそう私の仕事は一升瓶の中に玄米を入れて棒で衝く、その時出る糠を紅絹に入れて(当時は着物の裏は紅絹だった)彼女たちは顔や体を洗っていた。使った後は庭で干していて、いよいよ使えなくなると廊下や柱をそれで磨いていた

茶碗を洗うのはヨモギ、ヨモギを摘むのも私の仕事だった。当時は冷蔵庫がないのでその都度つみにいく、しかし季節が変わると無くなる。そうするとやはりここでも米ぬかが活躍、まだたくさん草にお世話になったけど記憶があいまい。母はどうしてこんなにもくわしかったのだろう。きっとこの当時のお母さんたちの知恵はもっともっと深いものがあったに違いない

こうやって思い起こすと当時はケミカルのものは一切口にも入らないし、お掃除洗濯にもつかっていない。そうだ海藻も大活躍していたな、歯は塩で磨けと言われたし、絹物もふのりで汚れをとり、糊にもなった。ご飯はかまどで炊いていたので、灰がたまり、その灰を溶かしてお鍋を洗ったり、最後は植物に撒いたり。70年前はすべて自然との共存共栄の中で生活をしていたのだ

女たちの生活の知恵のおかげで、戦後の混乱もやりすごすことが出来た。そういう女たちの生活態度を見て男たちは生き残った家族の命を守ろうとして頑張ったのだと思う

今まさしく毎日の生活をケミカルから自然に戻そうと思う人達が増えてきたし、おそらく時代もその方向に進むことだろう。知恵のあったお母さんたちは鬼籍に入っている人も多い。残っている方にはその知恵をもっと伝える義務がある。ボケてる場合ではない90歳以上の女性さん❣


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする