チャコちゃん先生のつれづれ日記

きものエッセイスト 中谷比佐子の私的日記

着物が繋ぐもの 444

2021年08月06日 10時27分55秒 | 日記
ウイクデーの20時からチャ子ちゃん先生は毎日FBライブを行っている
1月4日から欠かさずなのでもう100回を超えている
着物の持つ日本の文化のあれこれを発信したい。それのみ

そして最近分かったことは
手仕事がいいということはその通りなのだが、精密さを求める必要があるのだろうか?という疑問
例えば初めて石垣島に渡ったとき、それは今から50年も前になるが、その時見せていただいた八重山交布、木綿と麻の交織であった。細密な手仕事を求めていたいた私は、その布にがっかりして取材をやめた。

今思うと技術の継承も大切だが、着る人がいなければその技術は生かされない。着物は内地の問屋の販売力に頼るしかなかった人たちにとって、八重山上布を作ることより、一般人に向ける八重山交布を生産する道を選んだのだと思う

その思いが通じない無知で傲慢な私がいた。と今ははっきりそう思う

技術の継承を重要視するあまり、きものは着るものから見るものにしてしまった
そのため一般に着る人は芸術品に近い工芸品を購入することはできない。着物を着たいが値段が高すぎるということになる

そこへ入り込んだのが石油繊維だ、その布の上に描くのは印刷。だからと言って簡単に買える値段でもない。しかも手入れは簡単というが着心地においては自然素材の方がはるかに勝る。しかも日本の気候には石油繊維は皮膚の呼吸をも妨げる。そのためアトピーになったり、かぶれたりする人も多い

50年前に購入した芭蕉布がある。手仕事の暖かさ、素朴な織り上がり、土地の産地問屋で参考のために購入した。30代の私が旅の途中で購入できる金額だったのだ。しかし今の芭蕉布は芸術品になってしまって手の届かない高みに行ってしまった

いつまでも桐箱に収められているのがいいのか、大いに着用をして何回も水をくぐらせた方がいいのか、着物は着てからこそ価値がある。着られる着物づくりを進めなければ、着物を着る人はさらに減っていく

そうすると着物が連れて行ってくれる日本の文化に巡り合わない

八重山交布もあってよかった
そのほかのいわゆるふだんの着物と言われる素朴な着物がもっと生産されていい
究極の着物を作る人ももちろん大歓迎。しかし日本各地で生産されていた「普段着」の着物にもっと目を向けなければいけないなあと考える

戦後の窮乏生活では着物の価値が高く、着物で家族が養われた。昨今は着物は邪魔者。捨てる人さえいる。着物がなくても人の一生は全く困らない。しかし着物のおかげで日本を深く理解でき、日本人としての誇りが持てて、自分自身の中に大きな愛が芽生える。愛ある人間に育ててくれる着物を手放すのはあまりにも愚か
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする