チャコちゃん先生のつれづれ日記

きものエッセイスト 中谷比佐子の私的日記

戦争体験 12(戦後)

2021年08月30日 07時32分38秒 | 日記
たまに日曜日下の姉のお供で繁華街に出る
街の中は足のない、また片腕のない傷痍軍人がアコーデイオンで軍歌を弾きながら投げ銭を待つ姿があちこちで見られる。そのわきで戦争孤児たちが、靴磨きをしたり、いかがわしい新聞を売ったり、闇のたばこを売ったっりして日銭を稼いでいた

姉の目的はお付き合いが始まった男とのデートに、私を出しに使っていたのだ。そういうこととは気づかず、アイスキャンデーや、洋菓子につられ、帰りに本も買ってもらったりしてご機嫌だった。しかし町の中の進駐軍とか戦災孤児、傷痍軍人の姿に胸が痛み、二人の話など全く耳にも入らず、あの人たちは夜をどう過ごしているのだろうかとそればかりが気になっていた

焼け残った画廊があり、そこの一角にお茶を飲むところがあって、姉たちはいつもその画廊で落ち合っていた。私はおとなしく画集を見たりして過ごしていたが、そこの店にも傷痍軍人たちが奏でる軍歌が聞こえてきて、軍歌の何曲かを覚えてしまった。彼らがよく奏でていたのは「ここはお国の何百里ーー」という曲だった(今でも歌える、自慢にはならないけどーー)

町に出たついでに、姉と前に住んでいた町に行ってみる。見覚えのある建物は寺の一部と、乾物屋の倉庫、そのほかは簡単に建てられた家が軒を並べていた。我が家だった土地の上には、庭もない簡易住宅が三軒も建っていて、子供たちが出入りしていた。庭にあったボンタンの樹が健全でいて実をつけていたのには驚いた。

ザボンの収穫期になると、書生さんと兄が木に登って実を落とし、姉やお手伝いさんたちがキャーキャー言って受け取り、それをまた私が小さい腕にいっぱい抱えて母のところに持っていくというザボンリレーがとても楽しかった。ミカン箱につめて母はあちこちに送っていた。玄関わきにあった柘榴の樹は消えていた。兄が二階の窓から屋根を伝って柘榴の実を取ってきて絵をかいていたねえ、と姉と懐かしく話し合う

結局姉はそのデートの相手と結婚をしたのだが、戦後といえども「自由恋愛」というのはまだ許されず、相手は格式高い家の御曹司、今長屋に住んでいる娘とはーーーと親族の反対があったらしい。父はその相手を見て
「お金つくりにたけている男だ,生活力があり、これからの時代に向いている」
という評価で賛成も反対もせず、成り行き任せでいたという

交際1年でめでたく式を挙げた
その花嫁衣装があちらの家に伝わる三枚重ねの赤白黒の衣裳でなかなか見事なものだった。家で支度をし、三段重ねの花嫁草履を履いたまま座敷から降りていった姿を今も覚えている。戦後5年、姉は22歳になっていた
コメント (2)
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