クリシュナムルティは、いつも「思考」を槍玉に上げていた。「思考を終わらせよ」というのだ。
ということは、何も考えなければいいのか。どうやら、そういうわけでもないらしい。
「ああでもない、こうでもない・・・」と、頭の中をいつも渦巻いている考えを止めて、頭をカラッポにする。しばらく何も考えないでいると、頭がボーっとしてくる。とりあえず、ボーッとしているとはいえ、思考を停止することには成功だ。
でも、クリシュナムルティはこの状態を「ぼんやりした無為」と呼び、これでもダメだと言うから厄介だ。
ならば、どうせよと言うのか??
この点についての質疑応答で、Kはこう語っている。
いわく、
>質問者 : 思考を終わらせるということによって、あなたが本当は何を意味しているのか、よく分からないのですが。・・・これに対して、あなたはそのどちらも(註:思考も、ぼんやりした無為も)超えなさいとおっしゃっている。これはどういう意味なのですか?
>K : ごく簡単に言えば、思考は記憶の応答であり、過去なのです。思考が働くとき、記憶、経験、知識、機械として働いているのはこの過去なのです。思考が機能しているとき、それは過去であり、それゆえ少しも刻々の新しい生はないのです。
・・・すべての連続性は思考です。そして連続性があるときは、何ら新しいものはないのです。それがいかに重要かおわかりでしょうか?それは実は死活問題なのです。あなたは過去に生きるか、またはまったく違った生き方をするかのどちらかなのです。それが要点のすべてです。
・・・後にKは、「思考は腐敗する」および「思考は腐敗物である」とまで言うようになった。
(メアリー・ルティエンス著 大野純一訳 『クリシュナムルティの生と死』より)
ここで、Kは、「思考」とは「過去の記憶の応答」であり、「過去からの連続物」であると、明快に定義している。
過去の記憶こそ、あらゆる思考の源泉。
思考するとき、人は過去の記憶にしばられている。それはすでに、古くなって腐敗しているというのに・・・。
つまり、「思考を終わらせる」とは、過去の記憶との応答を止めること。過去との連続性を断ち切ることだったのだ・・・。
ということは、何も考えなければいいのか。どうやら、そういうわけでもないらしい。
「ああでもない、こうでもない・・・」と、頭の中をいつも渦巻いている考えを止めて、頭をカラッポにする。しばらく何も考えないでいると、頭がボーっとしてくる。とりあえず、ボーッとしているとはいえ、思考を停止することには成功だ。
でも、クリシュナムルティはこの状態を「ぼんやりした無為」と呼び、これでもダメだと言うから厄介だ。
ならば、どうせよと言うのか??
この点についての質疑応答で、Kはこう語っている。
いわく、
>質問者 : 思考を終わらせるということによって、あなたが本当は何を意味しているのか、よく分からないのですが。・・・これに対して、あなたはそのどちらも(註:思考も、ぼんやりした無為も)超えなさいとおっしゃっている。これはどういう意味なのですか?
>K : ごく簡単に言えば、思考は記憶の応答であり、過去なのです。思考が働くとき、記憶、経験、知識、機械として働いているのはこの過去なのです。思考が機能しているとき、それは過去であり、それゆえ少しも刻々の新しい生はないのです。
・・・すべての連続性は思考です。そして連続性があるときは、何ら新しいものはないのです。それがいかに重要かおわかりでしょうか?それは実は死活問題なのです。あなたは過去に生きるか、またはまったく違った生き方をするかのどちらかなのです。それが要点のすべてです。
・・・後にKは、「思考は腐敗する」および「思考は腐敗物である」とまで言うようになった。
(メアリー・ルティエンス著 大野純一訳 『クリシュナムルティの生と死』より)
ここで、Kは、「思考」とは「過去の記憶の応答」であり、「過去からの連続物」であると、明快に定義している。
過去の記憶こそ、あらゆる思考の源泉。
思考するとき、人は過去の記憶にしばられている。それはすでに、古くなって腐敗しているというのに・・・。
つまり、「思考を終わらせる」とは、過去の記憶との応答を止めること。過去との連続性を断ち切ることだったのだ・・・。
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