「神」とは、いったい何者なのだろうか。そもそも、神は存在するのか、しないのか。
これは、人類にとって根源的な問いのひとつと言えるでしょう。
一見、答が出そうにない問題に、クリシュナムルティは明確な回答を与えている。
いわく、
>「私たちが想像力で神を作り出したのです。思考が神を考え出したのです。すなわち、私たちが、不幸、絶望、孤独、心配から、神と呼ばれているものをでっち上げたのです。神が自分そっくりに私たちを作ったのではありません。
・・・個人的には、私は何も信じておりません。話し手はただ物ごとにあるがままに、事実にそのまま直面し、あらゆる事実、あらゆる思考、すべての反応の性質に気づくようにしているだけです。
・・・彼はそういったすべてにひたすら気づくようにしているだけなのです。もしもあなたが恐怖や悲嘆から自由であれば、神の必要はないのです」
この講演の後、Kが起立したとき、拍手しないで欲しいという彼の嘆願にもかかわらず、拍手喝采があった。
(メアリー・ルティエンス著 大野純一訳 『クリシュナムルティの生と死』より)
もちろん、神を信じるのも自由だ。それは、人それぞれと言えるだろう。
だが、それは思考の産物。人間が作り出したものだということを忘れてはいけない。
まだ目覚めていない人は、そのような観念を必要としている。それなしには生きていけない人々もいるのだから、仕方がない。
だが、目覚めた人には、もはや必要ありません。
「神」という観念に、縛られることなかれ。
汝もまた、信仰を捨て去れ・・・。
合掌。
捨てなくて良かったですね(笑)。日本でも、クリシュナムルティへの理解が、もっと広がればいいなと思います。
これをどう捉えるかは、「神とは何であるのか」ということにもよると思います。
クリシュナムルティは、主として欧米のキリスト教文明圏の人々に向かって語りかけており、キリスト教のドグマからの脱却を教えていると考えられます。
ただ、キリスト教に限らず、日本の多くの新興宗教の人々などにも、「神は思考の産物である」という教えは有効だと思われます。
「汝もまた、信仰を捨てよ」と説いた、ブッダの精神にも通じるものがあります。
とても面白い記事をお書きですね。
私はエックハルト・トールもクリシュナムルティも好きなのですが
思考の産物としての神は否定できますが・・
神が思考の産物というのはどうも腑に落ちません。( 笑 )
どんなに、あがいても・・・・人間は、ある何らかの原因に対する
結果的存在であり
ふと氣がついたら・・
ああ俺には・・頭があり目があり耳、鼻があり、口・・舌があり
胴体があり、手があり、足があり・・手と足には指が片方5本ずつ・・両手10本、両足10本・・全部で20本あるな・・
ありゃりゃ・・どうも左右対称になっているようだゾ・・
というようなハッと気がついてみたら・・そういう存在のようだわい・・という存在です。( 言葉で伝えるのが難しいですが )
ですので人間が思考で作り出した神は捨てられても
神は捨てられないです。