波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

      思いつくままに

2012-08-21 09:12:18 | Weblog
私が散髪に行っている理容師さんは70才をこえるお婆さんである。女性特有の話好きで、その都度問わず語りで話すのだが
「今年の夏は昨年より暑いけど、どう過ごしていますか」と水を向けてみた。すると「クーラーは一切使わない。(店は別だが)最初から自分の部屋にはつけないことにして(つけると使いたくなるし、結局使うことになる、なければ使うことはない)
。扇風機もなく、団扇を時々使うだけだと言う。夜は窓を開け放し寝る。冬は逆に毎日天気が良いと布団を毎日干して暖めて
夜はホッカイロを偶に使う程度で過ごすのだ」という。初めて聞く話で信じられないような気がしたが、冷静に考えてみると
自分たちが過去の習慣に捉われて、以下に安易に何の工夫もなく生活していたかを考えさせられた。
なんでも贅沢に、あれもこれもと何の工夫も我慢もせず、必要なものをそろえて楽に楽に身体を慣らしてしまっていたことを
改めて考える機会を持った。自分でしたくないこと、他人が嫌がることなどすることはまずなかった。
仕事にかこつけて、家の事は一切しないのは当然ながら、自分のことすらしない習慣が身についてしまっていた。
やがて一人になって生活をするようになって、否応なく自分で身体を動かすことを覚えるようなり、少しづつ行動を起こす。掃除、洗濯、食事をはじめとして、その日一日の行動計画を自分なりに考える。
そして一日が終わり、反省を込めて祈りをする時、計画の半分も出来なかったことを思う。また、逆に思わぬ喜びや幸せがあって心が和むこともある。
「もし身体の一つの部分が苦しめば、全ての部分も一緒に苦しみ、もし一つの部分がほめたたえられれば、全ての部分も一緒に喜びます」とあります。
仮に病気や老齢のために人手がかかり、この人がいなければ、生きていなければどんなに楽になるだろうと思うような人でも、その人の「困った存在」が「困らされた人」にいろいろなことを与え、後に良かったと思うことさえも出てくるのである。
人間は、全てにひとりの存在であることを覚えて、自分で行動することを覚えていきたい。そしてその中から身体全体が動き
自分で出来ることの喜びを発見し、自信を持つと同時に、そこから新しいものを生み出すことが出来ることを覚えたいと思ったのだ。