朝の日差しを浴びながら子供の手を引き、美継は歩いた。道にはたくさんの怪我人と死人が横たわり、その匂いも異常であった。しかし、自分たちが助かったこと、怪我も無く無事でいることを本当に感謝せざるを得なかった。お昼頃ようやく飛鳥山の家にたどり着くことが出来た。食事をとると、急に眠くなり、三人はぐっすり眠った。前夜一睡も出来ないでいた緊張感が急にゆるんだのであろう。しかし、ゆっくりしているわけには行かなかった。美継は翌日早速、埼玉の次男の疎開先へ急いだ。すでにそれぞれの親が子供たちを引き取り、別れを告げていた。しかし中には親が空襲の際、焼死して迎えに来る事が出来ず、子供はそのまま親戚に預けられる子供もいた。誰も迎えに来てもらえない子供の淋しげな姿を見ながら友達との別れは哀しいものであった。
しかし、いつまでも感傷に浸っている時間は無かった。四人はその足ですぐ東京駅に向かい、岡山へ向かった。岡山では山内氏が美継たちを迎える準備をしていてくれるはずであった。列車は満員状態で大きなリュックを網棚へ上げ、大きな風呂敷包みを抱えていた。
どの顔にも疲労がにじみ出て笑顔は無く、中に身体の不調を訴える年寄りもいた。岡山までの時間は長く苦しいものであった。岡山から乗り換えて更に北の奥深い田舎へと向かった。
車もあまり走っていない道を迎えのトラックに載せられ、社宅へたどり着くことが出来た。
今までの都会暮らしからいきなりの田舎であった。子供たちはものめずらしげにきょろきょろしているが、美継や妻には狭い長屋の社宅の暮らしは不自由を感じないわけにはいかなかった。疎開する時の話では、一軒のきちんとした家を借りて其処へ住めることが条件での話だったのだが、何時の間にかその話は消えていた。妻には大きな不満になって、残ったが、
そんなことがかなう環境ではなかった。育ち盛りの子供二人を抱え、美継は早速本社の仕事に付いた。得意の経理の仕事を任されて、支配人としての業務は社長の山内氏を補佐して重要な職務だった。厚い信用は美継の大きな支えとなり、仕事は順調であった。東京の営業の仕事はすぐには難しいとして、取引先の商社に看板を預け代理店として依頼することとした。経済復興を目指して立ち上がり始めていたこともあり、弁柄の需要も途切れる事も無く徐々に増えていた。戦後の復興が始まりつつあった
しかし、いつまでも感傷に浸っている時間は無かった。四人はその足ですぐ東京駅に向かい、岡山へ向かった。岡山では山内氏が美継たちを迎える準備をしていてくれるはずであった。列車は満員状態で大きなリュックを網棚へ上げ、大きな風呂敷包みを抱えていた。
どの顔にも疲労がにじみ出て笑顔は無く、中に身体の不調を訴える年寄りもいた。岡山までの時間は長く苦しいものであった。岡山から乗り換えて更に北の奥深い田舎へと向かった。
車もあまり走っていない道を迎えのトラックに載せられ、社宅へたどり着くことが出来た。
今までの都会暮らしからいきなりの田舎であった。子供たちはものめずらしげにきょろきょろしているが、美継や妻には狭い長屋の社宅の暮らしは不自由を感じないわけにはいかなかった。疎開する時の話では、一軒のきちんとした家を借りて其処へ住めることが条件での話だったのだが、何時の間にかその話は消えていた。妻には大きな不満になって、残ったが、
そんなことがかなう環境ではなかった。育ち盛りの子供二人を抱え、美継は早速本社の仕事に付いた。得意の経理の仕事を任されて、支配人としての業務は社長の山内氏を補佐して重要な職務だった。厚い信用は美継の大きな支えとなり、仕事は順調であった。東京の営業の仕事はすぐには難しいとして、取引先の商社に看板を預け代理店として依頼することとした。経済復興を目指して立ち上がり始めていたこともあり、弁柄の需要も途切れる事も無く徐々に増えていた。戦後の復興が始まりつつあった
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