波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

             思いつくまま

2009-08-12 09:30:08 | Weblog
今週は旧暦のお盆を迎えている。私もこの時を覚えて、墓参し、亡くなった両親と、義姉、そして妻を思い祈ることにしている。その思いは年々強くなっているようにも思い、何かと思い出すことも多くなった。
今、私の手元に一通の葉書がある。父が亡くなった年に私にくれたもので、今では「形見」のような存在になっている。その葉書には孫の成人式を祝う言葉と聖書の聖句が書かれている。「信仰、希望、愛、その中でもっとも大いなるものは愛である。」そんな父と生前話をすることが話をすることがとても楽しみであった。
岡山と東京という距離でなかなか会って話すことは出来なかったが、時間が取れると話をしたものである。やさしい中にも厳しい目で見ていた父は当時いつも反抗的な私の言葉を聞きながら、淋しい思いをさせていたことを思い出すのである。
今となっては、当時の文通が懐かしい思い出である。
人生には限りがあり、いずれ死ぬことになる。各々が残されている時間をどのように過ごしていくか、それはある意味「告知」を宣言された病人と同じものとして覚悟して考えるべきことだろう。
そんな毎日の中で日々生かされていることを感謝して自分に課せられた務めを出来るだけ果たして生きたいと願っている。
「一生を終えて後に残るのは、われわれが集めたものではなく、我々が与えたものである。」とジェラール.シャンドラーと言う人が言ったとされているが、
この言葉には率直に言って素直に肯定することは出来ないような気がする。
真実はそうかもしれないが、本能的な防衛本能が世の中の様々なことを予感し、
蓄えることを第一とする行動を裏付けている。
(日本のたんす預金が1500兆円とされることが物語っている。)
従って現実的にはこの言葉は理解しにくいが、冷静に考えているうちにこの言葉の真実が見えてくるようになるのかもしれない。
苦難を恐れるのではなく、其処を突き抜けていく時、何かが見えてくるのかもしれない。
この時期は子供たちの夏休みでもある。私も一日孫と共に過ごすことにして、
地元の博物館へ行くことにした。新しいものをすべて吸収しようとするその姿を見て、本当に人間の成長を目の当たりに見る思いをすることが出来たが、
ベンチにべったり座っている自分を見て情けなくもなったことである。

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