時々自分は不幸な状態なのか、幸福でいるのかと自問自答することがある。そうでなくてもふっと自分を顧みて、これで良いのか、不安だなあと思うことは誰しももつのではないだろうか。自分が幸せか、不幸かと言うことを何を基準にして考えたら良いのだろう。
一つには他者、つまり他人との比較を無意識にしているところからきているだろうと思う。それもごく身近な人と比べているのだ。他人のことなど気にすることはないと言われても、この世で生活している限り、周りの人を無視して生きていくわけには行かない。
そして何時の間にか自分の立場を見て、考えてしまっているのだ。
だとすれば、その比較の対象の半径を少し広げて下げてみてはどうだろう。(誤解の無いように言えば、それは決して馬鹿にしていっているのではない。)つまり極端に言えば、
海外の未開発国の人たちのことを考えるとか、まだまだ充分な生活物資のない人たちの事を考えてみてはどうだろうか。そうすることで「幸せの価値観」が違ってこないだろうか。そう考えることで幸せと言うものが単に「裕福」な状態に自分があるということだけで計れるものではないことも分ってくる。「裕福」が幸せの条件かもしれない。また、そう思う時もはあるだろう。しかし、それが全てであろうか。
こんな話を聞いたことがある。「大皿は入れたものをすぐ冷やす」という言葉があるそうである。つまり大宮殿のような大屋敷に住んで、何をするにも全てのものが整っていて
自分は何もしなくても、全てのことが思うようになり、運んでいる。必要なものは何でもある。このような環境で生きている人の感情や心はどんなものだろう。少なくても熱く燃える心、喜びを分かち合う触れ合い、涙が自然に溢れるような感動、これらのことをあまり期待できないのではないだろうか。
自分が幸せか、どうかと言うことを他人との比較で決めることは少なくてもおかしいと思うべきだし、良く考えて見回してみれば、身近なところで心が豊かになることは一杯あることに気付くはずだし、平安の気持ちこそ大事である。そしてそのことに気付く時自分がどんなに幸せであるかを気づく時でもある。逆に「あの人は幸せそうだなあ」と見える人でも、心に大きな悩みを持っている人だとすれば、その人は不幸なのではないだろうか。
昨日、桜も終わったある寺の庭を訪ねた。其処には、其処にしか見ることが出来ない
「山吹」の花の群生がある。誰にも知られず静かに咲いている黄色の美しさにしばし足を止めて見入ったものである。一日はどんな劇場の特等席でドラマを見ているより、ずっと
ドラマチックなドラマを見る特等席にいるようなものである。
そんな意識を持って一日を過ごしてみたい気がする。
一つには他者、つまり他人との比較を無意識にしているところからきているだろうと思う。それもごく身近な人と比べているのだ。他人のことなど気にすることはないと言われても、この世で生活している限り、周りの人を無視して生きていくわけには行かない。
そして何時の間にか自分の立場を見て、考えてしまっているのだ。
だとすれば、その比較の対象の半径を少し広げて下げてみてはどうだろう。(誤解の無いように言えば、それは決して馬鹿にしていっているのではない。)つまり極端に言えば、
海外の未開発国の人たちのことを考えるとか、まだまだ充分な生活物資のない人たちの事を考えてみてはどうだろうか。そうすることで「幸せの価値観」が違ってこないだろうか。そう考えることで幸せと言うものが単に「裕福」な状態に自分があるということだけで計れるものではないことも分ってくる。「裕福」が幸せの条件かもしれない。また、そう思う時もはあるだろう。しかし、それが全てであろうか。
こんな話を聞いたことがある。「大皿は入れたものをすぐ冷やす」という言葉があるそうである。つまり大宮殿のような大屋敷に住んで、何をするにも全てのものが整っていて
自分は何もしなくても、全てのことが思うようになり、運んでいる。必要なものは何でもある。このような環境で生きている人の感情や心はどんなものだろう。少なくても熱く燃える心、喜びを分かち合う触れ合い、涙が自然に溢れるような感動、これらのことをあまり期待できないのではないだろうか。
自分が幸せか、どうかと言うことを他人との比較で決めることは少なくてもおかしいと思うべきだし、良く考えて見回してみれば、身近なところで心が豊かになることは一杯あることに気付くはずだし、平安の気持ちこそ大事である。そしてそのことに気付く時自分がどんなに幸せであるかを気づく時でもある。逆に「あの人は幸せそうだなあ」と見える人でも、心に大きな悩みを持っている人だとすれば、その人は不幸なのではないだろうか。
昨日、桜も終わったある寺の庭を訪ねた。其処には、其処にしか見ることが出来ない
「山吹」の花の群生がある。誰にも知られず静かに咲いている黄色の美しさにしばし足を止めて見入ったものである。一日はどんな劇場の特等席でドラマを見ているより、ずっと
ドラマチックなドラマを見る特等席にいるようなものである。
そんな意識を持って一日を過ごしてみたい気がする。
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