波紋

一人の人間をめぐって様々な人間関係が引き起こす波紋の様子を描いている

   思い付くままに   「得る事.与える事」

2014-02-04 10:09:21 | Weblog
私の住んでいるアパートの隣がジジババトリオの婆さんの住まいだ。そこから週に何度か電話が入る。「今何をしているの。爺が来たわよ。よかったら顔だして」「分かった、片付けしたらすぐ行くよ」こうして三人が婆さんの居間に集まり、僅かな時間を交わりの時とする。
何の話があるわけではないが、その時間はかけがいのない時間となり、笑いとストレス解消の時間となる。一時間もすると爺二人は「そろそろ引き上げるか」と腰をあげかけると婆が「今日は魚屋さんが来る日で珍しくアラを買ったので、それを使って大根を煮付けたんだよ。おいしいだしが出ているから、持って行って食べな。今鍋に入れてやっから」そう言うと各々に魚と大根の煮つけを持たせてくれる。「ありがとう。今晩はこれでご夕飯だ。ご馳走様」三人は別れて帰る。そこには何の計算も打算もない。
しかし、元来人間はこの世での生活においては無意識のうちに「得る事」と「与える事」を感じながら行動するし、それがまた自然でもある。言い換えれば人は何であれ「与えられる」ことに
喜びを覚えるものだと思う。然し逆に「与えること」と言う意識はどうだろうか。
僅かなものでも事でも意外に行動には移せないものである。よく高齢者の部屋にもう使わない
又は必要としないもので溢れている光景が見られるが、不要なのに捨てられない、処理できないという事と似ている気がする。
婆の行動を見ているとそこには何のわだかまりも無理もない。ましてそれで見返りの計算などみじんもない。まるで家族が少ない食べ物を分け合って食べる食卓の風景である。
そしてその事を喜び分かち合えることを楽しんでいる事があふれているだけである。
良く若いもの同士で見る「シエアーする」と言う光景があるが、こんな事だろうかと思える。
そんな婆の姿から「得る事」よりも「与える事」の大切さと尊さを学んだ気がしていた。そして
その夜、鍋をつつきながら婆のぬくもりを感じていた。
数日後、私は用事で出かけた帰り道、まっすぐスーパーへ立ち寄る。「今日は婆の好きな
牛乳と菓子パンを買って帰ろう。」少し荷物になるが、受け取るときのうれしそうなあの笑顔がたまらない。そう思いながら歩き出すのだった。