![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/12/5d/8e346b639f1dc8ebc0aa85681ac8ade5.jpg)
今日は昼間、落合で打合せがあって、ふらふら出かけていった。
そのあと夜8時、別の企画のため井荻に出かけていった。
井荻って西荻から近いと思っていたけど、大して近くなかった。
なんか荻のつく地名ばっかりあって、惑わされるぜ。荻窪、上荻とか。
職場で回ってきた回覧物に、アメリカの有名アーチストのインタビューが
乗っていた。それはこんな風だ。
絵画は描いたあと、アートとして作品が残るけれど、
演劇は後に残らない。食文化だって、おいしい料理は
食べてしまったら後には何も残らない。でも、何も残らなかった
としても誰も、それぞれのアート性を批判しない。
なぜならそこにはアートを発信する側の、
伝えようというココロが残っているから。
アートというのは実は成果物ではなくて、伝えようとする
ココロのことなのだ。
作家から、伝えようとするココロが作品の中にあるのなら、
誰にも見向きもされない絵画も、誰にもおいしいといわれない
料理だって、それはアートになるのだ。
画像は荻窪駅前。10年前も荻窪に住んでいた。ひとつの
ホームグラウンドみたいなもんだ。
そのあと夜8時、別の企画のため井荻に出かけていった。
井荻って西荻から近いと思っていたけど、大して近くなかった。
なんか荻のつく地名ばっかりあって、惑わされるぜ。荻窪、上荻とか。
職場で回ってきた回覧物に、アメリカの有名アーチストのインタビューが
乗っていた。それはこんな風だ。
絵画は描いたあと、アートとして作品が残るけれど、
演劇は後に残らない。食文化だって、おいしい料理は
食べてしまったら後には何も残らない。でも、何も残らなかった
としても誰も、それぞれのアート性を批判しない。
なぜならそこにはアートを発信する側の、
伝えようというココロが残っているから。
アートというのは実は成果物ではなくて、伝えようとする
ココロのことなのだ。
作家から、伝えようとするココロが作品の中にあるのなら、
誰にも見向きもされない絵画も、誰にもおいしいといわれない
料理だって、それはアートになるのだ。
画像は荻窪駅前。10年前も荻窪に住んでいた。ひとつの
ホームグラウンドみたいなもんだ。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます