日々の泡盛(フランス編)

フランス在住、40代サラリーマンのどうってことない日常。

ペソアとリスボン(4)

2007-03-29 06:19:44 | 海外(フランス、スペイン以外)
有名な歴史的建造物をしばし忘れて、ペソアは
リスボンの旧市街に迷い込む。彼いわく、旅行者たちが
かつてのリスボンをもっともよく知りえる場所に。
バイロアルトの傾斜に張り付く狭い通り、ファドのタベルナ、
船員たちが住むアルファマの街角。《建築、通りの造り、
アーケード、階段、木でできたバルコニー、騒々しい街角の、
おしゃべり、歌、貧困、埃にあふれた住民の日常まで
すべてが往時を思い起こさせる街角》

ペソアが港湾近くの新市街のにぎやかさをたたえるのは、
彼の目にはリスボンは他の欧州の首都にも引けを取らない街
だとの自負があったからに他ならない。
サンフスタの電動エレベーターの素晴らしさはエッフェル塔に
匹敵するし、リベルダード大通りはそのカフェや映画館、劇場を
見るにつけシャンゼリゼを彷彿とさせる。



ミシュランのガイドと年齢

2007-03-28 14:40:55 | パリ左岸
知り合いのフランス人のおばさん(60歳近く)
が今度新しく発売されるというミシュランガイド「JAPON」
を見せてくれた。どこかから入手したらしい。
ミシュランガイドといってもあの緑のやつではなく、
voyager pratiqueシリーズの、ちょっとロンリープラネットみたいな
ペーパーバックみたいな手触りのガイド。
写真もあるし、地図も結構正確なのが載っているし、なかなかいい。
九州地方の紹介が北九州地方だけ、しかも博多、大宰府、唐津(なぜ?)、
長崎、別府、熊本しかないのが、残念。鹿児島飛ばされたんだ。

「ところで、あなたって何歳?」
とおばさんから年齢を訊かれたので、「38歳」というと
目を丸くして、「quand même!」と言われた。この言葉、
前に別の人に年齢を明かしたときもまったく同じ単語を発されたのだが・・・。
「結構いっているんだ!」とかそういうニュアンスなんだろうか。
なんだよ。「1968年生まれ」と言うと、
「私はちょうどそのとき、舗道の石を機動隊に投げてた」と言われた。

ペソアとリスボン(3)

2007-03-27 07:12:58 | 海外(フランス、スペイン以外)
100ページ足らずのガイドの中にペソアはロッシオ広場から出発
する二つのリスボンガイドを記している。
1998年の万国博覧会、そして2004年のサッカーワールドカップ
ンの開催による改造工事で1925年からリスボンはその表情を大きく
変えた。でもペソアが記したリスボンの中心街は何も本質的には変わって
ないはず。街の地勢構造は何も変わってないし、アルファマやバイロ・アルトは
相変わらず下町にへばりついているし、1世紀がたっているにもかかわらず
ペソアが示したリスボンガイドに従って街を浮遊することもまだ可能だ。
彼のガイドにはどんな歴史的モニュメントも漏れていないし、どんな小さな
庭園やスポーツ施設でさえ詳細な描写で描かれている。

歴史的建造物の描写の一方で、ペソアは古い、リスボンの
庶民的な地域の描写も忘れていない。
彼はほぼ民俗学的な視点といってもいいぐらいアルファマや
バイロ・アルトの街を描写している。



ペソアとリスボン(2)

2007-03-25 19:52:18 | 海外(フランス、スペイン以外)
その女中部屋こそ、重層的で、変幻自在で、おびただしい数の
彼が考え出した変名にあふれた作品をこっそり生産していた場所だ。
アルベルト・カエイロ、リカルド・レイス、アルバロ・デ・カンポス、
ベルナルド・ソアレス。すべてペソアの作品の『著者』だ。
これらのペンネームで、ペソアは孤独や哀愁にあふれた
詩や散文を作り出した。

《私は何者でもない、何者でも。私の魂は暗黒の大渦潮(maelstrom),
虚空の周りにある深遠な目眩、無の淵にある果てしない大洋の満ち引きである》
ペソアは『不穏の書』の中でそう記している、彼の本名を面白く
説明しながら。「ペソア」とはポルトガル語で「誰か、ある人」(quelqu'un)
という意味であると同時に、「誰でもない」(personne)という意味も持つ。

ペソアのリスボンガイドはガイドを超えるガイドである。リスボンへの
抒情詩であるとともに、ポルトガルにささげられた凱歌である。
作者はリスボンの偉大な歴史を、豊富な文化遺産を、そして文化、経済の
繁栄を褒め称える。

《海からリスボンを訪れる旅行者にとってこの街は、遠くから、
まるで夢の一シーンのように現れ、空のまばゆい青さを背景に浮かび上がる。
無数のドーム、モニュメント、古い城砦がどこまでも連なる低い家々の間に
張り出している、すばらしいリスボンの滞在を予感させるように》



ペソアとリスボン

2007-03-24 19:35:11 | 海外(フランス、スペイン以外)
ブエノスアイレスのボルヘス、ダブリンのジョイス、パリの
モンディアノ。どの首都にもその都市固有の有名な散歩者がいる。
リスボンにもすばらしい素晴らしい散策者がいる。ポルトガルの
大詩人、フェルナンド・ペソアだ。

ポルトガル随一のメトロポール、リスボンは彼の作品の中心
になっている。1935年彼が他界したとき見つけられた膨大な
数の未発表の作品の中には、1925年ごろ書かれたと思われる
リスボンのガイドが残っていた。彼の作品の中にこれほどまで
リスボンが重要な位置を占めるのは、確か母の結婚相手が
領事に任命された南アフリカにわずか9歳で移り住み、そして
彼の地の滞在を本当の「島流し」のように感じた経験によるものと
思われる。1905年、17歳でリスボンに戻ってから、彼は死ぬまで
この街を離れなかった。テージョ川の河畔で事務員として
つつましい生活を送ったペソア。
夜が来ると、独身のペソアは毎晩流行のカフェに通った。
アルコールへの長期間の依存はついには女中部屋のような
狭いアパートでの生活を余儀なくさせた。

フェルナンド・ペソアのこと

2007-03-23 07:45:32 | 読書生活
「不穏の書」の作者、フェルナンド・ペソアは1888年
リスボンに生まれた。1896年、両親に連れられペソアは
南アフリカへと移り住む。1905年に再びリスボンに戻り
ペソアは文学雑誌に寄稿しながら、翻訳家を生業とする。
1935年にペソアが逝去したとき、彼の古ぼけた
タイプライターの脇には、無数の未発表の作品が積まれていた。
ロカ・デ・コエーリョ通り16-18番地。
今はペソア博物館になっている彼の生家。

マドリッドを歩く(4)

2007-03-22 07:10:50 | スペイン
マイヨール広場の写真の続き。
ちょっと引いてとりました。青い空は相変わらず。

それはそうと、イラクで戦争が始まってもう4年が過ぎた。
こんなマイヨール広場ではしゃいで写真なんか撮っていて
いんだろうか、などとふと思った。なんか自分が馬鹿みたいに思えた。

マドリッドを歩く(2)

2007-03-18 18:05:44 | スペイン
グランビアを南下する。FNACやエル・コルテス・イングレス
といったデパートが軒を並べる歩道を下る。正午前にも
かかわらずひどい人手だ。人の波はどんどん大きくなる。
そして着いたのが写真のプエルタ・デル・ソル。
マドリッドの中心、ゼロキロ地点。広場には待ち合わせの人々、
周辺のデパートやブティックへ行くために通り過ぎる人々、
キオスクや宝くじ売り場に群がる人々、バスを待つ人々、
地下鉄の入り口を探す人、トランペット楽団の大道芸を
熱心に聞き入る人など、すごい数の人間がすごいエネルギーを発している。
写真後方に見えるのはTIO PEPEの看板。

マドリッドを歩く(1)

2007-03-18 07:10:58 | スペイン
よく考えたらマドリッドに来るのはなんと
9年ぶりだった。時が経つのは早いなあ。
前回来たときあまりいい思い出がなかったので
マドリッドはもういいや、と思っていたのだが
成り行きでこの街まで来てしまった。

あのころは仕事でこの街に来るなど想像もしなかったが。
写真はグランビア。マドリッドの街歩きはこの通りから。

マドリッド行き

2007-03-15 16:00:53 | スペイン
突然ですが今日からマドリッド行ってきます。
仕事の関係ですが。あんだけスペイン、スペインと
いつも騒いでおきながら、実はマドリッド行くのはほぼ10年ぶり。
あまりマドリッドという街には興味がもてない自分であった。
プエルタ・デル・ソル、スペイン広場、グラン・ビア。
あの頃のままなんだろうか?
時間があったら是非、プラド美術館のボッシュの画を見たいんだが・・・。

「個」の意識とフランス

2007-03-14 14:55:45 | フランス
知人が書いて、某出版物に載ったフランス社会への洞察が
非常にまとを得ていて、自分も同感なんで記しておきます。

*      *     *

フランスは国家という意識が非常に強い。レピュブリック
という言葉がすぐに出てくる。一人一人がレピュブリックを
支えている、そういう意識がこの国にはあります。

また「個」の意識もあります。ですから誰かが自分のために
やってくれるという意識はありません。日本社会ならばこれだけ
一生懸命しているのだから、例えば昇給があるに違いない
と思う人たちがいます。ところがフランスでは決まっている
ものは決まっているのですから、どんなに昇給がほしくても
自分で交渉しない限りそんなことはありえません。頼るものは
自分しかない社会です。一人一人が国を支える、集団生活により
社会を支える、それには一定の決まりが必要であるということです。

quai de la gare

2007-03-13 06:29:59 | パリ左岸
地下鉄の駅、quai de la gare(6号線)最寄りの
トリュフォーまでベランダに植えるための植物を買いに行った。
バラとかラベンダーとか小さいオリーブの樹とか、あと
名前の分からない植物とか。トリュフォーは園芸のスーパー
見たいな感じで本当に買い物がしやすい。

写真はベルシーの大蔵省とセーヌにかかる橋。

若いコミュニスト

2007-03-12 05:54:31 | フランス
日曜の深夜(というか土曜の深夜)にparis dernièreという
番組を見ていたら、若いコミュニストが集まるカフェというのが
紹介されていた。このparis premièreという番組、日本で言えば
以前のtonightとみたいな番組なのだ。最先端の風俗を紹介する、
ちょっと大人の番組、という感じ。

で、若いコミュニストなんだが、そのコミュニストカフェの地下の
暗闇で、なにやら共産党のテーマソングとともに踊っていたのだが、
これがみんな揃いも揃って、「おまえら、若者かよ!」と突っ込みたく
なるような、オタクぞろい。現代社会についていけないから
コミュニストになったんじゃないの?と言ってしまいそうなぐらい
みんなダサかった。いや、ダサくてもいいんだけど、フランスで
ああいう若者ってあんまりみないからちっと驚いたぜ。
太った女の子、黒縁メガネのいけてない男の子、ただ笑っている
なんだかうすら気味悪い男とか。なんかコミュニストやばいよ。

ノスタルジーという感情

2007-03-11 08:10:25 | 福岡
正月に久しぶりに日本に戻ったとき、親が柳川に
ドライブに連れて行ってくれたんだが、帰りがけに
筑後市という街を通った。

筑後市は福岡県南部に位置する、筑紫平野の典型的な田園都市だ。
どこまでも平らな道が続いている。田園と低い街並み。
車の中には両親と姉と4歳になる姉の息子が乗っていたのだが、
うちの母親が甥に向かって、
「この街にあなたのお母さんとおじさん(僕のこと)は
子どもの頃住んでいたのよ」と一生懸命話しかけていた。

僕らの車は昔住んでいた家の前やよくかけっこなどした
小さな広場の前など周ったのだが、こんな感傷的なことを
うちの親はよくやる。失くしてしまってもう戻らない
時間を取り戻すような作業を。
ほんとに何も変わらなきゃいいのになあ、などという
感情に襲われるのもそんなときだ。