昨日は大学院の授業を受けていたのだが、なにか分からないことがあって
教授に質問したのだが、教授はその質問に対していろいろ考えあぐねた挙句、
「簡単には説明できない、ごめんなさい」と答えをくれなかった。
そんな大変な質問ではなかったのだが。
そのあと同じゼミの学生が「それはこれこれこういうことなんですよ」と
同じ質問に答えてくれたのだが、その答えはもともと僕もうっすら
考えていた答えだったので「そんな単純な話ではないはず」とココロの中では
思ったがとりあえず「ああ、そうですか」と言ってみた。
質問をするとはどういうことなんだろうか、と考える。
明確な答えを得られる問題など皆無だし、多分、問題の多面性を認識しつつ
その一部分に光をあてて、説明してもらうこと、を期待して質問するんだろうな。
それに対して単純化した形で、ステレオタイプな答えをもらってしまうと
そんなの分かってるよ、なんて思ってしまう。
社会人学生の中には評論家みたいに話す人がいて、ある問題や
ある命題にはもう既に答えがあって、それをいかに説得力を持って説明するか
にもう力点が入っているタイプがいる。その答えが経験則によるものか、は
どうか別として。それじゃあ、思考がそこで止まっちゃうじゃん、と思うんだが。
そのあと来期の授業の取り方について同じゼミの人と話す。
僕が何も分かっていないのでぎょっとされる。
今日からフランスに行ってきます。これから成田空港・・・。
教授に質問したのだが、教授はその質問に対していろいろ考えあぐねた挙句、
「簡単には説明できない、ごめんなさい」と答えをくれなかった。
そんな大変な質問ではなかったのだが。
そのあと同じゼミの学生が「それはこれこれこういうことなんですよ」と
同じ質問に答えてくれたのだが、その答えはもともと僕もうっすら
考えていた答えだったので「そんな単純な話ではないはず」とココロの中では
思ったがとりあえず「ああ、そうですか」と言ってみた。
質問をするとはどういうことなんだろうか、と考える。
明確な答えを得られる問題など皆無だし、多分、問題の多面性を認識しつつ
その一部分に光をあてて、説明してもらうこと、を期待して質問するんだろうな。
それに対して単純化した形で、ステレオタイプな答えをもらってしまうと
そんなの分かってるよ、なんて思ってしまう。
社会人学生の中には評論家みたいに話す人がいて、ある問題や
ある命題にはもう既に答えがあって、それをいかに説得力を持って説明するか
にもう力点が入っているタイプがいる。その答えが経験則によるものか、は
どうか別として。それじゃあ、思考がそこで止まっちゃうじゃん、と思うんだが。
そのあと来期の授業の取り方について同じゼミの人と話す。
僕が何も分かっていないのでぎょっとされる。
今日からフランスに行ってきます。これから成田空港・・・。