日々の泡盛(フランス編)

フランス在住、40代サラリーマンのどうってことない日常。

ジェフクーンズのこと

2014-11-16 20:19:54 | アート
最近、毎週のように展覧会巡りをする日々が続いていて
ちょっと今日は一息つくということで何もしなかった。
本当は新しく開館したピカソ美術館とかルイビトン財団の美術館とか
行きたいのだけれど、今のところ簡単にいける状態じゃないらしい。
人ごみでごった返しているらしいし。

代わりといってはなんだが、今日は、ジェフクーンズに関する
新聞記事を読んでいた。今月末からポンピドーセンターで大掛かりな回顧展が
開催されるので、否が応でも気分が盛り上がる。

ジェフクーンズの華々しい経歴と私生活、そしてそれい対する批判まで
書かれていた。現代アートに批判的な論客にとってはジェフクーンズは
悪魔のような存在である。彼が体現しているのは、お金と、セックスと
派手なメディア戦略。ベルサイユ宮殿での展示は、まるでマネーロンダリング
のようだし、きなくさいものだったと。

そんな批判をあざ笑うかのように、ジェフクーンズはオーストリアの
美術史家アロイス・リーグルの言葉を引用する。

l'oeuvre appartient à celui qui la regarde

作品はそれぞれの鑑賞者の心に属すものである

個人的にはビルバオのグッゲンハイムにある巨大な犬の
インスタレーションが好みだなあ。

「木」

2010-07-04 10:21:00 | アート
youtubeにシャルロット・ゲンズブールの新作映画「the tree」
のトレイラーがアップされていた。原作は「木の中の私の父」
というタイトルの小説のようだ。今年のカンヌでも上映があったらしい。

一本の木、が主人公の映画のようだ。なんか平原とか
空気感とか、空の色とか、いい感じのトレイラーになっていて
しばし見とれてしまう。



箱の中の小宇宙

2010-05-03 11:37:19 | アート
連休を利用して、千葉県佐倉市の川村記念美術館の
ジョセフ・コーネル展を見に行った。なにしろ初めて行くもので
友人と迷いながら、ものすごい時間をかけて行った。
実際佐倉駅からものすごい遠かったし・・・。

いやあ、コーネル展すばらしかったです。展示ホールと
展示作品が一体となっていて、コーネルの作った箱の中の小宇宙に
鑑賞者である僕もそのまま吸い込まれていきそうな空間。薄暗い
展示空間にはいくつもの星があちこちにちりばめられていて、
一層神秘的な雰囲気をかもし出している。小箱のよこには
高橋睦朗の短い、でもつい引き込まれて読んでしまう詩が添えられている。
いやあ、アートってこれまで鑑賞者が作品を眺める、っていう
感覚が強かったんだけど、このコーネル展の作品群は作品たちが
それぞれ発光して、不思議な光を発して、見るものを別世界にいざなって
くれるみたいな感覚を覚えたなあ。よくこんなこと思いついたなあ。

常設展のロスコルームは、まるで聖堂のようでした。

あのエントランスとか、あの坂とか、あの芝生とか、
咲いていたつつじとか、アート広場のヘンリー・ムーアとか、
展示室の窓からふと見えた周りの木立とか。なんにも
構えなくても、難しいこと考えなくても、リラックスして
アートと対話できる空間だった。


コールマイン

2009-12-07 23:17:21 | アート
目黒区美術館で開かれている「文化資源としての炭鉱」展を
見に行く。会場は休日ということもあってかすごい人。
アートとして何かを見つけにいくのか、それとも
ある社会資料として展示を見に行くのか、そのどちらでもあるのか
よく分からないけれど、人でごった返していた。

http://www.mmat.jp/event/tanko/part1.html

種さんの歌で「カナリア」という曲がある。それは
炭鉱のカナリア、という英語の表現をベースに書かれた曲なのだが、
炭鉱夫は坑道に下りるときにカナリアを連れて入る。
というのもカナリアにはどんなかすかな毒ガスも鋭敏に感知する
能力があり、死をもって炭鉱夫に危険を知らせてくれるのだ。
カゴの中のカナリアがぐったりしたら、毒ガスがあふれ始めた印、
早く入り口に引き返して逃げろ、とかそういうサインなのだ。

あと僕は福岡の出身ということで炭鉱はわりと身近な存在だった。
炭鉱の近くで育ったわけではないが、筑豊炭田や三池炭田など
同じ県内の場所ということで何か近くに感じていたのだ。

などといろいろ考えながら展示を見に行ったら、
結局僕は炭鉱のことも、炭鉱で働いていた人々のことも、その炭鉱が
あった時代の日本のことも、戦後史も、労働運動の歴史も、
なーんにも知らなかったんだなあ、ということが分かった。
「筑豊のこどもたち」という土門拳の写真も、もと炭鉱で
働いていたおばあさんたちが筑豊のボタ山の前で何もかも
達観したような笑顔で立っている集合写真も、見ているだけで
語りかけてくる。しかし、それをどう受容したらいいのか分からない。
社会格差の是正とか貧困の削減とか、言うのは簡単なんだ。



アロイーズの声

2009-08-05 23:26:13 | アート
集中講義でへとへとになったあと、ワタリウムで開催中の
アロイーズ・コルバス展へ行ってみる。
31才で統合失調症となり、32才から78才でなくなるまでの46年間を
精神病院で過ごした彼女の作品、アールブリュト(英語だと
アウトサイダー・アートと呼ばれる)の代表的作家と言われる
アロイーズ・コルバス。いや彼女は作家なんて呼ばれたくはないだろうな、
ただ好きで、作家なんて肩書きなんかおかまいなしし、ただ魂から
ほとばしるものをキャンバスに描き続けていただけだから。
彼女の描く世界は骨抜きにされた人生の代替、
コミュニケーションや表現の方法ではなくて生きている哲学そのもの、
そんな言葉が壁に書かれている。

真っ赤な絵の世界は飛び散る血しぶきにしか僕には見えなかったが、
そして絵画の中の登場人物の眼はアーモンドのような形の巨大な
ブルーで塗りつくされているけど、アロイーズの声が今にも語りかけて
くるようだった。このエネルギーがアートなんだなあ。

絵が売れるようになって、スイスのヴォー州は作業療法士を彼女につけ
絵画の制作にもっと励めるような環境を作ろうとした。
しかし、そんな「飼いならし」は逆に彼女から自由を奪い、
絵は精気を失い、彼女も身体を壊して一年後には亡くなってしまう。
無理もない。彼女はなんの価値観や規範にとらわれることなく、
好き勝手に絵を描きたかっただけだから。

アートの存在する意義

2009-05-11 22:41:17 | アート
今日は昼間、落合で打合せがあって、ふらふら出かけていった。
そのあと夜8時、別の企画のため井荻に出かけていった。
井荻って西荻から近いと思っていたけど、大して近くなかった。
なんか荻のつく地名ばっかりあって、惑わされるぜ。荻窪、上荻とか。

職場で回ってきた回覧物に、アメリカの有名アーチストのインタビューが
乗っていた。それはこんな風だ。
絵画は描いたあと、アートとして作品が残るけれど、
演劇は後に残らない。食文化だって、おいしい料理は
食べてしまったら後には何も残らない。でも、何も残らなかった
としても誰も、それぞれのアート性を批判しない。
なぜならそこにはアートを発信する側の、
伝えようというココロが残っているから。
アートというのは実は成果物ではなくて、伝えようとする
ココロのことなのだ。

作家から、伝えようとするココロが作品の中にあるのなら、
誰にも見向きもされない絵画も、誰にもおいしいといわれない
料理だって、それはアートになるのだ。

画像は荻窪駅前。10年前も荻窪に住んでいた。ひとつの
ホームグラウンドみたいなもんだ。



ボタンの付け替え

2009-03-15 21:20:22 | アート
渋谷でアクラムカーンとジュリエットビノシュのダンスを
見た後、歩いて六本木まで移動。ポカポカした陽気で、
なんとなく散歩してみたい気持ちになったのだ。

六本木ではデザイン21ミュージアムで開催中のUTSUWA展へ。
安藤忠雄が担当したという空間構成もさることながら
ルーシー・リーの繊細な陶芸作品が並ぶ風景は圧巻。
彼女へのインタビューも見れるようになっていて、
どんな風に彼女が芸術と向き合っていたか、よく分かる構成になっていた。

http://www.2121designsight.jp/utsuwa_about.html

もう一つの目玉は彼女が戦時中、生活のために制作していた
ボタンのコレクション。大きなものから小さいものまで、
円形のものから、角ばったフォルムまで、いろんな色のボタンが
無数に陳列されていた。
これは生活のためではない、生活のためという目的はあったかも
しれないが、アーチストとして、最終的には芸術性の追求のために
本能で作ったボタンなのだ。


具体的な具体

2009-03-05 23:15:53 | アート
今日は50年代に誕生した日本のアートムーブメント
「具体」について仕事の関係で調べなければならず
しばし研究モードに。僕は美術の専門家でもないし、恥ずかしながら
具体とか、あとその代表的なアーチストの一人、田中敦子について
そしてアンフォルメルの活動と同時に、「具体派」を世界に紹介した
フランス人美術批評家、ミッシェル・タピエについても
何も知らなかった。成長するということは己の無知を知ることなのだな、
と実感。

でも文献を読み進めるにつれて、そのほかのアートのムーブメントすら
何も知らないことを実感。時代を体系的に知ることの困難さを
痛感するのだった。50年代、60年代の日本と言うのはなんて
躍動的だったんだろうか・・・。

12の旅と遊佐未森

2009-02-15 23:42:28 | アート
世田谷美術館で開催中の「12の旅」展を見に行った。
実は、今年、「旅」をテーマとした企画の仕事をしようと思っていて
その割りになにも構想が進んでないんだけど、
展覧会のポスターが会社に張られてるのをみて、そのタイトルと
ポスターの絵柄(ターナー)に引かれて
砧公園まで足を運んだ。ターナーの風景画って
大好きなんだよね、暖かくて、光が繊細で。

でも展覧会はターナーだけでなく、19世紀から今日に至るまで
いかにイギリス人が「風景」というものを旅の中で発見し、それを
描くことをアートにしていったのか、が非常に分かりやすく紹介されていた。
そしてヘンリームーアのような大御所の作品から、
ボイル一家の地球の表面を再現するような作品(山肌とか
コンクリートの地面とか、本当に地球上のある地点の場所を
アート作品として精密に再現するのだ)、日本民藝館で見て以来
気になっていたバーナードリーチの陶芸作品、変形した額の中で
かつての懐かしい景色をビビッドな色彩で再現させるアンソニー・グリーン
など、本当に何度も何度も発見のある、すばらしい展覧会だった。

でも「旅」が何であるか考えるには、まず自分が旅をしなくちゃな。
しかもせこい出張じゃなく、思いのままの自由な旅行だよな。

夕方から草月会館で行われた遊佐未森のコンサートへ。
懐かしい、変わらない遊佐さんだった。
写真は、コンサート後、通りを地下鉄の駅に向かって急ぐ人々。

数学

2009-02-07 09:39:00 | アート
最近、I-TUNEでダウンロードして朝の中央線で聞いているのが
英国のバンド、CHERRY GHOSTのMATHEMATICSという曲。
非常にメロディアスなサウンドで、またビデオクリップも
ロードムービーぽくて、なかなかいいのだ。

EVERY INCH OF BACK ROADS THAT HAVE PUT ME HERE WILL DISAPPEAR
僕をここまで連れてきた、背後に広がったすべての道が消え去るだろう

COLD MATHEMATICS MAKING ITS MOVE ON ME





サブカルのことホントに知りたいのか?

2009-01-08 07:05:12 | アート
なんか最近サブカルチャーに関してなんやら研究したり
する本とか、真剣にディスカッションするシンポジウムとかの
案内とか受け取ったりしていて、そういう話を聞くたびに
昔からのサブカル世代としてはなんだか今更感が漂ってしまう。

サブカル研究なんて昔からあったわけだから、何も今更それが
新しいとは思わないし、社会学からみたら別に普通のことなんだけど、
主催者や企画者がすごい真面目な顔をして、今までサブカルを半ば疎かにして
いて最近発見しつつ、それを大衆に分かりやすく説明する(といいつつ、
全然わかりやすくなってないんだけど)みたいな趣旨がありありと
分かるような企画を話しているのを聞いてちょっと首をひねる。

う-ん、そもそもサブカルを代表するようなアイテム(漫画とか
ロックとか)って、娯楽的な要素が非常に強いし、そもそも
何も考えずに楽しみたいからみんな漫画を読むわけであって、
その背後にある漫画というサブカルの文化の中の位置づけとか、
社会との連携性とか、一般の人(自分も含め)は興味持てないって。
ただ単に楽しいから読むんであって、社会を知ろうと思って
読むわけじゃないよ。そういうシンポ自体を一般向けにやるという
考え方自体、インテリの思考なんだよ、などと近くにいた
企画者に言ってやろうと思ったけどやめた。

僕はそんなシンポより、伝統的な手法を使った博多の塩職人の
講演会のほうが聞きたい。例えば(笑)。そういうのって
押し付けっぽくないしね。

全然関係ないがこないだ久しぶりに近所の銭湯に行ってみたのだが
全然関係ない人の靴の鍵を持っていってしまい、途中で間違いに
気がついたが、本人まで戻さず(面倒くさくて)、番台に置いたまま
にしてしまった。社会人失格ですね・・・。





鎖国する精神

2009-01-05 23:37:05 | アート
せっかく福岡にいるのでちょっと足を伸ばして、
長崎県立博物館で開催中の「バチカンの名宝とキリシタン」展を見に行った。
足を伸ばして、といいつつ自宅から久大本線で久留米駅まで行き、
そこから鹿児島本線で鳥栖駅まで行き、そのあと鳥栖で長崎本線で
特急のかもめに乗り換えて、長崎駅まで。全部で3時間ぐらいかかったっす。
全然気軽にいけない・・・遠い。

さて、県立博物館は二階が常設展。鎖国時代の長崎の町の歴史を
中心に、当時の日本がどのように海外と交易や文化の吸収を行っていたのか
手にとるように分かる秀逸な展示空間になっていて、ついつい見入ってしまった。
鎖国というのがキリスト教が日本に伝播するのを抑えるため、との理由は
よく聞いていたが、他にも
南蛮貿易で富を得た西国の大名がこれ以上豊かにならないための
中央政権からの封じ込めの意味合いもあった、なんて解釈も。
鎖国もオランダとの出島だけでなく、在留の中国人を集めた
唐人屋敷の様子や中国との交易、そして対馬を通した朝鮮との交流など
厭きの来ない展示だった。

そして3階は企画展であるバチカン展。
日本とキリスト教の関係性をイエズス会の歴史とともになぞるような
なんだか厳かな展示空間だった。ゴルゴダの丘にも似ていたという
西坂の26聖人殉教の画などの圧倒的な迫力にしばしば沈黙。

めまい系のアート

2008-12-13 20:23:10 | アート
あまり関係ないが、こないだ大枚をはたいて冬物のコートを買った。
3万9千円もした。あこがれのTOMMOROWLANDのコートだ。
買うとき迷ったのだが、フィット系の、思いっきりカジュアル用のコートを買った。
で会社行くとき用のコートは、もう買わないつもりでいたのだが
最近の冷え込みに決心がかなりぐらつき気味。しかも実家の母親と電話
で話していて、ひょんなことでコートも着ずに会社に通勤していることが分かり、
「コートぐらい買え!」と怒られる。
仕方なく、今日新宿の伊勢丹MENS館に行ったのだが、ありえない値段の
コートばかり売っていて、3万9千円なんてかわいいもんだった。
あのアニエスBですら無茶苦茶コートが高い。あんなに高かったっけ、あのブランド。

とそれはそうと、原美術館のジム・ランビー展に行ってみた。
床一面、白黒のテープが引かれ、インスタレーションを鑑賞する前に
目が回る。原美術館全館がこの不思議な、うずまき状態になっていて
三半規管が狂いそうになるような展示だった。でも、面白い。
unknown pleasureというタイトルが付いている。密かな楽しみ?
写真は去年オペラシティであった個展のもの。

ルオーの影

2008-12-07 22:58:34 | アート
前から行こう行こうと思っていた、ブリジストン美術館の
「都市の表象と心象」を見に行った。規模は小さかったものの、
19世紀後半、オスマン県知事のパリ大改造の時代の、さまざまな
政治の舞台になったパリの街角をリトグラフ、エッチング、絵画で
紹介している、なかなか味わい深い展覧会だった。エッチングって
非人間的で、結構苦手だったのだが、今回の展覧会のエッチングは
パリの19世紀の街角がつぶさに描写され、寓話的でもあり、
写真的でもあり、結構、見入ってしまった。

企画展のあとは常設展。よく考えたらこの美術館に来るのは6年ぶりぐらいかも。
そしてまた再会したのだった、あの絵に。ルオーの「郊外のキリスト」に。
アントニオ・タブッキの本を読んでいたら、中世のリスボン市民が
人生の災難や病気から救われるために、大勢が市庁舎の中にある
ボッシュの絵の前に集まってきた、という一節が出てきたが、
僕にとってもこの絵は、まさに一種の浄化作用を持ってるんじゃないか、
と思うくらいの思い入れの強い絵だ。要するに自分が不幸だった時期に
よく眺めていた絵なのだ。

何年かぶりにこの絵の前に立ってみると、前には気づかなかった
絵の部分が見えてきた。月は満月なのだが、完全な円ではなく、染みが
付いたように黒い雲が下のほうについている。
うらびれた郊外は、聖書の中の町というよりは、まさにパリ郊外の
サンドニのよう。工業地帯の高い煙突。そして画面のあちこちに付いた
しみのような黒点が時代の暗さや街の暗さ、そして人間の心に住む闇を
象徴しているようだ。建物には窓はあるけれど、明かりはついていない。
入り口も真っ黒でまるでシャッターが下りたよう。
まるで街頭をさまようキリストとその弟子を拒絶するかのように。

こんな孤独感や寂寥感が見る人を絵に向かわせるんだろうな。







11月の上野公園

2008-11-30 22:23:53 | アート
昨日は仕事と自分の勉強もかねて、丸の内ホールで開かれていた
シンポジウムに朝の9時半から参加していた。日本とのフランスの
美術館と地域の対話の比較、とかそういう内容だった。
一言に、地域住民との対話、とか美術館が地域で果たす役割、とか
言っても日本とフランスじゃあまりにも社会的コンテクストが違い
すぎるので、比較しようがない、とかと話を聞きながら思った。
壇上の人々が、「共通点を見つけることができて、共感した」
と話していたけれど、それはちょっと無理があるだろ、と突っ込み。

今日は、北風の中、上野の国立西洋美術館へ、前から行こうと
思っていたヴィルヘルム・ハンマースホイ展へ。20世紀初頭の
デンマークの代表的な画家の展覧会だ。フェルメールを思わせる
その画風は、「静謐」という言葉がぴったり。影さえも消してしまう
建物の内部を描いたその静物画は、閉塞感にあふれて、見るものを
不安な気持ちにさせる。取っ手のない、閉められたドア。どこかから
差し込む、薄い一筋の光線の中でうなだれる女性。

鑑賞のあと、西荻に戻り、ちょっと気が向いたので
アンティーク屋というか骨董商が集まる通りに、
アンティックを覗きに行った。買う予定なんかないんだけど、
昔の木製の、椅子とか棚とか見に行った。
昔、おばあちゃんの家にあったのとそっくりな椅子を発見。
家具って、思い出を呼び覚ますものなのだな、と実感。