【戦前は別府に次いで九州第2位の入湯客!】
湯平(ゆのひら)温泉の開湯は鎌倉時代に遡り、湯布院より古い歴史を誇るという。豊後の名湯といわれる良質の温泉は全国から多くの湯治客を集めた。シンボルの石畳が敷かれたのは約300年前の江戸時代。放浪の俳人・種田山頭火(1882~1940)はここが気に入って「しぐるゝや人のなさけに涙ぐむ」などの名句を残した。いま温泉街では11月恒例の「ゆのひらと山頭火展」が開かれている(30日まで)。
山頭火が湯平に泊まったのは1930年(昭和5年)の11月。「大分屋」という宿に2泊した。河原で洗濯し干した後、ざっと時雨が来た。山頭火は読書中で、川の流れの音もあって気づかなかったが、宿の娘さんが走って干し物を取ってきてくれた。それがよほど嬉しかったのだろう、日記の『行乞記(ぎょうこつき)』にこう記した。「じっさいありがたかった……今夜は飲まなかった、財政難もあるけど飲まないでも寝られるほど、気持ちが良かった」。温泉街の横を流れる花合野川(かごのがわ)は今もゴーゴーと激しい音を立てながら流れる。
『行乞記』には湯平について繰り返し「気に入った」と書いている。「いかにも山の湯の町らしい、石だゝみ、宿屋、万屋(よろづや)、湯坪、料理屋、等々々、おもしろいね」。湯平の温泉水はかつて飲用としても全国に出荷されていた。山頭火は「私もよく飲んだが、これが酒だったら!と思ふのも上戸の卑しさだらう」とも書いた。酒好きの山頭火らしい素直さがにじむ。湯平には多くの文人墨客も訪れた。詩人野口雨情は「わたしゃ湯平湯治の帰り 肌にほんのり湯の香り」、作家の菊池幽芳は「山峡は霧立ち込めて水の音 いよいよ高し雨の湯平」と詠んだ。
温泉街の一角、空色の橋を渡った川のほとりに「山頭火ミュージアム時雨館」があった。無人で入館料は100円。山頭火にちなむ作品の展示ギャラリー兼旅人の創作の場になっており、2つの文机の上に半紙と筆・墨・硯が置かれていた。部屋の片隅に「どうしようもない わたしがあるいている」という山頭火の句と編み笠に僧衣姿が描かれた壺があった。「ゆのひらと山頭火展」は今年で22回目。温泉街のあちこちに由布市在住の画家、武石憲太郎さんが縦長の大きな布に描いた作品などが展示されている。
温泉街には5つの共同浴場があった。いずれも源泉掛け流しで、入浴料200円。そのうちの1つ「中の湯」に入った。この浴場だけは浴室が1つしかないため、奇数日が女性、偶数日が男性の専用。足を少し入れてみると、とにかく熱くて入れそうにない。冷水の蛇口をひねって、しばらくしてどうにか漬かることができた。帰りに気づいたのだが、入り口内側の「お知らせ」の貼り紙に「本浴場は源泉温度が高いため加水しています」と書かれ、その下には「源泉81.9℃ 使用位置47.9℃」とあった。
湯平は約30年前「男はつらいよ」の撮影ロケ地になったことでも知られる。シリーズ30作目の「花も嵐も寅次郎」。マドンナは田中裕子さんだった。温泉街の中ほどにある「みんなの休憩所・石畳の駅」には湯平の全盛期、大正~昭和初期の〝いにしえの写真〟とともにロケの写真も飾られていた。JR湯平駅のホームには「寅さん思い出の待合所」まで造られていた。ただ、駅正面の大きな看板「湯平温泉御宿泊案内」には旅館名が空白になった箇所も多かった。それを眺めていると少し物寂しい思いもしてきた。