く~にゃん雑記帳

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<ダイアナ元妃命日> 蘇るエルトン・ジョンの「キャンドル・イン・ザ・ウィンド」

2012年08月30日 | 音楽

【不慮の交通事故死から31日で早や15年】

 1997年8月31日。ダイアナ元英国皇太子妃の不慮の交通事故死は世界中に衝撃を与えた。享年36歳の若さだった。あれから早くも丸15年。だが、ダイアナのやや悲しげな優しい面影とともに、エイズ啓発や地雷撤去、福祉活動などに精力的に取り組んだ姿は今なお多くの人の心に刻まれている。命日のたびに思い出されるのがエルトン・ジョンの「キャンドル・イン・ザ・ウィンド」。葬儀の中でピアノの弾き語りで熱唱したこの曲はその後、販売枚数3700万枚というシングル史上最大のヒット曲となった。

 ダイアナは92年にチャールズ皇太子と別居、事故前年の96年には正式に離婚していた。つまりロイヤルファミリーから外れていたわけだが、パリからロンドンに移送された棺は王族であることを示す紋章旗で覆われていた。しかも葬儀当日の9月6日、バッキンガム宮殿には半旗にしたユニオンジャックが掲げられ、エリザベス女王自ら宮殿外に出て葬列を出迎えた。極めて異例なことだった。葬儀は国葬に準じてウエストミンスター大聖堂で執り行われた。その模様はBBC制作のCD(写真㊧)で振り返ることができる。

 

 英国国歌の演奏や祈りに続いて、ホルスト作曲の「ジュピター」を編曲した賛歌「祖国に誓う」の合唱。この後、8行詩「もし私が死んで、あなたをしばし取り残すことになっても」が朗読された。ダイアナには姉2人と弟1人がいたが、朗読したのは長姉のセーラ・マッコーデイル。1字1句をかみしめるように読む姿が目の前に浮かぶようだ。ヴェルディのレクイエムから「リベラ・メ」(我らを許したまえ)の合唱などが続いた後、ダイアナの親友でもあったエルトン・ジョンが登場、「キャンドル・イン・ザ・ウィンド」を独唱する。葬儀のまさにハイライトだった。

 「さようなら、英国のバラよ。これからは永遠に私たちの心の中に咲き続けますように……」。4分3秒のダイアナへの愛惜の情を込めた熱唱は多くの人々に深い感銘を与えた。この歌はもともとマリリン・モンローのために作詞・作曲されたもので、1973年発売のアルバム「グッバイ・イエロー・ブリックロード(黄昏のレンガ路)」に収められていた。その歌詞を書き直してダイアナへの追悼曲にしたという。

 エルトン・ジョンのほかにも世界の多くのスーパースターがダイアナの死を悼んだ。亡くなった翌年には英国や米国の大物歌手が追悼にふさわしい持ち歌を吹き込んだオムニバス「ダイアナに捧げるトリビュートアルバム」(写真㊨)が発売された。全36曲の中には新曲や未発表曲13曲が含まれ、このアルバムは日本でも大ヒットした。ポール・マッカートニー「リトル・ウィロー」、アレサ・フランクリン「アイル・フライ・アウェイ」、セリーヌ・ディオン「ビコーズ・ユー・ラヴド・ミー」、マイケル・ジャクソン「ゴーン・トゥー・スーン」、マライヤ・キャリー「ヒーロー」、ダイアナ・ロス「ミッシング・ユー」、マイケル・ボルトンとプラシド・ドミンゴ「アヴェ・マリア」……。

 ダイアナは存命中に3回来日した。初来日は1986年5月で、チャールズ皇太子と共に京都や大阪、東京などを訪れ〝ダイアナ旋風〟を巻き起こした。2回目は90年の今上天皇の即位の礼参列のため。3回目は別居中の95年2月、国立小児病院など福祉施設を訪ねる非公式の来日だった。「心底子ども好きなご様子で、難病の子を抱き上げるお姿は優しさにあふれ輝いていた」(同病院院長)。明日の命日、日本でも多くの人が改めてダイアナの優しい面影を思い浮かべることだろう。


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