心の色を探して

自分探しの日々 つまづいたり、奮起したり。
マウス画・絵及び文章の著作権は このブログ作者(けい)にあります。

朝早く目覚めて

2023年01月02日 | ほんのすこし

ひとりの生活に、どんと人数が増えると、戸惑う。でもそれも少しの間で、しだいにその環境に慣れていく。最初は遠慮がちだった孫たちも、慣れてくると、楽しそうだ。

こうやって人と一緒の時間を持てることに感謝しよう。

誰かとつながっているという満足感を味わえたことに感謝しよう。

子供はいいなあ。お肌すべすべだし(そこかい!)、見てるだけで生きる力をもらえる気がしてくる。

親世代を見ても、自分にもこういう時期があったんだなと感慨深いものが生まれる。そういえばその頃の自分はどうだっただろう・・・夢中で疾走してしまい、思い出せないことが多い。その渦中にあると、あっという間で、振り返ってみる時間が無かった気もする。それでいて、一日をぎゅうぎゅう詰めにしてもなんとか乗り越えてこれた。

若さゆえの時間の過ごし方ってあったなあと思う。

だから、今の自分がいかに年を食ってしまったのかと思う。年を食うって、味が出るってことだと思いたい。どんな味なのか、人それぞれだけどね。酸いも甘いも、苦いも辛いも、自分の味。全部、同じ味じゃない。今のわたしは?

甘い味とはいえないな(笑)

雪が降った。どどんと降ったわけではないので、雪国の良さを窓の景色で味わっている孫がいる。明るくなったら、そり遊びをしようと決めているようだ。雪国に住む自分はこれ以上雪はいらないと思うのだが、孫にとっては雪に触れることが一番の楽しみなようだ。

2023年1月2日が始まった。今朝は四時に目が覚め、まだ誰も起きてこないうちにパソコンに向かえた。早く起き出すのもたまにはいいものだ。

 

 


新しい気持ちで

2023年01月01日 | ほんのすこし

今朝は午前3時に目が覚めた。最近はその後で再度眠ることも出来ていたが、今日はなんだか眠りに戻ることが出来なかった。目が覚めたときに右手が痺れていたから、なんとなく気になって。母が「手足の痺れがあったら、あたっているかもしれない」と何度か気にして話していたことを思い出す。

母は病気持ちのせいか体の変調にはすごく敏感だった。そんなに気にする? と思うほど。大事にならず、たいしたことでもないということが大半。だからいつも右から左に言葉をスルーしてきた自分がいる。

それがどうだ。今では母の言っていた言葉を思い出し、このまま誰にも発見されずにベッドで? などと考えたりしている。右手の痺れは単に寝相のせいだとわかった。大晦日は紅白も見ず、日中からはまっていた韓国ドラマを続けて見ていた。まだ最終回に至っていない。『カーテンコール』、続きも見たいので、まだまだ元気でいなくてはならないと思い直す(笑)

思い直したら、料理のことが頭に浮かぶ。おせちはもちろん作らないが、元旦からやってくる人達のことを考えると、何もない、ではすまされまい。なんだか料理が全然足りない気がしてきた。こりゃ、寝てる場合じゃないぞ。

って、なんで昨日のうちに準備していなかったのだ? わたし。

やる気ゼロで、ゴロゴロ。来た人たちにあわよくばやって頂こう、なんて思っていたのかもしれない。

そんな感じで2023年もゆる~く? 慌てて? 始まったようだ。

でも、気分は「新しい」。朝の五時から起きだして、台所に立っているなんて、最近はなかったもの。少しずつ、脱皮していかなくちゃ、ね。

アクリル絵の具と水彩筆ペンで雪だるまを葉書に描いた。紙が水を吸ってゆがんでる。葉書の役割ができないだろうな。

 


今朝のつぶやき

2022年12月10日 | ほんのすこし

なぜか大掃除とか全然考えられなくて、ちょこちょこと気がついたところだけをササッと(笑)。

母がよく「玄関だけはいつも綺麗にしておくように。誰がいつ来てもいいように。」と言っていたことを思い出す。玄関に飾るものとか、鉢植えとか、絵とか、わたしが無造作に置いていると、必ずあとで位置が違っている。

「ははぁ~ん、母さん、動かしたな」と見るのだけど、たいてい母が位置移動させたのや、置くのをやめたのを見ると、それがピッタリ玄関に合っている。美的センスは母の方があるようだ。玄関を開けたときと家の中で玄関を見たときの綺麗さがどう置けばよく見えるか、それを考えながらものを配置するべきだと言う。確かに・・・

「ものは沢山置いたからっていいもんじゃないよ。少ない方が見栄えがいいんだ」

それも確かに。好きだからといってあれもこれもと飾っているとゴチャゴチャした印象を与える。好きだったら、日を改めて順番に置き換えすればいいだけの話だ。

それでも、自分で描いた絵が気に入ったりすると、つい二枚とも置いてしまったり。夜中にトイレに降りてきたときに、玄関を見て、やっぱり一枚の方が存在感があるよなあ、母さんの言うことは正しい、と頭を振り振りベッドに戻る。朝、目覚めたら即一枚を撤去(笑) 夜中にしないのは寒くてそれどころじゃないから。

今年はなんでかな、すごく寒く感じる。ひとりだからなのか、ストーブがちっとも暖かく感じなくて、特に足元が寒い。だからソファに座っているときはブランケットを腰から下に巻いたりして寒さをしのいでる。本来暑がりのわたし、足がすっかり暖まるとしばらくは大丈夫だし、ベッドでも足が暖かすぎると足だけ出して寝ていたりする。そんな暑がりなのに、足が冷たいって・・・今年の冬はまずいぞ。寒すぎるんじゃないか?

迫り来る雪で溢れる冬将軍に今からびびりまくっているのだ。

 


秋がどこか懐かしく思える

2022年12月02日 | ほんのすこし

雪が降ってから一日過ぎただけだというのに、落葉の赤や黄色が懐かしく思えてしまう。今年は秋を感じることがあまりできなかった。いつもの場所に紅葉を探しに行ったけど、すでに遅し、だった。来年は少し前倒しにしてドライブがてら近隣の町まで足を伸ばしてみてもいいなと思えた。

ずっと、ひとりで、広くなった空間で過ごしてきたけど、あんなに広く感じたこともだんだん体や意識が慣れてきた気がする。それでも、リビングのあちこちを見ると、いたはずの人のことを思い出さずにはいられない。「物」というのは、その姿以上にそれがあることの意味を与える。店先に置かれていたときには物としての存在であったのが、手元にあると、それを愛でた人や時間が備わってくる。同じ物でも、置かれた状況(違う家や場所)によって、「物」としての意味が全然違ってくる。

この家にある「物」にはそれを愛でてきた人の姿や表情、笑顔が見え隠れする。そんな物に囲まれて、今、寂しさとどこか満たされていく懐かしさを味わっている。少しこの生活に慣れてきたのだなと思う。眠れる時間も増えた。

でも、ふとした時に「物」に触れたであろうその人を思い出す。二度と見ることができないと再確認する。

まだ泣いてしまう。「物」はあるのに、それを愛でた人はもういないのだ。残された人は「物」だけなのに、それ以上の付加価値をそこにつけて思い出にする。でもそれもいつかは記憶の中にしまい、物として扱わなくてはいけないだろうな。

だから、わたしは少しずつ自分のことを思い出させる物を処分していかねば、と思ってしまう。わたしという存在がまるでどこにもありはしなかったのだと思ってくれるように、できれば煙のように消えていけたらな。そんなことをついつい考えてしまう自分がいる。まあ、考えるだけでちっとも自分の分の処分は進まないのだけどね。

BGMはジョン。バティステ。最近、Amazon musicで見つけた。パソコンからもスマホからもBOSEのスピーカーに接続できるので、テレビを見る時間が少なくなった。音楽はいいな、気持ちが満たされる・・・

 

 


積もるかも

2022年12月01日 | ほんのすこし

初雪は案外すぐ消えてしまったりするのだけど、今回は積もるかも・・・と思わせるほどの雪の降り方。

裏庭に続く大きな窓の向こうでは、雪の結晶が2センチのほどの大きさにまとまって、辺り一面に降ってくる。間断なく音も無く、空から地面へと、それは決して下から上へとは降らないのだという自然の摂理のままで。

雪の軽さは音を感じさせない。雨がその存在を思い出させるのは屋根や窓を打つ音だが、雪はほとんど音を感じさせない。まれに吹雪のときには風の音が雪の存在を強く見せつけるけど。

ただ黙って、降っては地面に到着しながらも白さをそのまま見せているものもあれば、地面に着いてしばらくすると消えかかるものもあり。それにしても、この音のない動線はなんと言えばいいのだろう。時折、ゆるく風が入ると少し動線が右左にずれることもあるが、今日の雪はほとんど流れを変えず、その落ち方が上から決められているかのごとく、早いスピードで降りている。

じっと見ていると時間を忘れてしまいそうになる。

きっと明日の朝は積もっているだろう。

裏庭の冬囲い、かなり前にやっていたのだけど、今日、雪が降って気がついた。ブルーベリー! 囲うのを後回しにしていたのだった! 鮮やかな赤に変わっていく葉っぱの見事さに惚れ惚れして、まだ背丈もそんなに伸びていないのに、なんて可愛いんだ、お前達は・・・なんて長閑な気分で眺めていたのだ。

あぁ、なんてことだろう、すっぽりと白い雪を被ってしまっている。朝にはこんなに積もるとは思っていなくて、晴れたら最後の冬囲いをしてあげるからねとつぶやいていた。予想が大幅にずれてしまった。他の冬囲いはとっくに終えていたのに。明日、どうかブルーベリーの冬囲いができますように・・・

ブルーベリー、母がとても大事にしていたから、絶対枯らしちゃだめだから。

※※※

画像は裏庭とは違う場所

 


初雪!

2022年12月01日 | ほんのすこし

今朝、いつもより寒いなと思いながら、階下に降りてきた。まずはストーブのスイッチを。

部屋の温度が14度。寒いわけだ。カーテンを開ける。大きなカーテンを開けると部屋に明るさが戻る。開けた先に見えたのは・・・白いもの。

狭い庭に寒い中でも咲いていた小菊やビーダンスが みんな雪を被っていた。

いつもだったら、初雪といってもチラホラと舞い散ってくる感じなのに、これは・・・本格的になるのか?

急にがくんとモチベーションが下がる。ベッドであれこれ片付けの計画を練っていた自分が、すでに消えていた。暖房があるといっても、車庫の上の物置までは届かない。そう、今日はいよいよ広い物置に手をつけようかと思っていたのだ。

この白さを見てしまっては、春まで無理かな(笑)。ずいぶん諦めが早すぎるわたしだ。冬になると、やっぱり行動範囲は狭くなる。暖かさから離れるなんて、考えられない。

先日、最後のウォーキングをした。ご近所さんがちょうど行くところだったので、その方のウォーキングに半分付き合った。半分というのはわたしの倍の距離をいつも歩いていると聞いたから、自分はまだまだ無理だなと最初から決めたのだ。それで正解だった。

というのも、前日の雨の影響で河川敷の舗道はあちこち泥を見せていて、話ながら早足をしていたら、ズルッと滑って大きく転んでしまったのだ。最初の辺りだったので、すぐ戻るというわけにもいかず、両膝の泥を払って歩き続けた。途中、半分まで来て、彼女と別れ、戻ってきた。

泥のついたジーンズをすぐ洗った。よく見たら、膝の皮がめくれて血が流れていた。まさかここまでとは思っていなかったので、びっくり。すぐに消毒し軟膏を塗っておいた。

次の日、それだけかと思っていたのだけど、どうも股関節に違和感が。ときどき何かの拍子に痛みが走る。転んだときに何かあったか?

だからというわけでもないが、その日から天気が芳しくなく、寒さも厳しくなった。ということで、わたしのウォーキングは転んだ日で終了。後は家の中で軽い昇降運動をすることにした。春になるまで冬眠クマ状態で決まりだな。

雪が降って一気に冬モード。後は去年みたく沢山降り積もらないことを祈るのみ!

さて、今朝、ベッドで考えていたこと。よくよく考えたら、自分の人生あと何年あるか。なんとなく暮らしていたけど、一日一日が終わりに近づいているってことなんだなと。やりたいと思ったこと、やれること、何があるかと。しばらく何も手つかずでダラダラと過ごしていた自分だが、今でもやれることはあるんじゃないか?と思えてきた。

それにしても、寒い!家全体がまだ寒さに慣れていないようだ。

 


朝早くパソコンに向かう

2022年10月12日 | 朝のことば&つぶやき

朝早く目が覚めると、ベッドでぐずぐずスマホ画面を見る。ニュースやインスタを覗く。そこに最近は自分のブログを見ることが入った。前は開く気持ちが沸いてこず、放りっぱなしだったのに。

今朝、何気なく過去投稿を読んでいた。

2020年12月 「いつのまにか」

何か温かいものが耳のそばに伝っていくのがわかった。それが涙だと気づくまで数秒かかった。

このときの母、喜々として針を運ぶ母の姿が目に浮かんだ。このあと、わたしは毎日を大事に過ごしただろうか?

首を振る。二年もたたずに別れが来るとは思いもせず、もっと濃い時間を過ごせただろうにと、悔やむ。もっと色々なことを教えたかっただろうね、母さん。

※※※

2021年2月 「青の夜」

まだ書けるかしら、こんな言葉。沸々と湧いてくる言葉があった。今は言葉を思い浮かべることすらできなくなっている。

ココロのなかを覗いてみるのが怖いのかしら。

書いてみたくなるときが来るまで。言葉がそこまでやってきて、「ねぇ、早く起きてよ」って揺り動かすまで。こんなふうに朝にパソコンに向かうまで。

あら? もう朝に書いてる? いや、これは・・・ポエムじゃないよ(笑) つぶやきでもいいか・・・

 

 

 


最近のわたし

2022年10月11日 | ほんのすこし

一日は24時間、それを過ぎるのが早いと感じるか遅いと感じるか。

年をとると共に早いなと感じることが多くなった。実りの無い一日があっという間に過ぎている。片付けなくてはならない物や場所、考えなくてはならないことあれこれ、先延ばしにしようという怠惰な自分がいる。毎日、こんなこっちゃ駄目だろ? 反省ばかり。

でも、無理しちゃいけないな。無理してあれもこれもと抱え込むと、逆にほんとに何もできなくなってしまうような気がする。

考えなくてはいけないことの一つに終活がある。母のことで、色々と自分のときのことを考えなくてはなあ、という思いが出てきた。こども達へ何を残すか、どういう形で終わりにしたいかをきちんと形に残すことが大事だと思った。それでも思いも寄らないときに終わりがやってくるかもしれない。早すぎるということはないのだ。

周りにある雑多なもの(自分の)の取捨選択。母の洋服関係はかなりスッキリさせた。お気に入りでいつも袖を通していたものはそのままタンスに入れた。遺影の写真に選んだときに着ていた服は普段着。それも入れた。引き出しを開けると母がそれを着ていて笑っている。上を見れば、遺影の母も笑っている。自分で言うのもなんだが、遺影に選んだ写真はすごく良かった。普段の笑い顔そのままだったから。

祭壇を片付けにきた葬儀社の方に写真についていた造花をとっていただいた。

「少し、こちらのお写真サイズが大きかったようですね」と葬儀社の方が言った。父と弟の遺影に比べると母のそれは一回り大きかったのだ。

「力関係がちょうど合っているのかも~」とわたしが笑っていうと、葬儀社の方が苦笑いした。

数日後、父と弟が並んでいる遺影の隣にかけた。やっぱり、母の写真が幅をきかせている。まっ、それも良しとしよう。

写真をピクチャーレールにかけるのは自分ではできないだろうと思って、息子が来たら頼もうと思っていたが、まてよ、やれるんじゃないか? と試しに。なんとなんと、やればできるものだ。何度か挑戦して最後にはスパッと飾ることができた。何事も経験すべきものだと思った。

これからはなんでも自分で考えてやっていかなくてはならない。これまでのように母がいて監督してくれるということはもう無いのだ。

これからはこども達が後始末に困らないように、徐々に整理していかなくては・・・と思いながら、不要な物のなんと多いことか! 溜め込んだね~ 母もわたしも!!

10月1日で四十九日。無事に納骨。いや、無事といっていいものかどうか・・・その話はまた別の機会に(笑)

 


秋の空は

2022年09月24日 | ほんのすこし

見上げる青い空。雲の形がさまざまで、広い空の一角を伸びるように広がる。高い山がない地元は空がとても広く感じる。北海道の広さにはかなわないけどね。

最近の空はとても美しい。

息子家族がしばらく滞在していった。台風と共にやってきて、帰りは台風に向かっていった。でもここでは台風の被害はなく、むしろ台風の影響なのか連日蒸し暑さで寝苦しかった。それなのに朝方は寒くて、寒暖の差に驚いていた。都会に住む人には驚く出来事だったかもしれない。「もう冬になるの?」と言われ、笑いながら「ここの冬はこんなもんじゃないから」と教えた。降り積もる雪の多さを少々大げさに教えたら、とてもびっくりされてしまった。

息子がテレワークしている間、お嫁さんと孫を外に連れ出した。車で20分ぐらいの町に大太鼓の館がある。昔むかしに行ったことがあったので、どうかなと思ったのだ。行ってみたら、9月いっぱいは無料。ちょうどいいところに行った。平日だったので、人もほとんどいない。でもそのせいか照明が暗くて、孫にはとても怖かったらしい。人形が並んでいるのを見て,尻込みしていた。

さーっと見て、外にある大きな遊具「ワンダーランド」という場所に行ってみた。これはとても喜んでくれた。

よくみるとずいぶん傷んでいるなあ(笑)

この遊具を独り占めできてたくさん遊んで、夜は爆睡したようだった。それにしても子供の元気さはすごい。ばあばは無理だなと思った。お母さんが一緒になって遊具で遊んでくれたので、満足しきりだったようだ。子供の遊びにつきあえるという能力は大事だ。若いだけではなく、彼女は産後の自分の体をしっかりと整えることに努力してきたらしい。背筋をピシッとして歩く様子は孫の手本になっていると思う。

わたしも見習わなくては!

ちょこっとでも体を動かす、数年後の自分が弱くならないように、ね。

1週間の四人体制の生活は、アップテンポで、普段とは違う感覚。あちこちちょこちょこ歩いて、自分では行かない場所にも行けて楽しかったなあ。

さよならの後は、ソファで横になってしまうというていたらくのわたしだが、少しの運動を忘れないようにしたい。あんなに暑かった日が何処へ行ったのか、三人が行ってしまったら、窓から入る風が冷たく感じるようになった。だあ~れもいなくなったぞ。だから余計に寒く感じるのかもしれない・・・

今日から残った食材を食べ尽くさなくては(笑) ますます太る!

 

 

 


ここがあって良かったと

2022年09月16日 | ほんのすこし

今朝、四時前から眠られなくなって、まだ起き出すには早すぎるなあ、と思い。

自分の過去記事を読み始めた。ここ一年半ぐらい前からの分を。更新がずいぶん途絶えていたなあとか思いつつ、それでも少しずつはアップしていたんだなって。数年前は結構ひんぱんにアップしていて、マウス画とか、ポエム?みたいなものも書いていた。

でも、一年前ぐらいの記事はほとんど母に関するものが多かった。読みながら、そういえばこういうことあったあった、可笑しかったよなあ、とか。そのときの母との会話や素振りが色あせることなく思い出された。

元気な母の姿を思い出すことができた。体調はずっとすぐれなかったけど、それでも庭仕事の監督をしたり、テレビを一緒に見たり、スポーツ観戦(テレビ)に興じたり、元気になれることは結構あった。そういうものを見つけることも上手な母だった。

思った。

ここに書いてきて、良かったなと。

ここがなかったら、書いてこなかったら、あの日の母の姿がこんなに鮮やかに浮かんでくることはなかったに違いないと。言葉に書いておくことの大切さを、改めて感じた。

gooに出会って、何度も挫折を味わって、もうこれで終わりにしようと何度も思ってきた。そのたびに、いや、待てよ、止めることはいつでもできる、放っておいたままでもいつか復活することができるんじゃないか? 終わりにしたら、これまで書いてきた言葉は消えてしまうよ(保存しておけばいいのだけど、いつからかそれもしていない)、もう少し後でもいいんじゃない? そういう気持ちが残ってここまできたのだった。

だから、今は、あのとき退会しなくて良かったと思える。これから先も沈下することはあるだろうけど、これまで書いてきたことの中に在る「わたしの思い」が読み返すたびに蘇るだろうから。

キュートな母の言動、弥次喜多道中みたいなふたりのこと、こども達の結婚のこと、今同じように書けるとは思えない。そのときどきの一瞬一瞬を切り取っているから、胸に蘇るのだ。

これから、どんな言葉をここに書いていけるのか。未来はわからないけど、未来の自分が読み返したときに、ここがあって良かったと思える自分がいてほしい。