kanekoの陸上日記

毎日更新予定の陸上日記です。陸上競技の指導で感じたことやkanekoが考えていることなどをひたすら書きます。

無冠のエース~本当の成長と未来へのスタート~

2011-06-26 | 陸上競技
前の記事の続きです。

しかし、神様は大きな試練を与えました。学年末考査終了後にまたも脚の痛みが出ました。今回は細心の注意を払い、ケアを誰よりもやってきての「結果」です。私も本人も大きなショックを受けました。それでも決して諦めることなく全力で回復を図りました。甘さが出ての故障ではありません。本人も必死になって治療をしました。中国合宿には連れていかず治療と自転車こぎに専念させました。

マイルメンバーに入るためには6人を決めないといけません。ルール改正によりプログラムに名前があればレースには出場できますがメンバーに入るかどうかというのは本人達に取っては大きなことです。メンバーの選考は県記録会にしていました。しかし、どう考えてもエースは出場できません。うちが戦っていくためにはこの子の力が必要不可欠です。エースには黙って他の選手に話をしました。「練習の取り組み、気迫を1日見てみなさい。その姿を見てアンカーを任せられると思ったら選考会には出さずにメンバーに入れる。自分でエースの取り組みを見てみろ。」と。必死で強くなろうとする姿を見てメンバーの枠が1つ減ってでも走らせたいと全員の意見が一致しました。気迫が違いましたから。

支部大会はシード権がありましたが、本人が「どうしても出たい」と強く望みました。ほとんど走練習をしていない状態でも「走りたい」という想いが強かったのだと思います。記録的には61秒台だったと思いますが十分な走りだったと思います。このレースを一緒に走った2年生は気迫を受け継ぐきっかけになったと思います。飛躍的に伸びていきましたから。これで何とかなると少し安心しました。

しかし、これだけでは終わらなかった。県総体の2週間前の練習からエースが全く走れなくなりました。痛みは治まっていたのですが動きのバランスが大きく崩れてしまい別人のように走れなくなりました。動きを作って作ってやってきたので何かのきっかけで自分の走りを失ってしまったのかもしれません。
これからの時間は何とか走れるようにするために全ての時間を使いました。今考えると本人は死ぬほど辛かったと思いますね。普段絶対に負けないような相手についていくこともできない。250mを全力で走っても38秒以上かかるのですから…。それでも耐えて耐えて練習をしました。この時は涙は一切流さなかったと思います。弱さを克服していました。本当に良く耐えたと思いますね。

県総体、予選落ちすら覚悟していたのですが何とか決勝に残りました。が、もう体力は残っておらず中国大会への出場はなりませんでした。決勝に残ることは出来ましたがここを目標にしていたわけではありません。力はあったにも関わらず一度も個人で中国大会に進むことは出来ませんでした。同じレースで2年生が59秒台で初優勝しました。エースの力的にはやはり58秒を切るくらいはあったのだと確信しました。本当に残念です。この時点で持っている力を使い果たしていました。マイルでは全く走れません。決勝は涙ながらエースを外しました。中国で絶対に走ってくれると信じていましたからここは下級生の走る姿を心に刻ませておきたいと。さすがに涙していましたがこれがこの子の本当の成長につながる大切なことだったと思います。

総体から1週間が過ぎた辺りから見違えるように走り始めました。総体で優勝した選手と同じレベルかそれ以上です。本人の強い「想い」がここに現れたのだと思います。
中国大会では更なるハプニングが起きました。2年生が400mのレース直後、腰の痛みを訴え全く走れなくなりました。マイルでは危機が生じました。アンカーを走らせようと思っていたエースに急遽2走を走らせることにしました。かなり厳しいと思っていたのですがレースが始まると2走で57秒台で走りました。この時改めて成長を感じましたね。普通なら途中で挫折してしまう可能性があった状態を本人の強い「意志」で乗り越えてきたからこそ、一番大切な場面で持っている「力」を発揮できる。私も涙が出ました。

秋まで競技を続け、田島記念では58秒7を出して優勝。続く県体でも58秒8で優勝。有終の美を飾ってくれました。この時、2年生エースは58秒9で初めて58秒台に入りました。日誌には「私は期待されていないのが分かっていた。だから絶対に負けたくなかった。」と書いていました。素直な気持ちだと思います。3年生エースが初優勝がかかったレース、周りはそちらに注目します。そんな雰囲気を感じていたからこそ「絶対に負けたくない」と思ったのでしょう。負けても仕方ないと思うようなら先はありませんからね。この勝負からうちのインターハイへの道が始まったと思います。引き継がれていく「想い」がある。

何故今以前の事を書くのか。それは選手に「どうすれば強くなるのか」を示すことにつながると考えたからです。どれだけ「力」があっても「想い」がなければその「力」は引き出されないのです。それなりに結果は出ますが本来ならもっと上を目指せる可能性があるという現実には気づかないのです。
意識が変われば必ず行動が変わります。行動が変われば必ず結果が変わります。持っている「力」を最大限に引き出すことができるのは選手自信の「意識」の変化です。「意識」が変わればどんな困難も乗り越えられる。それを私はこの目で見てきました。紛れもない現実です。この姿を一番近くで見てきた者がそれを越えようと高い「意識」を持って取り組んだからこそインターハイに行けた。そう思っています。

無冠のエースでしたが、チームに残したものは本当に大きかったと思います。もう一度、リレーでインターハイを目指したいと思います。必死にもがきながら、苦しみを乗り越えながら目標を目指したい。それを想いながら書きました。次は必ず…。
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無冠のエース~成長までの過程~

2011-06-26 | 陸上競技
色々と思うことがあるので思い出話を少し書きたいと思います。

数年前うちに中学時代幅跳びをやっていた選手が入ってきました。どこかの大会で走る姿を見て「絶対に速くなる」と感じていました。たまたまうちに来て競技を続けることになりました。当時100mが14秒2くらいだったのではないかと思います。どこにでもいる選手でした。基礎筋力はほとんどなく腹筋もできない状態…。時間がかかるだろうなという感じでした。
1年生の間はひたすらスピードを上げるために100m・200mに取り組ませました。ほとんど予選落ちのレベルでしたが(笑)。真面目にやるのはやるのですが、自分に対する厳しさが不足している。追い込まないといけないところで甘さが出てしまうというのが顕著でした。当時の練習日誌は本当に書くだけの日誌だった気がします。冬季の途中2度体調を崩して練習を長期離脱。「力」はあるがそれを引き出す「心」が足りなかった。そこに関しての話しは繰り返ししていたのですが「分かっているつもり」のレベルから抜け出せないままでした。そのままの流れで冬季を終えました。

一冬越えた時点でかなり強くなっている手応えがありました。体幹はある程度のレベルまで強化されていました。本人は実績がないので自信を持てませんでしたが客観的に見て「速くなっている」というのは明らかでした。もちろん、まだまだ甘さは抜けきらない状態です。そうこうしている時に「肋骨が痛い」と訴え始めました。何をやっても痛いというのでほとんど練習ができない状態になりました。せっかくやって来たことが台無しです。危機感というか「気迫」が明らかに不足している。やはり甘いなという感じです。

県総体では様々な事がありました。マイルメンバーをどうするのかという部分でチーム内が分裂しました。そうなるであろう「要素」は冬季にありましたが、一番大事な所でそれが出るか…という話です。この子は完全に巻き込まれて個人で中国を狙いたかった200mは予選落ちだったと思います。当時のこの子には「強さ」がありませんでした。周りに流される部分があり、追い詰められると下を向いてしまうような「弱さ」がありました。エースにはなりきれない。それでも中国大会のマイルでは60秒で走りました。ロングスプリントへの適性は間違いなくあります。
いざ、これからという時に腓骨の疲労骨折を起こしました。普段からのケアが不足していた部分もあると思います。自分自身の可能性にチャレンジしようという矢先の出来事ですから辛かったでしょうね。この年私が中国合宿のコーチをすることになっていたので夏休みはうちの女子を連れて合宿に参加させてもらいました。この子も参加させましたがほとんど練習できずに泣いてばかりいた記憶があります。自分が置かれている現状が辛いという部分がありました。可哀想に思う部分もありましたが、自分の殻を破るまでには到達しませんでした。秋にはなんとか走れるようになり、中国新人ではマイルラップ59秒台、フラットレースでは60秒7まで行きました。本格的にインターハイを狙えるのではないかと感じていました。

が、再び脚の痛みを訴え始め練習が全くできない状態になりました。同じことの繰り返しです。これは間違いなく根本的な「甘さ」があります。練習が出来ない状態になり修学旅行へ。この時、周りがスカートを短くしていたのに合わせてスカートを短くしていました。集合時間のギリギリに集まる姿も見受けられました。学校を離れた場所での行動が本当に変わらなければ競技も成功はしません。原因は「少し位なら」という「甘さ」です。自分が怪我をして走れなくなっているという「結果」には何かしらの原因があるというのがまだ分かっていなかったのです。

学校に戻り激怒しました。こんな中途半端な状態で競技をするのであるばやる必要はない。これからインターハイを目指していく資格はないと。数日間、練習に参加させず真剣に話をしました。私が話している内容を保護者にも伝えさせて、本人と向き合ってもらいました。家庭の協力がなければ絶対に変わらないと思ったからです。基本的に真面目な子ですから普段からあまり怒られる事はありません。多分ここまで注意を受けたことは無かったのではないかと思います。「何とかなるだろう」という甘えを捨てるきっかけになりました。

この件を気に精神的に大きく変わりました。全く別人のような取り組み方になり、一冬で劇的な変化をしてどこに出しても恥ずかしくないエースに成長をしました。故障中は涙を流しながら練習をしていました。苦しくて泣くのではなく「動かそうと思っても動かない自分が情けない」と涙を流していました。間違いなく県内ナンバーワン。合わせて「エース」とての指導を徹底しました。練習終了後、必ずトレーニングルームで補強をして帰るようにしました。「力」があるからこそ他の者より努力する姿を示さないといけないと思っています。「エース」の責任です。この走りと取り組みでインターハイに行けなかったら誰が行くのかと真剣に思っていました。冬季の終了時点では57秒台が見えていました。それだけずば抜けた「強さ」がありました。気持ちが変われば取り組む姿勢が大きく変わります。練習の1つ1つの効果が変わります。強くなるために必要なのはやはり「心」だと改めて感じました。

少し長くなったので記事を変えます。
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