kanekoの陸上日記

毎日更新予定の陸上日記です。陸上競技の指導で感じたことやkanekoが考えていることなどをひたすら書きます。

空しさ

2011-06-08 | 陸上競技
ここ半年色々な意味で行き詰まっている感じがありました。選手に伝わらない取り組む姿勢ではなく陸上競技の根本的な部分にです。色々と考えては来ましたが試行錯誤の中で上手くいかない部分が数多くありました。そんな人間が偉そうにblogを書くなという話になるかもしれません。それでも取り組みに関しては書き記しておく意味があると思っています。

競技をする。このことの意味をきちんと考えないといけません。「陸上を一生懸命やりたい」と言いながら全く別のことに目が向く。「指導をして欲しい」と言うのは簡単です。しかし、こちらが求めることを全くやらない、理解しないのに「指導して欲しい」は違うと思います。厳しいことを求めていると思われがちですが私は「やろうと思えばでれにでもできること」しか求めていません。それがきちんと伝わらないからこのような状態になるのだと思います。「こうやりなさい」と指導をして全く違うことをする。その結果「走れなかった」と言われても責任はとれません。部活動は自由に参加することができます。しかし、その部の顧問の指導方針があります。それに従わないのに「指導をして欲しい」というのは論点がずれています。走ろうと思えば1人でもできます。

「結果」には意味があります。そこに行き着くまでに多くの「原因」があるのです。人は痛い目に遭わなければ気がつかないこと多い。痛い目に遭っても気がつかない者もいます。そしてその「結果」を受け入れることができない。「原因」を他者に求める。自分は悪くない。こうなったのは「他の人が悪い」と。自分の中にある「原因」を直視しないのです。トラブルが発生するときには必ずその予兆があります。そしてその「原因」は他者ではなく自分自身にある。だから同じようなことで何度も何度も問題が生まれる。そうならないように指導してきたつもりですが結果的に最も避けたかった「結果」となる。

これまで多くの時間を費やしてチーム作りをやってきました。基本的なことを重視してきました。積み上げるまでに何年かかったでしょうか。しかし、崩れ去り跡形もなくなるのは一瞬です。今まで何をやってきたのか本当に空しくなります。それでも耐えなければいけないのでしょう。指導する者は自分の感情を押し殺してでも耐えないといけないのです。そのことを痛感しました。ここ最近の出来事を引きずっている部分はあります。現実を直視していないわけではありません。しかし、あまりにも精神的な負担が大きすぎる。「自分が一番苦しい」と思う人もいると思います。私は「もっともっと大変なことがある」と思って耐えます。1つの出来事で「苦しい」と思うようだけではありません。あまりにも多くのことが重なり過ぎます。

これは試練なのでしょうか?私の指導が不足していたからここまで大きなことになっているのでしょうか。どこまでやればできるのか?他者の感情を感じ取ることができる能力を養ってこなかったことが「原因」なのでしょうか。空しさだけが残ります。
コメント
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