出会い(前編)
『岡山から山陽線で尾道に出、呉線の鈍行列車に乗って吉名という小さな駅に降りる。人口は約五千程度か。半農・半漁の町らしい。
駅からだらだら坂をくだって、瀬戸内までの一本道をすすむ。右側は小学校と運動場、それからさきは畑だ。左側は神社、それに農協の事務所がある。その軒ならびのはずれに二軒、大きな家がたっている。手前が本家、その隣が池田勇人の生家だ。家の前は一面の畑で、いま通ってきた小学校の建物がよく見える。道の左側はすぐ庭につづいていて、二、三〇メートル奥まったところに二階家がある。高い煙突がたっているのが酒造工場なのだろう。
駅から人にきいて歩いてきたが、ものの五分とかからなかった。すぐわかった。庭に酒樽がころがっていて、天日にかわかしてある。門松がたっていた。
案内をこうが、返事がない、二、三回大きな声をだすと、なかから着物を着た、五十がらみの人が出てきた。
「大蔵次官だった池田さんのお宅はこちらですか。私は東京からきた新聞社のものですが・・・・・・」
「どういう関係の方か知りませんが、選挙のことなら、忠海(ただのうみ)に事務所がありますから、そちらで聞いてください」
「いや、私は池田次官にお会いしたいのです」
「勇人は選挙運動にまわっていて、あすの夕方でなければ帰りません」
「あす、何時ごろ帰られますか」
「選挙事務所でないと・・・・・・、ちょっとこっちではわからないのです・・・・・・」
せっかくの正月休みをつぶして、吉名くんだりまでやってきたのだから、ぜんぜん会わずに帰るのも業っ腹だ。あすもう一度きてみようと思い、私はいったん引き上げることにした。忠海に出る汽車の待合せ時間を利用して、床屋にはいった。亭主からいろいろ聞き出そうというコンタンである。
大蔵次官をやっただけあって、経済にはくわしい。このあたりの旧家の出であるが、顔を知っている人が少ないので、顔みせに選挙区まわりをしている。競争者のツブはたいしたことがないので、当選するだろう・・・・・・
床屋の親爺さんの話を総合すると、だいたいこういうことがわかった。
その日は忠海に一泊し、池田選挙事務所を外からちょっとのぞいただけで、午後、吉名に出かけた。まだ帰っていない。私は意地にでも会ってやろうと、夕方五時近くまた押しかけた。こんどは別の洋服を着た人が出てきた。やはり年輩である。
「ああ、東京からきたのですか。じつは、私も今朝、東京からやってきたんです。中野で開業している井上(医師)です。あがって待ってください。これでも僕は池田のシンパでネ。遊説の予定が遅れていて、晩の八時ごろにならんと帰らんようです」
奥の間にとおされた。池田夫人が出てきて、あいさつをする。私はすっかり恐縮してしまう。』
本稿は、伊藤昌哉著「池田勇人その生と死」(株)至誠堂昭和41年12月刊からの引用です。