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人気漫画『ゴールデン・カムイ』で注目される北海道の先住民族アイヌとは?

2016-12-03 | アイヌ民族関連
THE PAGE 2016.12.01 18:00

 アイヌ(ainu)とは、アイヌ語で「人」もしくは「男性」を表す言葉であり、同時に民族集団の名称としても用いられる。人気漫画『ゴールデン・カムイ』(野田サトル)が活写するように、アイヌの人びとは独自の言語・文化を持して、明治の時代を迎えた。
 アイヌとしていまを生きておられる人びとは、北海道の統計で約2万4000人、東京都の統計で約2700人とされる。北海道の人口が約530万人だから、北海道においても、また日本全体を考えても、わが国の現代社会では、圧倒的なマイノリティー(少数者)だ。
アイヌが圧倒的マイノリティーになってしまった理由とは?
 マイノリティーであることは、単に人口の面だけではない。独自のことば・文化・生活様式・歴史といった伝統は、わが国の公教育で触れられることは少なく、その継承はきわめて困難な状況にある。
 アイヌの人びとが圧倒的なマイノリティーとなる状況は、『ゴールデン・カムイ』の描く明治時代を大きな画期として強まった。幕末の1854年に10万人に満たなかった(うちアイヌ約1万8000人)北海道の人口は、1901(明治34)年には100万人を越えた(うちアイヌ約1万7000人)。本州以南からの拓殖移民政策が、実を結んだのである。その過程で、アイヌ社会の基盤であった海や川の漁場、山や平野の狩猟地に関する権利は、ほぼ顧みられることはなかった。北海道全体を「無主地」とみなし国有地化し、資本家や移民たちへ配分していったのが、近代北海道の拓殖政策の眼目だったからである。
 『ゴールデン・カムイ』の描くアイヌの伝統的な日常世界は、こうしたなかで徐々に後景に退いていくことになる。国は、アイヌがアイヌとして近代社会に参入することを、基本的に許さなかった。言語・文化・生活様式ともに日本化(=和風への同化)することを求めたのである。現在、アイヌ語のみを使用言語とするコミュニティーが存在しないのも、明治以来150年の「同化」政策の歴史を踏まえて理解する必要がある。また、日本全国津々浦々がそうであるように、明治以前のままの伝統的生活を送るコミュニティーも、当然ながら現在は存在しない。
 ただし同時期に、たとえば英国聖公会の伝道に応じ、これを通じた近代化を模索し、アイヌ語のローマ字表記を生み出すなどの努力がアイヌ社会内部からみられたのは、驚くべき出来事といってよい。必ずしも日本を介さない、アイヌ独自の近代化の可能性も、確かに存在したのである。
 もちろんこのほかに、アイヌの伝統を持しつつ日本社会の公民としての近代化を目指した、困難で貴重な試みも、数多く重ねられてきた。その延長線上に、いまを生きるアイヌの人びとの暮らしがある。国の対アイヌ政策が、1997年のいわゆる「アイヌ文化振興法」制定を画期に、「アイヌの人々の民族としての誇りが尊重される社会の実現を図り、あわせて我が国の多様な文化の発展に寄与することを目的とする」(同法第1条)ことに大きく転換したのも、こうした動きと無縁ではない。
アイヌの人びとが暮らした地理的範囲
 ところで、アイヌの人びとの暮らした地理的範囲は、どこであったか。歴史的な最大範囲をいうならば、アイヌ語地名のみられる地域がそれにあたる。本州の東北地方北部、北海道、サハリン島の中・南部、ならびに千島列島全域がそれにあたる。東北地方のアイヌ語地名のいくつかは、すでに1200年以上まえの日本の古典に記録されている。
 江戸時代には、本州でアイヌの人びとの暮らす集落は、本州北端部の津軽・夏泊・下北の三半島北部に限られていた。江戸時代後半の19世紀初頭までに、その地を治めた盛岡藩・弘前藩が、相次いでアイヌの人々に対する民族別編成を廃したため、その実態は記録の上で確認ができなくなる。いわゆる「本州アイヌ」の言語や文化を詳しく知ることは、難しい。
 『ゴールデン・カムイ』に描かれるような伝統的な社会を形成したのは、北海道のアイヌ社会だ。江戸時代には、北海道唯一の藩である松前藩を通じ、日本の社会や市場と深い結びつきを持ちつつ、その文化は磨かれてきた。18世紀後半にロシアがウルップ島に根拠地を築いたこともあり、北海道アイヌの文化は国後島・択捉島までをその範囲としている。
 ウルップ島以東の千島列島のアイヌ社会は、18世紀以降、ロシアとの関係を深く持った文化を形成した。19世紀初頭の記録によると、ハリストス正教の洗礼を受け、クリスチャンネームを名乗ることが既に一般化している。
 サハリン島のアイヌ社会は、伝統的に、中国と日本の双方との関係をうまく使い分けた。18世紀末、サハリン中部ナヨロのヨーチテアイノという有力者は、アムール川下流域の清朝の役所から官職を得て「楊忠貞」という中国名を名乗るとともに、しばしば北海道の北端・宗谷へ渡り、松前藩の役人と対面し、日本商人と中国産品の交易を行っている。いわば、日清間の中継交易のプレイヤーとして振る舞った歴史を持つのである。
 このようにアイヌの社会は、古くからの伝統をベースに、日本・中国・ロシアとの交流を持ちつつ、その独自の言語・文化の個性を紡いできた。近代以降は、日本への同化を強いられつつも、その個性をつなぐ努力が重ねられ、現代に至っている。その過程で、ロシアとのたび重なる国境の変転にともない、サハリンのアイヌ文化は主に北海道で継承の努力が払われている。その一方、千島アイヌの言語・文化の継承者を残念ながら失ってしまったという重い歴史を、日露両国の近代史が持つことも、忘れてはならないだろう。
 次回以降は、こうした歴史を踏まえつつ、アイヌ社会の伝統的な歴史・文化・生活や現在の法制度等について、いくつかのトピックを挙げつつ、その豊かな個性のさまざまにつき、紹介していきたい。
(北海道大学大学院 文学研究科 准教授 谷本晃久)
https://thepage.jp/detail/20161118-00000013-wordleaf

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