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文学の妖精「アナタニサマ」お薦め書籍30冊 小樽図書館が展示、貸し出し

2024-08-15 | アイヌ民族関連

矢野伶奈 有料記事

北海道新聞 2024年8月14日 18:51

市立小樽図書館で開かれているアナタニサマの企画をPRする海藤副館長

 市立小樽図書館(花園5)が、文学の妖精「アナタニサマ」お薦めと掲げた書籍30冊を展示し、貸し出している。同館は「キャラクターの魅力に触れ、本を手に取って」と呼び掛けている。

 アナタニサマは架空の妖精で、「アナタニ」と言って本を差し出す。真冬の小樽で受け取れば、読むのが止まらなくなり凍死してしまうという設定。昨年発行の文芸誌「逍遥(しょうよう)通信」に掲載された短編小説に登場する。

 アナタニサマにちなみX(旧ツイッター)上でお薦めの本を紹介し合うプロジェクトの中心となったのが、市内でジーンズショップロッキを営む平山秀朋さん(55)。市立図書館にコラボを持ち掛け、Xの投稿のうち同館にある30冊を並べた企画が実現した。

 このうち大人向けの一般書は、中川裕「アイヌ文化で読み解く『ゴールデンカムイ』」、土肥美帆「みんなケンジを好きになる」など19冊。・・・・・

 29日まで。午前9時半~午後7時(土日祝日は同5時まで)。19、26日は休み。

https://www.hokkaido-np.co.jp/article/1050758/


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“アイヌ民族”への差別 戦地でも…北海道から満州へ出征した若者に入隊初日から上官が罵倒「日本語が分かるか」―強制収容所を生き抜いた父の年譜

2024-08-15 | アイヌ民族関連

UHB8/14(水) 21:33

若き日の浜田寛さん(1939年ごろ)

 8月15日は79回目の「終戦の日」。戦争と差別を考えます。

 アイヌ民族の青年が出征しました。軍隊では生まれ育ちを侮辱され、「見せ物扱い」されました。戦後、彼はその経験を年譜に残しました。

「毛深いことを気にして…」小学生のとき父から頼みごと

 札幌から100キロ余り、車で約2時間かかる平取町二風谷。アイヌ文化の拠点として知られるこのマチの墓地です。

 そこで亡くなった父の墓前で手を合わせる人がいます。浜田清孝さん(64)。ここに来ると思い出すのは、父・寛さんからのある頼まれごと。戦友と再会する前夜、典型的なアイヌ民族への差別を気にしてのことでした。

 「俺が小学5年生ぐらいだったかな。父が夜、背中の毛をそってくれと。俺もびっくりしました。他の人と風呂に入るのが、毛深いから嫌だったんでしょうね」(清孝さん)

軍隊での遍歴まとめた“年譜” 自らまとめる

(写真)軍隊での遍歴まとめた“年譜” 自らまとめる

 清孝さんの父、浜田寛さん(享年82)は1920年、農家の長男として二風谷で生まれました。

 札幌市内にある清孝さんの自宅の居間には、寛さんの軍隊での遍歴や戦地での経験をまとめた年譜が飾られています。

 寛さんが亡くなる10年前に自ら10枚ほど作り、子どもたちや親せきに配りました。父の苦労が記されているといいます。

 「父はアイヌで生まれ、苦労はしたけど、俺、頑張ったんだぞって伝えている」

博物館に残る曽祖父の逸話 1年間の労働の対価が“杯1個”

(写真)博物館に残る曽祖父の逸話 1年間の労働の対価が“杯1個”

 二風谷の中心部にある博物館では寛さんの祖父、貝沢シランベノさんの話が紹介されています。

 博物館の展示によりますと、シランベノさんが若いころ、北海道の厚岸町で1年間働かされた報酬は杯1つでした。

 「生きて帰ってきただけでもマシだったかもしれない」とまで説明が書かれています。

 学芸員の広岡絵美さんは「その当時、アイヌが漁場で奴隷のように働かされていたと伝えられています」と補足しました。

 寛さんは憤りを感じていて、生前、書籍の取材に「本当にひどいもんだよ。シャモ(和人)がいかにアイヌをだまして搾取したかが分かる、証拠品だよな」と答えていました。

学校の試験で満点「アイヌのお前に満点なんか取れるわけがない」

(写真)学校の試験で満点「アイヌのお前に満点なんか取れるわけがない」

 寛さんは70歳になると、地域の広報誌にも体験談を寄せます。1990年には「わたしの生い立ち」と題し寄稿しました。

 「差別されない日はなかった」と記し、1936年に、獣医になろうと転校した空知農業学校、今の岩見沢農業高校での出来事をつづっています。いわれのない疑いでした。

 清孝さんが二風谷の実家で広報誌を見せてくれました。

 「そこに行ってたときに頑張って満点を取った。でも、アイヌのお前に満点なんか取れるわけない。誰かのカンニングしたんだろと言われたそうです」(清孝さん)

“赤紙”届き出征 満州でも差別…「熊の肉はないが豚の肉はある」

(写真)「俺は野獣か!」寛さんは当時の怒りを書き残す

 寛さんは胸を患い休学。二風谷に戻ります。そのとき、召集令状、いわゆる「赤紙」が届きます。今から83年前、寛さんが20歳のときでした。当時の日本は国家総動員体制。寛さんも”お国のために”と出征しました。

 「天皇陛下のために、頑張るんだ俺は。みたいな感じだったんじゃないでしょうか。(父も)これで俺も”日本人”になるのかな、そういうのはあったんじゃないですか」「あのときの親父、アイヌの人たちは、みんなそうなんじゃないですか」

 寛さんは1941年1月、二風谷を出発。大阪から約2000人がすし詰めになった船で海を渡り、満州へ。馬車を使った輸送部隊に入りました。

 そこで待ち受けていたのは、また「差別」。入隊当日、200人の新兵が並ぶ中、一人、前に立たされ、上官に罵倒されます。

 「日本語分かるか?」「文字読めるか?」「生肉、食ってたんだろう。熊の肉はないが、豚の肉はある」

 まるで見せ物扱いでした。「俺は野獣か!」と広報誌に当時の怒りを書き残しています。

 「やっぱり軍に来ても差別はあるんだなって、がっかりしたということでしょうね」(清孝さん)

50日間荒野さまよい旧ソ連軍に捕まる…4000キロ超 カザフスタンの収容所へ

(写真)寛さんは荒野をさまよい収容所へ(写真はカザフスタン収容所の様子=カラガンダ収容所博物館提供)

 年譜には寛さんが軍曹になったことも記されています。二等兵から5階級の昇進でした。

 ただ日本軍は敗れ、寛さんは約50日間、満州の荒野をさまよい旧ソ連軍につかまります。

 旧ソ連軍の戦車の地響きを聞いたとき、「もう殺される」と降伏したそうです。

 行きついたのは、約4100キロ離れた、今のカザフスタンの強制収容所でした。

 寛さんは清孝さんに当時の凄惨な状況を語っていました。

 「引き揚げ列車がやられた。何人死亡し、何人生きて帰れたのか。捕虜は筆舌に尽くせない苦労の連続。これはラーゲリ(収容所)の話なんですよ」

「戦争や差別で苦労したよ」父が残した言葉の重み

(写真)親子で撮影(写真左=清孝さん、右=寛さん、1994年ごろ)

 その後、さまざまな施設を転々。得意の馬の世話で、旧ソ連軍に気に入られ、生き残りました。

 帰国は終戦から3年後の12月でした。

 「戦争や差別で苦労したよと、よく言っていました。やっぱりアイヌだった私が、これだけの思いをしたんだよって自分で作って家族に渡すぐらいですから」

 自らの苦労を年譜という形で家族に託した寛さん。伝えたかったのは差別と戦争のむごたらしさでした。

 82歳で亡くなってから20年あまり。その遺志は今も、清孝さんの胸に刻まれています。

https://news.yahoo.co.jp/articles/c1fc4bc5b195cc20157f4940168823c21ef916d8


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【国立アイヌ民族博物館】奇妙で怪しい、不気味だけどかわいい、世界の霊獣・幻獣・怪獣が大集合!特別展「驚異と怪異―想像界の生きものたち」9月14日より開催

2024-08-15 | アイヌ民族関連

国立アイヌ民族博物館 第9回特別展示

公益財団法人アイヌ民族文化財団 2024年8月14日 13時01分

動物形土製品[国指定重要文化財]/千歳市教育委員会蔵

アヌココㇿ アイヌ イコロマケンル 国立アイヌ民族博物館(館長:佐々木史郎、所在地:北海道白老町)では、2024年9月14日(土)から2024年11月17日(日)まで、第9回特別展示「驚異と怪異―想像界の生きものたち」を開催いたします。

1.基本情報

■ 展覧会名称

日本語名称:驚異と怪異―想像界の生きものたち
英語名称:REGNUM IMAGINARIUM: Realm of the Marvelous and Uncanny

■会場

国立アイヌ民族博物館 2階 特別展示室

■会期・開園時期

2024年9月14日(土)~2024年11月17日(日)

・9月14日(土)~16日(月)、9月21日(土)~23日(月)は夜間営業日 9:00~20:00

・9月17日(火)~20日(金)、9月25日(水)~10月31日(木)は9:00~18:00

・11月1日(金)~17日(日)は9:00~17:00

※ ウポポイ(民族共生象徴空間)への入園は閉園1時間前まで。博物館入館は閉館30分前まで。

休園日

月曜日(祝日または休日の場合は翌日以降の平日)

※ 9月16日(月)・9月17日(火)・9月23日(月)、10月14日(月)、11月4日(月)は開館

■主催・後援・協力

主催:国立アイヌ民族博物館、国立民族学博物館、公益財団法人千里文化財団

後援:公益社団法人北海道アイヌ協会

協力:市立函館博物館、千歳市教育委員会、東北大学附属図書館、徳島県立鳥居龍蔵記念博物館、

八戸市博物館、北海道大学植物園・博物館、湯本豪一記念日本妖怪博物館(三次もののけミュージアム)

 (五十音順)

■観覧料

 

特別展示観覧料[税込]

 

民族共生象徴空間(ウポポイ)入場料[税込]

大人

300円 (240円)

1,200円 (960円)/年間パスポート2,000円

高校生

200円 (160円)

600円 (480円)/年間パスポート1,000円

中学生以下

無料

 

無料

※ 国立アイヌ民族博物館の基本展示室の観覧料は、民族共生象徴空間(ウポポイ)の入場料金に含まれます。

※ ()は20名以上の団体料金。

※ 障がい者とその介護者各1名は無料です。入場の際に証明書等をご提示ください。

■特別展示ウェブサイトのURL

https://nam.go.jp/exhibition/floor2/special/kyoui2024/

■イベント情報

【関連する研究者による講演会・シンポジウム・ギャラリートーク等】

開会記念ギャラリートーク
(講師:山中由里子氏・国立民族学博物館 教授)
9月14日(土)14:00~15:00 ※要事前申込み※
開会記念講演会「人はなぜモンスターを想像するのか?」

(講師:山中由里子氏・国立民族学博物館 教授)
9月15日(日)14:00~15:00

民博×アイヌ博クロストーク
10月14日(月・祝)14:00~15:00

【その他(研究員、学芸員によるギャラリートーク)】

ギャラリートーク 第1回
9月21日(土)14:00~14:30

ギャラリートーク 第2回
11月3日(日)11:00 ~11:30

ギャラリートーク 第3回
11月3日(日)14:00 ~14:30

ギャラリートーク 第4回
11月17日(日)14:00 ~14:30

2.展覧会の趣旨

■展示概要

人類は、常識や慣習から逸脱した「異」なるものを、どのように認識し、説明し、描いてきたのでしょうか。本展は、人魚や龍、河童など、想像界の生きものの多様性について祭具、衣装、絵画、彫刻、書籍などをとおして紹介し、人間の想像と創造の力の源泉を探ります。奇妙で怪しい、不気味だけどかわいい、世界の霊獣・幻獣・怪獣が大集合!

■みどころ

世界の霊獣・幻獣・怪獣が大集合!

写真左から

ヴェヒガンテ衣装(プエルトリコ)/国立民族学博物館蔵

トビウオ漁用 釣具(ソロモン諸島)/国立民族学博物館蔵

動物形土製品[国指定重要文化財]/千歳市教育委員会蔵

舞踏劇ワヤン・オランの衣装《ジャタユ》(インドネシア)/国立民族学博物館蔵

張子人形《ショロショロ狐》(鳥取県)/国立民族学博物館蔵

世界各地の人びとが創り出してきた不思議な生きものたち。水に潜み、天に羽ばたき、地を巡る、想像界の生きものの多様性を探求しよう!

北海道会場のみどころ!

耳長お化け《キサㇻリ》(北海道)

国立民族学博物館蔵

変幻自在の怪獣ビビちゃん、開拓使たちがつくりだした「北海道イメージ」関連資料、現代のイラストレーターが描くアイヌの伝承に伝わるクリーチャー紹介など、北海道オリジナル・コンテンツに乞うご期待!

千島アイヌが怖れる化物の木製仮面

仮面(千島列島)国立民族学博物館蔵

アイヌの中でも千島アイヌにしか伝わっていないフジル!仮面の下は「のっぺらぼう」。近隣諸民族の仮面と関係か?千島アイヌの伝承を採録した鳥居龍蔵のフィールドノートと共に展示される稀少な機会。

驚異と怪異の文化史

海鬼、『姫國山海録』(1762)より

東北大学附属図書館蔵

※会期中資料替えがあります

五十嵐大介作「異類の行進(マーチ)」(部分)

未知なる世界の驚異や、常ならざる怪異は、どのように描かれ、理解されてきたのでしょう?博物誌や世界地図、現代アーティストたちの作品に探る、アジア、中東、ヨーロッパの比較怪物学。

■チラシ(4種類)

各チラシ(PDF)のダウンロード

チラシ1: 動物形土製品[国指定重要文化財]/千歳市教育委員会蔵

チラシ2: (キャプションなし)

チラシ3: バロンダンスの衣装《ランダ》(インドネシア)/国立民族学博物館蔵

チラシ4: 占術ダイアグラム(モンゴル)/国立民族学博物館蔵

https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000002.000122187.html


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【逆説の日本史】戦前の青年の多くが抱いていた支那大陸「大草原へのあこがれ」

2024-08-15 | アイヌ民族関連

週刊ポスト 2024.08.14 16:00 

 ウソと誤解に満ちた「通説」を正す、作家の井沢元彦氏による週刊ポスト連載『逆説の日本史』。近現代編第十四話「大日本帝国の確立IX」、「シベリア出兵と米騒動 その3」をお届けする(第1426回)。

 * * *
 アジアの遊牧民の生態と歴史に関する最良の入門書は、国民作家司馬遼太郎の『街道をゆく 5 モンゴル紀行』(朝日新聞出版刊)かもしれない。一九七三年(昭和48)八月に取材して『週刊朝日』に寄稿した(その後単行本化)もので、「旅行情報」としては古過ぎるが「背景説明」は面白い。ちなみに、ご本人は大阪外国語学校蒙古語部(現在の大阪大学外国語学部モンゴル語専攻)卒なのだが、こんな具合である。

〈清朝末期には内蒙古の地は漢民族の人口のほうが多くなり、モンゴル人は遊牧の適地の多くを失って、その牧畜生産力は大いに衰弱した。それだけでなく、清朝がモンゴル人の民族的活気を殺ぐためにラマ教をすすめたことも、衰弱に拍車をかけた。生産を支える男子の多くが僧になったことと、さらにはラマ教には僧が初夜権をもつという奇習があり、しかもその性的権威を通じ、僧が梅毒を蔓延させるということなどもあって、人口まで激減してしまった。(中略)その上、漢民族の商人が、モンゴル人の商業的無知につけ入って搾取し、いよいよ貧窮化させ、ついには家畜すらうしなって草原をうろつく窮民が清朝末ごろから出てきた。草原では乞食が成立しないのである。窮死するしかない。〉
(引用前掲書)

 日本で言えば、「シャモ(内地人)」が純朴なアイヌ民族からサケやクマの毛皮を「収奪」したのを思い起こさせる(『逆説の日本史 第17巻 江戸成熟編』参照)。ただ遊牧民族であるモンゴル人と違って、狩猟民族であるアイヌは「窮乏」はしても「窮死」はしなかったし、「シャモ」も梅毒を広めるようなことまではしなかった。この違いは日本人の優しさ(笑)によるものでは無く、同じ土地を「草原(羊のエサ場)」のままとするか「田畑」に変えるかという、遊牧民と農耕民の究極の争いに由来するのだろう。

 この争いには妥協の余地が無いが、日本列島における縄文人と弥生人の争いは土地を「森林」のままとするか「田畑」に変えるかの争いであって、平安時代初期までは東国と西国で平和的共存が成立していたし、桓武天皇が征夷大将軍坂上田村麻呂を派遣して東国を征服し「田畑」に変えた後も、アイヌの本拠である蝦夷地(北海道)までは征服しようとはしなかった。

 再三述べたように、彼の地では稲作が不可能だったからである。つまり、日本人の立場から見ればアイヌは「窮死」させる必要は無く、むしろ「サケやクマの供給者」として「生かして」利用すべき、ということになる。それが日本列島の歴史である。あらためて、「万里の長城」という境界線は作られたものの、遊牧民と農耕民が妥協できずに土地を争った中国大陸とは、日本列島と違ってじつに苛烈な環境であったことを思い知らされる。

 こういうことを知っていれば、司馬遼太郎の次の「冗談」も深く味わえるのではないだろうか。それは外蒙古つまり外モンゴルに建国されたモンゴル人民共和国(当時)で野菜が生産され食されていることを、通訳の女性から知らされたときである。

〈「おどろいたな」
「なにが?」
「モンゴル人が野菜を食べるなんて」
 堕落だな、と言おうとしたが、彼女のほうが脂肪のたっぷりした白いのどくびをみせて大笑いした。農業といっても人間のためのそれは小麦か何かぐらいのもので、主として家畜の飼料をつくるのだ、と教えてくれたのである。私は、ひそかに安堵した。偉大なるモンゴル民族が野菜を食ったがために滅びたなどというようなことがあれば、紀元前から営々(?)とそれを拒否してきた先祖に対して相済まぬではないか。〉
(引用前掲書)

 ここで、大正初期の満蒙独立運動に話を戻そう。大陸浪人とは言っても、頭山満のような「孫文(中華民国)応援団」と立場を異にする川島浪速は、「義兄弟」の清朝皇族粛親王善耆と組んで中華民国に滅ぼされた清朝再興をめざした。そのような形で清朝再興を成功させれば、当然日本はその新国家に強い影響力をもつことができるからだ。そして川島は、清朝に取り込まれた「内モンゴル人」ならば味方として使えると考えたのだろう。

 すでに述べたように、善耆の妹善坤は内モンゴルの王侯貴族に嫁いでいる。この「内モンゴルの王侯貴族」という曖昧な表現を、なぜしなければならないのかを説明するのに、これだけの紙数を要した。この話題に入ったとき川島浪速の経歴を紹介したが、引用した事典の説明に次のような記述があったのをご記憶だろうか。「このころから清朝の粛親王、蒙古王喀喇沁らと親交を結ぶ」。

 せっかく引用したのにケチをつけるようで申し訳ないが、この「蒙古王喀喇沁」という表現は、あまり正確では無い。そもそも、この時代「蒙古王」つまり蒙古全体の王などいない。ひょっとしたら日本の新聞が勝手にそう呼んだことはあったかもしれないが、それにしても「蒙古王喀喇沁」はおかしい。「善耆の妹善坤の夫」のことを指す意図なら、誤りとすら言える。「喀喇沁」は人名では無く、旗の名前つまり農耕民の世界なら地名にあたるものだからだ。

〈ハラチン(喀喇沁)部 ハラチンぶ Kharachin
15世紀以後モンゴル東部に現れる部名、行政区画名。16世紀後半にダヤン・ハン(達延汗)の孫のバヤスハルの支配下に入り、以後その後裔の支配するところとなったが、17世紀前半、リンダン(林丹)の征討を受けて壊滅、残った者は清朝に下って八旗に編入された。清代に内モンゴルのジョソト盟に属したハラチン2旗はこれとは異なり、ウリヤンハン部族の分れで、明代の朶顔衞の後身である。〉
(『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』)

 じつは、いま問題にしている「ハラチン(カラチン)」とは、この記述の冒頭に出てくるものでは無く、それとは異なる「清代に内モンゴルのジョソト盟に属したハラチン2旗」のほうである。つまり、一度途絶えていたハラチンが清朝に「再興」されたということだ。なぜ「2」なのかと言えば、「右旗」と「左旗」があったからだ。

 ちなみに「盟」というのは、いくつかの「旗」によって構成される上位団体のことで、日本で言えば「市」が「県」に所属しているようなものだ。そして、その内モンゴル・ハラチン右翼旗の旗長だったのが「善坤の夫」で、個人名はグンサンノルブ(貢桑諾爾布。モンゴルに姓は無い)という。

渡蒙した日本人女性教師たち

 じつはこの人物、通常の人名事典や百科事典には載っていない。私が経歴をまとめておけば、まず生没年は一八七二~一九三一年。生家はチンギス・ハンの功臣ジェルメの子孫というから、名門である。モンゴル語、中国語だけで無く、チベット語にも通じていたという。その後所属するジョソト盟においても有力幹部となった。

 大阪で開かれた内国勧業博覧会を見学するために一九〇三年(明治36)に来日し、教育者下田歌子と会い女子教育の重要性を教えられ、帰国後ハラチン旗に「モンゴル史」初の近代女子教育機関である毓正女学堂を開校した。そして歌子の紹介で河原操子、鳥居きみ子ら日本人教師を招請し、近代的な女子教育を実践した。ちなみに、下田歌子は今度の新五千円札の肖像となっている津田梅子と並んで日本の女子教育の発展に貢献した重要人物なので、河原操子、鳥居きみ子とともに経歴を紹介しておこう。

〈下田歌子 しもだうたこ 1854-1936(安政1-昭和11)
皇室中心主義、国家主義の立場にたった女子教育者。幼名、平尾鉐(せき)。岐阜県出身。1872年から女官生活、79年結婚し退官。夫と死別後、81年上流家庭子女に純日本的教養を与える桃夭(とうよう)女塾を開設、賢母良妻の育成に努めた。華族女学校開設(1885)に参与し1907年まで皇女・貴女教育に従事。この間イギリスの皇女教育、欧米諸国の女子教育とともにその国情を視察し、1898年、婦人労働問題の未然の防止、国威をそこなう海外醜業婦問題の解決などを願って婦人大衆の教育を企図して帝国婦人協会を創設。貧困女性の教育機関として99年創立の実践女学校(実践女子大学の前身)は協会事業の一環だったが、実際には中・上流家庭子女の中等教育機関となった。1901年以降、この学校では清国女子留学生も受け入れた。(以下略)〉
(『世界大百科事典』平凡社刊 項目執筆者千野陽一)

〈河原操子 かわはら-みさこ 1875-1945
明治-昭和時代前期の教育者。
明治8年生まれ。女子高等師範(現お茶の水女子大)を中退し、郷里長野県で県立高女の教師をつとめる。下田歌子に師事し、その世話で横浜の大同学校の教師となる。明治36年中国内モンゴルのカラチン王家に家庭教師としておくられ、大陸における軍事情報もさぐって2年後に帰国。昭和20年死去。71歳。著作に「蒙古土産」。〉
(『日本人名大辞典』講談社刊)

 鳥居きみ子については普通の事典には掲載されておらず、これまでは夫の鳥居龍蔵の妻という形でしか紹介されなかった。しかし最近、ようやく「鳥居龍蔵夫人」では無く本人の事績に詳しく触れた児童小説『鳥居きみ子 家族とフィールドワークを進めた人類学者』(竹内紘子著 くもん出版刊)が出版されたので、それを報じた『讀賣新聞』の記事(「人類学 鳥居きみ子の功績」讀賣新聞オンライン2024/02/26 05:00公開。山根彩花記者)を紹介しておこう。

 記事によれば、きみ子は「音楽を学ぶため上京し、東京帝国大学の人類学教室に勤務しながら学んでいた同郷の龍蔵と結婚、子どもを生んだ。龍蔵や子どもとモンゴルに数回渡り、現地の人々の風習や、北方民族国家・遼時代の皇帝の墓などを調べた」ということだ。
 では、そもそも鳥居龍蔵とは何者か?

〈鳥居龍蔵 とりいりゅうぞう[1870-1953]
考古学者、人類学者。日本における人類学の先駆者の一人。徳島市に生まれる。正規の学生ではなかったが東京大学で坪井正五郎に師事し人類学その他を学び、のち同大学助教授になった。国学院大学、上智(じょうち) 大学の教授、中国の燕京(えんきょう) 大学客座(客員)教授も歴任した。鳥居は大正時代における日本考古学の指導者であり、またモンゴル、中国東北地区を対象とする考古学の開拓者であった。民族学の分野でも、千島アイヌ、台湾原住民(中国語圏では、「先住民」に「今は存在しない」という意味があるため、「原住民」が用いられる)、中国のミャオ族の調査、さらに数系統の構成要素からなる日本民族文化形成論の展開など、功績が大きい。鳥居の学説の多くは、今日ではそのままの形では支持できないが、示唆や刺激に富むものが少なくない。〉
(『日本大百科全書〈ニッポニカ〉』小学館刊 項目執筆者大林太良)

 本章に入ってから人物紹介がやたらと続くな、と感じておられる方も多いだろう。そのとおりなのだが、なぜそうなるかと言えば、かつての大日本帝国がモンゴルと深くかかわったという歴史的事実が最近ほとんど忘れ去られているからだ。だから「旗」などという言葉も一から説明せねばならない。戦前はまったく違った。

 そもそも、青年福田定一(司馬遼太郎の本名)が大阪外国語学校の蒙古語部に入った理由の一つに、「大草原へのあこがれ」があった。もちろん、この大草原とはアメリカ大陸では無く中国大陸のことだが、それは彼だけで無く多くの日本人青年の思いでもあった。戦前の青年にとって、狭い日本を飛び出して世界に雄飛しようと考えるならば、その行き先は「支那大陸」であり、「大草原」であったのだ。そうした、その時代の日本人の常識を知らねば歴史は語れない。

 前出の事典の下田歌子の経歴では触れられていない(つまり忘れ去られている)が、彼女の創立した実践女学校には一九〇六年(明治39)、内モンゴルの毓正女学堂から女子学生三名が留学している。もちろん「モンゴル史」で初めてのことで、留学が実現した背景には「カラチン王家の家庭教師」をつとめた河原操子の尽力があった。この「カラチン王家」とはグンサンノルブ・愛新覚羅善坤夫妻のことだが、そのグンサンノルブが創立した毓正女学堂から、河原の帰国に伴い女子学生が同行する形で留学が実現したのである。

 注意すべきは、この時代の中国大陸の常識は朱子学に基づく「女子に学問など必要無い」だったことだ。そこに注目すれば、グンサンノルブがいかに開明的君主であり、日本との絆がきわめて深かったことに気がつくはずである。

(第1427回に続く)

【プロフィール】
井沢元彦(いざわ・もとひこ)/作家。1954年愛知県生まれ。早稲田大学法学部卒。TBS報道局記者時代の1980年に、『猿丸幻視行』で第26回江戸川乱歩賞を受賞、歴史推理小説に独自の世界を拓く。本連載をまとめた『逆説の日本史』シリーズのほか、『天皇になろうとした将軍』『「言霊の国」解体新書』など著書多数。現在は執筆活動以外にも活躍の場を広げ、YouTubeチャンネル「井沢元彦の逆説チャンネル」にて動画コンテンツも無料配信中。

※週刊ポスト2024年8月16・23日号

https://www.news-postseven.com/archives/20240814_1982593.html?DETAIL


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「裏金から払えよ」杉田水脈議員、地元神社に「クラファン100万円」呼びかけるも“裏金1564万円”蒸し返されツッコミ殺到

2024-08-15 | アイヌ民族関連

SmartFLASH 2024年8月14日

「裏金から払えよ」杉田水脈議員、地元神社に「クラファン100万円」呼びかけるも“裏金1564万円”蒸し返されツッコミ殺到© SmartFLASH

クラウドファンディングを呼びかけるも、共感を得られなかった杉田水脈議員

過去のブログへの投稿内容が、アイヌ民族への人権侵害と認定された、自民党の杉田水脈衆院議員が8月12日、選挙区内にある山口県防府市内の神社への、クラウドファンディング(CF)協力要請をXに投稿した。

「防府市護国神社で開催された、戦没者追悼慰霊祭への参加報告をした投稿です。玉ぐし奉奠(ほうてん)と、あいさつをしたことに加え、神社の老朽化対策として修復費用のCFをしていることを、宮司から説明を受けたとつづりました。目標額は100万円とのことで、《みなさまどうか、ご協力よろしくお願いいたします》と発信しているものの、杉田氏自身が出資しているかどうかは明らかにしていません」(地元紙記者)

杉田氏といえば、いうまでもなく旧清和会(安倍派)でパーティー券代金のキックバックを受けていた、いわゆる“裏金議員”のひとり。その額は1564万円で、党の役職停止処分を受けた。そんな杉田氏のCFへの協力要請だっただけに、《ご苦労様でした》と労をねぎらう投稿もあったものの、やはりXでは大ブーイングが吹き荒れた。

《裏金から払えよ》

《杉田水脈センセイが国民からくすねた裏金1564万円から払えばいいのでは?》

《杉田水脈センセイの裏金で、十分払える額ですね》

《裏金チューチュービール券の杉田水脈大先生が裏金で一発解決じゃありませんか》

ちなみに、杉田氏の名誉のためつけ加えると、比例中国ブロックの単独候補である杉田氏にとって、選挙区内にある防府市護国神社のCFへの参加は、公選法で禁止されている寄附行為になる可能性もあるという。杉田氏としては、9月の総裁選後からさほど遠くない時期にあるはずの解散総選挙に向け、地元への貢献をアピールしたかったのだろうが、ある自民党議員は迷惑顔でこう明かす。

「もはや、杉田さんに配慮する議員は党にいませんよ。前回の総選挙では、杉田さんの後ろ盾だった安倍(晋三元首相)さんの実弟、岸信夫(前議員)さんがゴネまくって当選圏内の順位に入れたのをみんな知っています。杉田さんも、今回は優遇されないのはわかっているはず。できれば、騒動を起こさずに(議員を)引退してもらいたいと思っている仲間も多いです」

議員を辞めれば、いくらでも寄附などできるはずだ。

https://www.msn.com/ja-jp/news/entertainment/裏金から払えよ-杉田水脈議員-地元神社に-クラファン100万円-呼びかけるも-裏金1564万円-蒸し返されツッコミ殺到/ar-AA1oM5Zt


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世界の先住民族とつながる マオリから学んだ美しさ、そして強さ 国際社会で訴える沖縄の今   

2024-08-15 | ウチナー・沖縄

琉球新報 公開日時 2024年08月14日 17:31

更新日時 2024年08月14日 17:38

先住民族の権利保護と拡大について話し合う「第23回先住民族問題に関する常設フォーラム」=4月、米ニューヨーク

座波 幸代

 琉球民族独立総合研究学会(ACSILs)共同代表の親川志奈子さんらはこの1年余り、国連をはじめさまざまな国際会議に参加したり、ニュージーランドの先住民族マオリの若者たちの沖縄訪問をサポートしたりして各地の先住民族と交流を深めてきた。7月18、19日にはスイス・ジュネーブで国連の人権理事会の会合にも初めて参加した。この1年間の国際社会での活動を通して、親川さんは「世界の先住民族とつながることで琉球の私たちは自己決定権を取り戻すことができる」と手応えを語った。

(写真)国連の人権理事会の会合で発言する親川志奈子さん=7月、スイス・ジュネーブ

◆「オスプレイが落ちた」重なる境遇

 2023年、親川さんは3月にタイ、6月にマレーシアの国際会議に参加したほか、7月はジュネーブでの国連の先住民族の権利に関する専門家機構(EMRIP)に出席。7月下旬には、オーストラリアのNGO主催のシンポジウムに参加し、ダーウィンなど4都市で講演し現地視察した。

 沖縄に戻った8月下旬、オーストラリア北部ダーウィン沖にあるメルビル島で米海兵隊の輸送機MV22オスプレイが墜落して3人が死亡する事故が起きた。米軍普天間飛行場にも配備されているオスプレイ。事故は沖縄でも大きく報じられた。

 ダーウィンで知り合った友人からすぐに連絡があった。「オスプレイが墜落したメルビルは、ダーウィンのすぐ北にある2つの島のうちのひとつ。オスプレイは中学校のある地域に墜落したんだ」と教えてくれた。

 米軍機の墜落事故が起こり続ける沖縄の状況とあまりに重なった。

【深掘り】豪オスプレイ墜落 クラッチ不具合への対処直後にまた死亡事故 安全性への疑念が増幅

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◆マオリの若い世代と語り合う

 今年2月と4月には、ニュージーランドの先住民族マオリの若手グループが沖縄を訪れた。一行は、ニュージーランド政府の奨学金で来日。アイヌの人々と交流した後、沖縄では、マオリの経験した歴史や今の課題、言語や教育、ビジネスなど、幅広いテーマで語り合った。見据えるのは先住民族の未来だ。

 糸満市の「平和の礎」を訪れたマオリの若者が植民地主義について触れ、「なぜ沖縄が戦場になり、その後も軍事利用され続けているのか、その不条理を痛ましく思う」と語る姿が印象的だったという。

 親川さんは、初めて沖縄を訪れたマオリの若者たちが戦争自体の恐ろしさだけでなく、「他者の土地を侵略し戦場にし、軍事基地を置いて利用し続けている植民地主義の恐ろしさ」にすぐに気づき、語ってくれた姿に心を動かされたという。

沖縄を訪れた際、子どもたちに伝統的な踊り「ハカ」を披露するマオリのメンバーら=那覇市内

あの有名な踊り「ハカ」も披露 NZのマオリの人々、沖縄県庁で「基地問題、私たちの闘いと共通」

 照屋義実副知事は13日、文化体験研修で来日中のニュージーランドの先住民族マオリの人々と県庁で面談した。マオリの人々は伝統的な踊り「ハカ」を披露して感謝の思いを伝えた。一行は、1月10日から来日し、北海道や東京、京都など … 続きを読む

◆若い世代へのバトン 「ワッターは強い」

 6月には、ニュージーランドでの先住民族のシンポジウムに招かれ、親川さんと、米ハワイへの留学経験のある赤嶺理玖さんが参加した。ワークショップでは、マオリのアイデンティティーやカルチャーを軸にしてビジネスを起こした起業家の話、マオリ語の第二言語として学んだ世代が直面する難しさを乗り越え、言語復興に取り組む話などを聞いた。

 土地を奪われ、言葉を禁じられ、同じような歴史をたどった沖縄とマオリの交流。赤嶺さんは「沖縄では『自分たちはこれが奪われた』『これが足りない』『これができていない』というような、嘆きの歴史の話をする風潮があるが、マオリの先住民は問題を抱えていること自体を前向きに捉え、この島で生きる若い世代がどうチャレンジするかを語っている。その姿勢から多くを学ぶことができた」と語る。

(写真)マオリの若い世代との交流を通して感じたことを語る親川志奈子さんと赤嶺理玖さん=那覇市内
 「悲しい歴史を語り継ぐことも大事ではあるが、自分たちのルーツの美しさ、強さや、強みになるところなど、ポジティブなエネルギーを持って権力に対して戦うことを、マオリのようにつながっている島の姉妹兄弟と考え、行動をとっていきたい」と語る赤嶺さん。

 ポジティブな強さの例として、戦後の沖縄の復興を支え、「沖縄のチャップリン」の愛称で親しまれた演劇人、小那覇舞天さんを挙げる。「ワッターは負けてない、ワッターは強い、ワッターはできる、ということを若い世代と考えて動いていきたい」

◆最も影響を受けるのは先住民族

 先住民族の権利が侵害され、奪われる歴史が今も世界各地で続いている。政策決定のプロセスから先住民族が除外され、政府や企業が土地の開発などを続けてきた結果、軍事主義や気候変動で最も影響を受けるのが先住民族であることは、国連も認識している。

 今年7月の人権理事会の会合は、国連への先住民族の参加を強化する具体策を議論するために開かれた。数十カ国の政府関係者と、北米、南米、北極圏、太平洋、アフリカ、アジアの全7地域から先住民族の代表らが参加した。

 親川さんは今回、国連の基金(ボランタリーファンド)に採択され、渡航費や滞在費、食費などが助成された。今回この助成に選ばれたのは14人、アジアからの参加は親川さん含め2人だった。「世界の先住民族の多くをアジアが占めるが、国連や意思決定の場にアジアの先住民族の参加がまだ難しい現状にあることをあらためて確認した」という。

 2日間の会合では、先住民族が自らの権利に影響を及ぼす事柄についての意思決定に、自ら選んだ代表を通じて参加し、意思決定に関われるかなどについて各参加者が声明を発表した。親川さんは「今回は、沖縄が直面する問題について具体的な解決策を求め、声を上げる、というものではなかったが、沖縄、アジアの文脈で必要な視点を盛り込み、声明を作成した」と語る。

日本人が知らない世界の先住民族 国連フォーラムが“沖縄”で踊った! ◇アメリカから見た! 沖縄ZAHAHAレポート(10)

ニューヨークの国連本部で4月16~27日、第17回「先住民族問題に関する常設フォーラム(Permanent Forum on Indigenous Issues)」が開かれました。世界各地で、自分たちの土地や資源、文化な … 続きを読む

◆「知らされない」現実

 スイスへの出発前、沖縄で米兵による性的暴行事件が相次いで発覚した。いずれも日本政府は沖縄県や市町村に情報を伝達しておらず、ウチナーンチュの安心安全な暮らしや人権が脅かされる犯罪がウチナーンチュ自身に知らされない現実を露呈した。

 「政府は『被害者のプライバシーを守るために情報提供しなかった』というが、隠蔽(いんぺい)でしかない。被害に遭うのは私たちなのに知らせたら面倒だからと日米両政府は知らせないようにした」と親川さんは指摘する。

 ジュネーブでの会合では、政府と先住民族が初めて対等に議論の場について意見を交わした歴史的なものだった。

 世界で最も不利な立場に立たされているとされる先住民族の権利をどのように守っていくか。国連の場でも各国が知恵を出し合い、活発な議論がスタートしている。「日米両政府の抑圧を受け、自己決定権を奪われ続けている琉球の私たちの問題解決の糸口がここにある」と親川さんは考えている。「この会合に琉球から参加できたことは意義深いと感じている」と振り返る。

◆世界のウチナーンチュの「ホーム」として

 アメリカなどにいるACSILsの若いメンバーによる国際会議への参加も相次いでいる。

 4月に米ニューヨークの国連本部で開かれた「第23回先住民族問題に関する常設フォーラム」には、3回目の参加となる親川さんのほか、赤嶺理玖さん、米国カリフォルニア大学サンタクルーズ校の大学院生アレクシス大城(うふぐしく)マクラレンさん、マリコ・ミドルトンさん、ブラジルからビクトール金城さんも参加した。「琉球のレジリエンスと復興」と題したサイドイベントも開催した。

(写真)「Resilience and Revitalization of the Ryukyus」をテーマにしたサイドイベント=4月、米ニューヨーク

 7月のEMRIPの会合には、大城さん、オレゴン州立大学院生の酒井莉沙子さんが参加。軍事基地から派生する女性への暴力と、名護市辺野古の新基地建設に反対する声明などを読み上げた。

 親川さんらは今後、活動を広げ、世界の先住民族とつながり合うと同時に、世界のウチナーンチュと連携しながら「ホーム」である琉球の若い世代と共に学び合う機会をつくりたいと考えている。「琉球の私たちが直面している問題と向き合い、解決のためのアクションを起こしていきたい」と前を見詰めている。

先住民族問題で親川さん、赤嶺さんら訴え 米ニューヨークの国連で常設フォーラム

 先住民族の権利保護と拡大について話し合う「第23回先住民族問題に関する常設フォーラム」が15日から米ニューヨークの国連本部で始まった。琉球民族独立総合研究学会(ACSILs)の親川志奈子さんや海外在住の県系人ら5人が参 … 続きを読む

米ハワイで「ハジチ」集い 世界のウチナーンチュ30人 先祖に誇り

 次世代に、沖縄の先祖に誇りを持ってもらおうと、沖縄の女性がかつて手に彫っていた入れ墨「針突(ハジチ)」を施す米在住のウチナーンチュ約30人がこのほど、ハワイに集結した。  イベント主催者で、県系2世のミドルトン真理子さ … 続きを読む

https://ryukyushimpo.jp/news/entry-3368647.html


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台湾原住民タイヤル族の児童合唱団、国際コンクールで2位 フィレンツェで開催

2024-08-15 | 先住民族関連

中央フォーカス台湾2024/08/14 14:05

イタリア・フィレンツェで開催された国際合唱コンクールで総合2位に輝いたタイヤル族の児童ら(新竹県嘉興小学校合唱団のフェイスブックから)

(ローマ中央社)北部・新竹県嘉興小学校に通う台湾原住民(先住民)族タイヤル族の子どもたちを中心に結成された合唱団が、11日(現地時間)までイタリア・フィレンツェで開催された「アンドレア・デル・ベロッキオ国際合唱フェスティバル」のコンクール部門に参加し、総合2位の座に輝いた。会場となった教会に天から降り注いだような美声が響き渡り、聴衆の涙を誘った。

合唱団は児童合唱部門と民謡・ポピュラー・ジャズなどの部門にエントリーし、タイヤル族の民謡を編曲した合唱曲などを歌って2部門で金賞を受賞。各部門の代表によるグランプリコンクールに進出し、2位の評価を獲得した。特別賞の「イタリア作品最優秀歌唱賞」も受賞した他、団員の李元太さんには「最優秀男性ソリスト賞」が与えられた。

李さんは、パフォーマンスの際に現地の夫婦が涙を流していたのが最も印象的だったとし、夫婦は僕たちの歌声が良いと思ったに違いないと語った。

指揮者の陳翰威さんは、タイヤル族の子どもたちを連れて海外のコンクールに臨んで「教えたことよりも学んだことの方が多かった」とコメント。努力して練習することだけでなく、心を込めて歌声を届けることも必要であることを学べたと明かし、子どもたちに感謝を伝えたいとした。

(黄雅詩/編集:田中宏樹)

https://japan.focustaiwan.tw/culture/202408140004


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Apple、5年目の起業家キャンプの申込み受付を開始

2024-08-15 | 先住民族関連

Iphone mania  2024年8月14日

Appleは、Appleのテクノロジーとフレームワークを使用したアプリ開発者向けの起業家キャンプ「Apple Entrepreneur Camp」への申込み受付を開始しました。今年で5年目の開催となります。

対象者は、女性、黒人、ヒスパニック/ラティーノ、先住民族の開発者

Apple Entrepreneur Campに申込みが可能なのは、女性黒人ヒスパニック/ラティーノ先住民族の開発者です。これらの人々は、特にテクノロジー企業を立ち上げるもしくは率いる際に特有の課題に直面するという調査結果があるため、その手助けを行うのがAppleの意向です。

Appleはその目的について次のように述べています。

Apple Entrepreneur Campは、このような創業者とその組織が次世代の最先端アプリケーションを開発するのを支援し、テクノロジー業界における過小評価グループの創業者と開発者のパイプラインと長寿を促進するグローバルネットワークを形成することを目的としています。

Apple Entrepreneur Camp

マンツーマンでアプリ開発を加速

Apple Entrepreneur Campでは、Appleのエキスパートやエンジニアがマンツーマンでアプリ開発を大幅に加速させてくれます。

さらに、役員クラスの従業員から話を聞く機会や、参加者同士で関係を築く機会も提供されます。ラボ終了時には、進捗状況の発表やアプリのライブデモを行います。

申込みは9月3日まで

Apple Entrepreneur Campへの申込みは、9月3日まで受け付けています。

キャンプは「過小評価グループの創業者」「女性創業者と過小評価グループの創業者」「女性創業者」の3つのスロットに分けて開催され、それぞれ期間が異なります。

https://iphone-mania.jp/apple-584632/


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オーストラリアから日本を思って(35)豪州から長崎と日本の人々へのメッセージ~今なら日本の危機を回避できる。なぜこの世界で重大視される問題が日本では語られないのか? ~今滝美紀

2024-08-15 | 先住民族関連

 

SAMEJIMA TIMES 2024年8月14日

前回は、「沈黙の陰謀」としてオーストラリアでの先住民アボリジナルの人々が、帝国主義のイギリスからの入植で、迫害され少数派となり、移民を増やした後に民主主義・選挙制度が始まったことを書きました。

日本では、米国の政治がよく報道されるようですが、イギリスの政治手法・政策が日本に似ていると思います。

日本は江戸時代末期に、伊藤博文をはじめ長州藩(山口県)藩士たちが英国に受け入れられ留学し、倒幕運動をすすめ、西洋化を進めました。日英同盟も結ばれ、両国とも島国で、今も皇室が存在します。天皇皇后両陛下が6月に渡英され王室同士の良好な関係を示しました。イギリスは継続して影響を与えられている国でしょう。

怒りを爆発させる人々

西側諸国では大量に受け入れられる非先住民(移民・不法移民)と先住民の間で、両方に不満・摩擦・争い・分断を生み、社会が荒れ、混乱しているようです。政府の不十分な説明・準備・政策も原因でしょう。

それなのになぜ、次々と戦争を行い、国々を焦土して移民・難民を増やすのか?

なぜ、国民や移民の声に真摯に耳を傾け、共に平和で幸せな共存できる社会をつくろうとしないのか?

疑問が湧きます。                      

最近イギリスで、怒りを爆発させる人々の様子が、頻繁に報道されます。豪州SBS(NHK相当で無料)では、イギリスでのナイフ所有率とナイフでの犯罪が増えていることが報道されました。アルジャジーラがこれをイギリスの緊縮(重税)と生活苦と合わせて記事にしていました。(こちら参照

移民の怒り

社会背景から書かれたフラサ―・マイヤーズ(FRASER MYERS)さんの記事によると、この7月18日、英国のヘアヒルズHarehillsで暴動が起きました。ここは80を超える国籍と民族を包含しているコミュニティで、住民の43%が英国外で生まれ、「21世紀のゲットー」と呼ばれています。ゲットー(ghetto)とは、貧しい少数派の集団という意味です。ヘアヒルズのような場所は、より広い英国社会からほぼ密閉され、過去に何度か暴動が起きている場所です。

事の発端は、ロマ族の移民家族から3人の子どもたちを引き離し、保護施設に送ろうとしたことで、争いが起きました。様々な民族を巻き込み暴動に広がり、バスが炎上する大惨事に発展しました。英語力が不十分なルーマニア国籍の人物がライターを持ってバスの横に立って放火した罪で起訴されました。

移民が社会に溶け込んでいない場合、彼らは国や地域の機関をほとんど信頼しない傾向がある。これが、政府が家族の子どもを引き離そうとした試みが、これほど敵意をもって迎えられた理由でしょう。

イギリス政府が多文化主義を容認したことは、間違いなく緊張をあおって不満をかき立てる一因です。市議会が多様性をポジティブに指摘する一方で、一部の住民は、社会福祉機関が家族の問題に介入する決定について、ロマ人に対する「組織的人種差別」と「迫害」のせいだとすぐに非難し、移民がイギリス社会で統合されず、安心して暮らせていない状況を浮き彫りにしました。

国民(先住民)と庶民の怒り 

7月29日には、イギリスの静かな海辺の町サウスポート(Southport)のダンス教室で11人の子どもたちが、ナイフの殺傷事件で重軽傷を負い、3人の少女が命を失いました。後に犯人は、17歳の少年、アフリカ系のイギリス人であることが公表され、犯行の理由は明らかにされてませんでした。悲しみ・動揺・不安・恐怖・怒りからか、その後、事件の起きた周辺で、多くの住民が集まり、ビンやゴミなどが、モスク・警察・パトカーに投げつけられ、発火する大きな暴動に変わりました。

この哀悼と怒りは、国内外に広がり、エスカレートした暴動がロンドンの首相官邸近くやイギリス各地で起こり、亡命・難民申請者を収容する複数のホテルへの放火も起こりました。「もうたくさんだ・Enough is enough」「子供たちを救え・Save our kids」「ボートを止めろ・Stop the boats」というフレーズや「ホームレスを救え」「医療不足だ」などの看板が並びました。(詳しくはこちら

イギリスも日本のように重税で、出生率が低く、貧富の差が広がり、庶民は生活苦が多く、民営化が進められた国です。「ボート」とは、外国から危険を冒して小さなボートで違法に入国する亡命者や難民の人々を指します。国内の移民の規模、特にイギリス海峡を渡ってフランスから小型船で到着する多くの移民に対する懸念が大きいようです。

なぜアイルランド人(先住民)なのか? 

豪州で暮らすにつれ、自分の周りや影響を与えた人々にアイルランド系豪州人が多いことに気づきました。

豪州が好きになったきっかけとなったホストファミリー、英語を鍛えてくれた先生も、一番の友人もアイルランド系でした。たずねてもいないのに「私はアイルランド系だよ」と会話に出てきます。それを聞く度に、なんだか特別なことなのか?アイルランドの人々はイギリス人とは、ずいぶん違うものなのか、と思うようになりました。

アイルランドの悲しい歴史は、ご存じの方も多いと思いますが、記しておきます。 

イギリスの隣国アイルランドは、ケルト人、ケルト文化というユニークな文化・言語を育みカトリック教徒(ローマ教皇を首とする)の国でした。

イギリスは、ドイツ北部からのアングロサクソン人の入植で英語を話し、エリザベス1世は1558年に戴冠すると、自分がアングリカン(英国国教会)の最高権威者であると宣言し、英国国教会を国教とし反カトリックとなりました。1649年イギリスの清教徒革命を起こしたクロムウェルが、アイルランドを征服しました。

アイルランドに侵攻した彼は、虐殺、寺院の焼き討ち、婦女子の乗ったボートを沈めるなど残虐行為を行い、彼はそれを「神のみちびき」と議会に報告したそうです。現在のガザとイスラエルに重なって見えてしまいます。その歴史からアイルランドの人々が、パレスチナの人々を支援する所以なのでしょう。

そして、アイルランドでは、先住民のケルト人・カトリック教徒への差別が始まり、土地が取り上げられました。イギリスが豪州に入植した同時期、1801年にはアイルランドはイギリスに併合され「カトリック処罰法」が制定され、カトリック教徒は徹底的に無力化され、アイルランド語は使用できず、その文化・伝統は否定され、カトリック教徒は大学に行けず、医者にも弁護士にもなれず、農民は5ポンド以上の価値のある馬を所有することができず、土地も所有できず小作人として暮らすしかなかったそうです。

農業は、畜産・穀物の生産が行われていましたが、ほとんどは、本国のイギリスへ送られ、ジャガイモが主食とされていました。そのジャガイモも外国からの疾病で、有害や不作となり飢饉に見舞われました。貧しいアイルランドの農民は、小麦やトウモロコシを買うだけの金もなく、調理用具さえも持ってはいないことが多く数百万人が亡くなり、多くが外国へと移住せざるを得なくなりました。

このような経緯から、アイルランドの最大の輸出品は「アイルランド人だ」ともいわれ、アメリカでは、黒人の人々と同様に奴隷扱いだったそうです。                   

長く苦しいイギリスとの闘い、アイルランド人同士の分裂を経て、1949年に独立しアイルランド共和国となりました。イギリスとの関係を断って、独立した主権国家となったアイルランド共和国は、次第に経済成長を実現させ、西側の軍事同盟であるNATOには加盟せず、中立を守ってきました。

しかし昨今のアイルランドの政権・政治家は変わり、西側や日本と足並みをそろえた、自国民に思いを寄せない政治のようです。                                          Foxニュースが詳しく報道していました。下に内容をまとめました。

アイルランド国民も高インフレ、深刻な住宅危機、医療制度の崩壊で生活に苦労していますが、西側諸国やEUの政策で大量の難民申請者がアイルランドに流入し、アイルランド人の税金から、移民の人々へあらゆる種類の福祉給付や住宅が提供されているそうです。ウクライナ難民の人々には、無料の住居・医療・月約15万円が支給されていたそうです。

移民のために宿泊施設が建設されて、移民はホテルや公共施設を利用できます。しかし4月には過去最高を記録したホームレス人口に対してはほとんど何もされていないそうです。 ホテル利用が妨げられ、観光業も打撃を受ける一方、一部のホテル経営者や建設会社は利権で利益を上げています。

「アイルランド人(先住民)より外国人(非先住民)が優先されているという感覚が本当に明白です。実際そうなのです」とアイルランド人ジャーナリストのガニングさんは伝えます。

米国と同様に、亡命を求める人々は、どこの誰だか、犯罪歴があるかも分からない、本質的には納税者の金庫を浪費すると感じています。しかし、アイルランド政府は前例のない揺るぎない移民優先の決意を固めます。違法移民も起訴されず、強制送還されない。移民の人々のホテル内での暴動や殺傷事件で不安も高まります。アイルランドの有権者は激怒し、これは米国の移民危機と多くの類似点がある、と危機感を募らせます。

イギリスの不適格難民の多くが、北アイルランド(イギリス領)との陸路国境を越えて、アイルランドに入国していると言われます。

抗議者らは、沈黙する有権者の大多数が、「移民が多すぎる」という主張(いくつかの世論調査によると約75%)が、自分たちの声だと訴えます。

また、政府はアイルランドで亡命を申請した場合に受けられる魅力的な特典を詳述した通知を8か国語でオンラインに投稿し、アイルランドを移民にとって人気の磁石にしたと非難が上がります。

しかも、アイルランドの難民・亡命希望者だというだけで、地方選挙で投票できるという事実も問題となっています。これは、アイルランド人(先住民)が少数派となり、非先住民がその地域のことを決める多数派となり、アイルランド人の声が届かない、差別・排除されるかもしれない、という心配が高まります。日本でも外国人投票権をすすめる自治体があると目にします。

地元住民は抗議活動しても、すでに政府に無視されていると訴えます。絶望と幻滅感が広がります。最大野党の中道右派も左派に転じ、進歩主義とグローバリズムを受け入れています。これは、日本の国政に似ているようで、最近の西側諸国や日本の政治は、軍事化(極右)するグローバル政治(極左)に見えます。

首都ダブリンで去年の11月、移民によるナイフによる襲撃で子供3人を含む5人が負傷した後、アイルランド各地で、政府を非難するイギリスで起こったような激しい抗議が続きました(こちら参照)。「アイルランド人の命は大切だ」「包囲、侵略だ」「(植民地のような)プランテーションを終わらせろ」「大量追放だ」と訴えられます。

そして、イギリスとアイルランドの共通点として、移民に若い男性が多い、ということです。移民の人々を、不足する兵士を補うため、軍隊へ加入させ、戦場に送るためか?という危惧もあります。

移民が悪いのか? 国民(先住民)が悪いのか?

♦「極右」「極左」というレッテル

前述のフォックスニュースは、他の主要メディアが、取り上げない点を下のように伝えていました。

抗議者の怒りは、主流メディアの扱い方によっても煽られている。主要メディアの主流はリベラルで、保守的な抗議活動をほとんど報道せず、偏見を持って報道することもあると伝えます。 

ガニングさんは「過去2年間、移民に抗議する人々、『移民には賛成だが、人数は制限すべきだと思う人』は誰でも『レイシスト』、『極右過激派』と呼ばれてきました。アイルランド政府・政治家・主要メディアとその社会階層の人々は、住民の不安・懸念に耳を貸そうともせず、移民は完全にプラスだと言い張ります。それが現実なのです」と報じました。

SNSでは「『子どもの安全が心配だ』と言うと『極右』と言われる」と同様のコメントが溢れていました。

国民が犠牲になるほどの大量移民や不法移民の推進を「極左」と呼ぶ人もいます。「極右」「極左」と呼ばれるグループは、デモで対立し、いがみ合うような構造にはめられているようです。日本でも、川口市でクルド人の人々の問題を巡り、野党間で対立していると聞きます。

しかし、「移民も先住民の庶民も、生活苦を強いられているという点で同じだ」「分断工作だ。乗ってはいけない。支配者層の思う壺だ。連帯しなければいけない」「社会を混乱させ不安定にしようとしている」というような意見もあります。

激しい抗議が繰り返される中、8月はじめには、ポジティブなシーンが認められました。北アイルランドのベルファスト(イギリス領)は、イギリスとの紛争で戦火に見舞われ、アイルランドから引き離された町です。そこでは、一つの抗議場で、左右が包摂され、様々な旗(アイルランド、パレスチナ、反ファシズム、イギリス、LGBT等)が舞う様子が注目されました。「昨日の敵は、今日の友だ。これが勝つ方法だ」「うれしい光景だ。アイルランドとイギリスは、土地・文化・伝統を守るために共に戦うべきだ」「全面的に支持する。英国にとって、アイルランドが先住民族の多いカソリック教国であり続けることが不可欠だ。アイルランドが崩壊すれば、イギリスも同じ運命をたどるまで、長くはかからないだろう。その逆もまた然りだ」というコメントに賛同が集まっていました。下はそのツイートです。

♦ 状況が違う豪州

豪州は移民が集まり、世界でも最も多様な人種が共に暮らす、差別に厳しい国ですが、状況は全く逆です。

移民問題は頻繁に議論され、選挙の焦点となります。今の与党(労働党)は、移民推進派で、野党(自由党)は移民削減派です。収容所で難民一人のために掛かる費用は1年で約2千万~4千万円(施設建設・管理・人件費・生活費等)と報告されます。国民保護の視点(治安・インフレでの生活苦・教育や医療の充実・国民の就業確保・住宅問題など)から、野党(自由党)は移民増加を反対し、国民もそれに賛同する傾向があります。ですから、与党(労働党)も選挙で勝つためには、その声を聴き入れざるを得ない状況です。

豪州では、ボートで亡命をする人々は、祖国に送還され、永住権はとれない法律が成立しました。それは、「命を冒す危険な航海をすすめてはいけない」からだということでした。

不思議なことは、移民削減・強制送還の声が上がっても、豪州人や豪州政府・政治家を「極右」「人種差別者だ」という報道や声を聞かないことです。

世界各地での、戦争・差別・迫害で、祖国を離れなければならなかった人々が集まってできた国の歴史や経緯から、用心深いのかもしれません。

豪州の隣国で「天国に一番近い島」と呼ばれるニューカレドニア(フランス領)でも5月に、独立を望む先住民(カナック族)により主権を巡り過激な抗議が続きました。宗主国のフランス政府が、10年以上住むフランス人にも投票権を与ると公表したからです。マクロン大統領が暴動後、この島に訪れるほどでした。フランスは、この地の資源や太平洋での軍事力維持を利用したいからではないかと憶測します。

ここでも先住民の人々が、選挙で少数派に追いやられ、意見が無視されるのではないか、という不安・不満・怒りが爆発したようです。(こちら参照)

豪州のグリーン党のバント( Bandt)党首はツイートで「私たちは、億万長者より亡命希望者との共通点の方が多い。英国の極右暴動は不穏だ。…政治支配者層が、直面する問題を疎外された人々のせいにする時、彼らは真犯人である既得権益者、大企業、そして彼らの欲望を実現可能にする政治家を守っていることを忘れないでください。ここ豪州、英国、そして世界中の多様なコミュニティ、そして私たちを分断しようとする憎しみの力に反撃する全ての人々に、力と連帯を捧げます。我々は多数である。彼らは少数だ」と呼び掛けました。

そういえば不思議なことは、反移民派の政治家やリーダーたちは、イスラエル擁護派で、パレスチナ擁護派を見かけないことです。なぜでしょうか?

移民に反対なら、戦争を反対し止めて、戦争で荒らされた国を復興し繫栄させることを助け、祖国で暮らすことができるように援助するはずです。

日本で移民問題が「沈黙」しているのはなぜか?

このように移民問題は世界各国で、喫緊の重要な問題だと捉えられています。しかし、移民が急激に増えている日本で、同様に議論されないのはなぜでしょうか…。

豪州では、先住民と新しい住民が共に、幸せに暮らすためのルールがあります。永住権や国籍取得は一般的に、①IELTSという英語試験(英語準1級以上)、②豪州の文化・価値観を尊重し調和して共生できるかを問う英語での試験③経済力が判断材料とされます。日本では、このような厳しい規制はないようです。

日本をどのような国にするのか?移民問題情報が伝えられ、選挙の争点として議論されるべきだと思います。

豪州から長崎と日本の人々へのメッセージ

8月9日の長崎原爆投下平和式典が世界で話題となりました。また、イスラエルとロシアに対する扱いの大差が、公然と世界に示されました。豪州とニュージーランドでもジャーナリストが取り上げ、独立系メディアに記事「Team genocide walks out on Nagasaki commemorations」が寄稿され、注目されました。

以下は内容の一部です。 

先週、長崎市の鈴木史朗市長は、毎年恒例の平和式典へのイスラエルの招待を取り消した。それは、平和式典が何であったか、そして今もなお何であるかを忘れてはならないという、穏やかだが厳しい外交メッセージだった。鈴木市長は6月にイスラエル大使に停戦を求める書簡を送った。市長は長崎の原爆被爆者の子として武力紛争の人的被害を十分知っていると指摘した。                

米・英・豪・加・仏・伊を含む西側諸国の大使がイスラエルとの連帯を示すため、追悼式典を欠席すると発表したという。これらの国々が、歴史で行ったことから考えると驚くべきことだ。

私たちは、道徳と合理性の一貫性で、複雑な問題の核心を見出そうと試みるべきだ。

南アフリカの国際司法裁判所によるイスラエルに対する大量虐殺訴訟に加わる国は増え続けており、トルコが最新の国であることに注目したい。一貫性を考えると、ニュージーランド、オーストラリア、その他の国々も加わるべきだろう。

私は長崎の人々の判断を称賛します。(全文はこちら) 

長崎の姿は、国政でも、市民を思い、道徳・合理性・一貫性のある政治家が、連帯すれば、日本はとても素晴らしい国になる、と確信できるものでした。

デイビット・ボウイは、豪州の先住民アボリジナルの人々に「Let’s Dance・踊ろう」という歌を送りました。冒頭の写真は、シドニーの街角にある彼の壁画です。

https://samejimahiroshi.com/league-aust35-20240814/


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丁寧な針仕事19点展示 アイヌ文様刺しゅう 「エミナの会」作品展  白老

2024-08-15 | アイヌ民族関連

苫小牧民報 2024/8/14配信

 白老町末広町のしらおいイオル事務所チキサニで、町内のアイヌ文様刺しゅうサークル「エミナの会」(菅野節子代表)の作品展が9月10日まで開かれている。期間中は、同会指導によるアイヌ文様刺しゅう体験会も予定している。  同会は2016年に…

この続き:276文字

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https://www.tomamin.co.jp/article/news/area2/146549/


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「今後も伝承、発信の場に」武四郎記念館 元館長らトーク 三重・松阪

2024-08-15 | アイヌ民族関連

夕刊三重8/14(水) 7:57

開館30年の歴史振り返る

トークイベントで記念館の30年の歩みを振り返る(奥左から)佐々木教授、髙瀨元館長、山本館長=小野江町の松浦武四郎記念館で

 今年7月3日に開館30周年を迎えた三重県松阪市小野江町の松浦武四郎記念館(山本命館長)で11日午前10時から、「開館から30年の歩み」と題した記念トークイベントが開かれた。熱心な武四郎ファンら35人が聞き入った。

 全3回のシリーズで、2回目。同記念館の建築経緯や30年間の進化を知ってもらい、さらに今後何を目指すべきかを探るもので、最終的に記念館運営に市民の理解を寄せてもらうことが目的。

 この日は、北海道大学名誉教授で、展示設計に協力した佐々木利和さん(76)=札幌市=と、髙瀨英雄元館長(86)=殿町=を迎え、山本館長が司会進行を担当。同館の歩みを振り返りながら、その時々で2人が思い出話を開陳した。

 同館は1994(平成6)年7月3日に公民館機能を併せ持つ博物館としてスタート。96(同8)年2月に第1回武四郎まつりを開き、2005(同17)年には市町合併で松阪市の施設になった。

 この年、館長に就任した髙瀨さんは、40年前にこの地へ来た佐々木さんの記念館構想に接し、「有形無形の協力を三雲町に寄せる必要がある」との一言に感銘を受けたと語り、10年後に記念館が完成し、佐々木さんをはじめとする研究家らの記念講話に耳を傾ける町民の情熱に並々ならぬものを感じたという。

 また山本館長が発案した「連続講座」と「友の会」の存在は記念館の新しい出発を象徴するもので、「記念館の歴史は無から有を、不可能を可能にする挑戦の日々。チャンスを待つのではなく、自ら生み出す30年だった」とした。

 08(同20)年に開催した「生誕190年等記念事業」では、10年後の生誕200年までに知名度を高める必要があり、北海道旅行、大台登山などの各種イベントを催行。18(同30)年の生誕200年の土台を築くことができたと振り返った。

 最後に、佐々木さんは「隣の小野江小の子供たちが頻繁に遊びに来てくれてうれしい。話し声が聞こえるのが何より。理想の博物館の在り方。将来的に子供たちと博物館との関わりを考えるべき。アイヌの人たちに対する大きな意識を代表する記念館であってほしいとも思う。さらには蝦夷(えぞ)地だけではなく、武四郎が旅した全地域の文化や風俗を伝承し、発信する場所であることを願う」、髙瀨さんは「挑戦を続けていってほしい。友の会はじめ市民の協力によって可能になる」と期待を寄せた。

https://news.yahoo.co.jp/articles/cabe54d28172b056abcd60544e4b5a53254eab67


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戦前に夏の甲子園大会で台湾代表が準優勝していた!? 民族を超えた球児たちの努力と絆の物語

2024-08-15 | 先住民族関連

歴史人8/14(水) 12:30

全国高等学校野球選手権大会、通称「夏の甲子園」が盛り上がりをみせている。全国の高校球児たちが憧れる夢の舞台だが、戦前は「外地」にも大勢の球児がいた。1931年夏、台湾代表・嘉義農林野球部が快進撃の末に決勝に進出するというニュースが日本を駆け巡った。今回は映画『KANO 1931海の向こうの甲子園』のモデルになった戦前の球児たちの民族を超えた物語をご紹介する。

■戦前に朝鮮・満州・台湾の「外地」で甲子園を夢見た球児たち

 台湾は、日本が日清戦争の勝利によって得た最初の植民地で、その支配は半世紀に及んだ。日本人は野球ブームを台湾に持ち込み、明治30年代末にはすでに各地で野球が行われていた。

 その延長で中学野球が始まる。最初に野球部を作ったのは総督府国語学校附属中等部で、後の台湾一中、現在の建国中学である。当時の田中校長が率先して、明治39年(1906年)に創部した。

 それに刺激され、同じ国語学校の附属師範部も野球部を作ったのである。この師範部には野球経験者がいたため、みるみる上達した。そして、パイオニアとしての誇りに燃える中等部と、初めての試合を行ったのである。試合は白熱して大接戦となり、5対5の引き分けになった。

 この試合は台湾北部のスポーツ界に大きな刺激を与え、野球熱は大いに盛り上がり、次に台北中学会チームが誕生した。このチームは、官庁や会社に勤めながら学ぶ者たちの集まりだった。以後、この三者が鼎立する。

 当初、中学会チームは昼間働いていることもあり、今一つ精彩を欠いていた。だが、二高(現在の東北大学)で投手を務めていた人間が、台湾総督府に就職。コーチに就任して国語学校中等部を破ったのである。すると中等部は、三校(現在の京都大学)からコーチを招いて、中学会チームに雪辱を果たすという具合だった。

 明治42年(1909年)には、中学会出身者に有志を加えた高砂(たかさご)倶楽部が誕生する。台湾初の正式な野球チームだった。翌年には中学会主催の台北大会が開かれ、なかなかの盛会になった。その後、大学野球の経験者が次々に台北にやってきて、野球熱はいよいよ増していった。

 やがて、北部だけでチーム数が10を超えるようになり、大正3年(1914年)には北部野球協会が結成されたのである。これが台湾野球の本格的なスタートとなった。大正9年(1920年)には下村民政長官の主唱により、財団法人台湾野球協会が設立されている。

 台湾野球界は大正6年(1917年)に早稲田大学を、翌年には法政大学を招聘して試合を行った。南部の台南でも、明治43年(1910年)には台南郵便局有志と砲兵隊によって、最初のチームが作られている。

 サトウキビが採れる南部には、日本から製糖会社が多く進出して賑わっていた。大正2年(1913年)には、台湾製糖野球チームが誕生した。翌年には第1回南部大会が開催され、さらにその翌年には台湾新報主催による南北対抗戦も開かれている。

 当時、内地と呼ばれていた日本国内からも、次々に大学の野球チームが遠征試合にやってくるようになった。大正9年(11920年)には台北中学が、北部の港町・基隆に寄稿したアメリカ東洋艦隊の巡洋艦乗組員チームと対戦し、大観衆が押しかけた。

 さらに大正11年(1922年)には南部から、高雄実業チームが内地に初の遠征を行っている。ちょうどその頃、原住民族に運動的資質を見出した台湾人が、アミ族だけのチームを作っていた。

 それを、花蓮港の首長だった江口良三郎が知ったのである。江口は彼らを花蓮港農業補修学校に入学させ、「能高団」と命名した。ちなみに台湾では、先住民族と言うとすでにいなくなっているという印象を与えるということで、原住民族と呼んでいる。

 アミ族は、東部沿岸地域に住んでいる最大の狩猟民族である。「能高団」は大正14年(1925年)に、見学を兼ねた内地遠征を行った。結果は3勝4敗1引き分けで、内地の日本人を驚かせた。その能力の高さに着目した平安中学は、「能高団」メンバーのうち3人を留学生として招き、強豪校となって甲子園出場を果たした。

 そして大正11年(1922年)、台湾の民政長官から朝日新聞の重役に転身していた下村から、甲子園大会参加の誘いが来たのである。同じ外地でも、すでに朝鮮と満州は前年から参加していており、これで外地の代表が出揃うことになる。

 そこで台湾の中等野球界は参加を決め、翌年に全島予選会を開いた。その結果、記念すべき第1回代表は台北一中、かつての国語学校中等部となった。初めて出場した本大会では、立命館中学に23対4という大差で敗れた。しかしこれが、昭和6年(1931年)の準優勝につながっていくのである。

 実はその前年、日本人を驚かせる事件が起きた。日本統治に対して原住民族が武装蜂起した、霧社事件である。台湾統治はうまくいっていると思われていたし、原住民族主体の野球チームを、民族を超えて応援するようになっていたからである。

 しかも霧社事件は、台湾300年記念全島中等学校野球大会の開催中に起きたのだ。各方面への影響を恐れた総統府は直ちに制圧した。同時進行で起きた真逆の二つの出来事は、どちらも台湾統治の実情だったのだろう。

 その翌年、台湾代表になったのが嘉義農林である。高砂族(現在の高山族)、台湾本島人、日本人の三民族混成チームだった。正式名は台南州立嘉義農林学校で、野林業に携わる人材を育成するために設立された。現在は国立嘉義大学になっている。台湾ヒノキの日本への輸出は、製糖と並ぶ南部経済の柱になっていた。

 嘉義農林野球部は当初、鳴かず飛ばずだった。だが、松山商業の名投手だった近藤兵太郎が台湾に来て、嘉義商工学校の簿記担当となり、コーチを引き受けたことでがぜん力をつけていった。11校が参加する予選を勝ち抜いた嘉義農林は、海を渡って本大会に臨み、破竹の勢いで勝ち進んだ。

 日本人はこの時に初めて、台湾生まれの日本人少年を見た。その上、三民族混成だったのだからさらに驚いたのである。中京商業との決勝戦でこそ敗れたものの、嘉義農林の大善戦は日本中に旋風を巻き起こした。評論家や文化人たちも絶賛した。

 この快挙が台湾で、『KANO1931 海の向こうの甲子園』として映画化された。近藤兵太郎役を永瀬正敏が、南部で治水に貢献し、今も尊敬されている八田輿一を大沢たかおが演じた。

 準優勝時のメンバーのうち、全試合に登板した呉明捷(ご・めいしょう)投手はその後、早稲田大学に進学して4番打者として活躍し、生涯を日本で過ごした。日本の敗戦により日本国籍は消滅したが、再取得はせず、中華民国の国籍を維持したままで。

川西玲子

https://news.yahoo.co.jp/articles/190886440d431629823e2fa5b4149f9153ac8d13


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