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豪雨で古代のピラミッドが崩壊。地元メキシコの先住民は、「不吉な前兆」と警告

2024-08-26 | 先住民族関連

ARTnews 8/26(月) 7:03

豪雨により崩壊したメキシコ・イワッツィオのピラミッド。

メキシコ南西部イワッツィオにあるピラミッドは、ミチョアカン州北西部の先住民族である現在のプルヘペチャ族の祖先によって1100年以上前に建造された。高さ15メートル、正方形の巨大なピラミッドは、アステカの侵攻を避け、独自の帝国を築いたプルヘペチャ族の本拠地であり続けた。保存状態が非常に良く、塔や要塞、いくつかの墓を含む遺跡は、観光地として人々に親しまれていた。

だが、メキシコ国立人類学歴史研究所(INAH)の発表によると、7月29日の夜に起こった豪雨のために、ピラミッドの外壁、中心部、擁壁を含む少なくとも6カ所が崩壊したという。その原因についてINAHは、「この地域で記録された高温と、それに伴う干ばつが、古代の建物の内部へ雨水を浸透させる亀裂を引き起こした」と語った。幸いピラミッドには保険がかけられているため、修復にかかる資金面の心配はない。INAHは今後様々な専門家に協力を仰ぎながら、被害を受けた部分の修復だけでなく、建物の構造を徹底的に修復することに重点を置くという。

だが、この崩壊を危険なシグナルと捉えている人もいる。プルヘペチャ族の末裔であるタリアクイリ・アルバレスによれば、彼の祖先はイワツィオのピラミッドが崩れることが 「不吉な前兆 」であり、何らかの出来事が近づいていると解釈していたという。アルバレスは最近のフェイスブックの投稿で、メキシコに外国人征服者がやってくる前にもピラミッドの崩壊が起きており、それは神々が「不機嫌」になったためだと伝えられていると説明する。

気候変動による異常気象や海面上昇のために、現在多くの文化財が危機に瀕している。最近では、8月8日に1億9000万年前にできたユタ州の「ダブルアーチ」が水位の変化による浸食でで崩壊した。

https://news.yahoo.co.jp/articles/1cafb72195d80e4ce54876638a35d2939dd46238


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サハリンに廃墟として残る戦前の日本製紙工場 豊富な資源を目当てに設立、現在もその姿を残す

2024-08-26 | アイヌ民族関連

東洋経済 2024/08/25

1925年に完成、同年11月から操業した恵須取(ウグレゴルスク)の製紙工場。最盛期には1800人超の従業員がいた(写真・那部亜弓)© 東洋経済オンライン

1945年8月8日に旧ソ連が日本に宣戦布告。北方から破竹の勢いで日本領に攻め込んできた。その1つに樺太、サハリンがある。サハリンは1945年8月、太平洋戦争で最後の市街戦が行われたところでもある。

広大なサハリン島の北緯50度から以南は日本領で、約40万人の人口を擁し、日本企業も多く進出していた。中でも島内に存在する豊富な針葉樹に目を付けた製紙企業が進出。しかし、敗戦で施設はそのまま手つかずのまま現在もその姿をさらしている。フォトグラファーの那部亜弓氏は、そんな日本企業の工場だった廃墟を訪れ、シャッターを切った。(写真はすべて那部亜弓氏撮影)

天を仰ぐ煙突、摩耗した外壁。静謐な大地にどんと立ちはだかる巨大建築物。ここまでの広大な水平の土地に浮かぶ建物を初めて目にした。太平洋戦争前にサハリンの大地に日本が建設した夢の痕跡だ。

【写真で見る】恵須取工場跡地。ここまで下がるとフレームには必ず山や別の建物が入りがちなのだが、それがまったくない。こんな広大な水平の土地に浮かぶ建物は初めてだった

日本の領地拡大に興味を持ち、かつての樺太の地、サハリンにはいったいどんな遺構があるのか知りたくなった。

たった40年間の日本領

運よく州都のユジノサハリンスク直行便に搭乗できた。フライト時間は2時間10分程度。千歳からは1時間20分。日本から一番近いヨーロッパだ。2009年9月のことだった。

樺太はもともとアイヌをはじめ先住民族が住む土地で、その樺太の北緯50度より南、いわゆる南樺太が日本の領土になった時代があった。日露戦争終戦後の1905年から太平洋戦争が終わった1945年までの40年間だ。

樺太が日本の領土になると、多くの人が新天地を求めて次々と開拓の理想に燃えて活動していた。明治の終わりには約1万2000だった南樺太の人口は、1945年には40万人だったと言われている。

1945年8月9日に日ソ中立条約を一方的に無視してソ連軍が侵攻を開始し、わずか2週間あまりで樺太は占領された。樺太の地では、本当の戦争は8月以降に起きたのだ。

サハリンには製紙工場だけでなく、神社や建築物も数多く残っている。また韓国籍の方も多く存在している。樺太の開発において、多くの韓国人が、樺太に渡ったからだ。実際に今回の旅で、運転をしてくれた男性は在樺コリアンだった。

場所はロシアなのだが、日本の建築物があったり、韓国の方がキムチを販売していたりと、面白い土地だなぁと感じながら旅をしていた。

樺太の森林のほとんどは国有林で、森林資源確保のため1907年、森林調査を実施した。その結果、樺太の針葉樹林はパルプ生産に適していることがわかると内地の大企業の工場誘致を行い、1914年の大泊工場を皮切りに、各地に相次いでパルプ工場が建設された。

1933年には王子製紙、樺太工業、富士製紙の三大製紙工場が合併。南樺太には9つの製紙工場が誕生した。巨大化した王子製紙は「大王子」とよばれ、樺太のパルプは日本の供給量全体の80%を占めるようになった。

いずれは、シェアを樺太で100%にしようと目指していたようだ。巨大廃墟と日本の発展を突き詰めたら面白いのではないかと考えた。

資源よし、土地よし、人材よし

恵須取工場は大正14年(1925年)に完成、11月から操業している。従業員は1800人以上いたそうだ。西海岸では最北の工場だ。

9つの工場の中で、最もアクセスの悪い場所が恵須取町(現ウグレゴルスク)だった。旅費もとても上がる。時間も取られる。しかしそれでも外せなかったのには理由がある。

それは、①1940年では樺太最大の人口の産業都市だったこと、②古い資料によれば、樺太で最も生産能力が高い工場だったということ、③木釜(木を煮る機械)の数が他の工場より多いということで絶対規模が大きい工場だと確信したからだ。

ウグレゴルスクは西海岸なので、稼働している鉄道はない。砂利道と聞いていたので4WDの車をチャーターした。その結果、旅費が高騰した。

州都ユジノサハリンスク(旧豊原)からウグレゴルスクまで356キロメートル、だいたい東京から名古屋ぐらいの距離だ。

酔い止め薬を飲んで、移動する。道中に通った砂利道も日本が切り開いたとのことだ。そして、ソ連侵攻後に戦火から逃げる住民たちもここを通過したと感じ、胸が締め付けられた。

恵須取町は島内最大級の産出量を誇った大平炭鉱があった。製紙工場が建設されて以降、移住者が殺到するようになった工業都市だ。昭和16年(1941年)には人口3万9000を数え、樺太庁があった豊原を超えて樺太最大の町となった。

それだけ栄えていた町にもかかわらず、資料や情報が樺太内で最も残っていない謎あふれる町だ。樺太の中でも恵須取は、ソ連軍から早い段階で攻撃されているが、あまりに激しい戦火で消されたのではないだろうか。

到着し、初めて工場目にしたときまさに「兵どもが夢の跡」だと感じた。

当時まだネットに情報が少なく、現物を現地で目にした。まずは身動きできず畏敬の念で震え立ち尽くした。

勇気を出して、近づこうと足を踏み出す。雨と雪、そして海も近いので海風、これが時間の経過で摩耗した傷跡が錆びて風格を増している。

これまで日本国内でも製紙工場の廃墟に足を踏み入れたことはあったものの、廃墟というよりも古いプラントという感じで、 遺跡に近いのは初めて見た。

探索中に番犬6匹に襲われる、などのアクシデントがあったが、多くの痕跡を感じ取ることができた。

訪れたのは9月末だったが、緯度が高いため、体感的に12月の気温に相当する。着ていたジャケットでは肌寒かった。この日の夜、食事をしようと入店したレストランでは結婚式が行われており、街の人たちが集まっていた。

残留日本人と話す

その中に、日本人の男性を見かけたので、話しかけた。恵須取で幼少期を過ごし、戦後も日本には戻らず、ここで暮らしていらっしゃるようだ。

こちらの言葉は理解できるのだが、60年以上日本語から離れていたため、アウトプットはやはりロシア語だった。この地がロシアであること、64年の歳月を彼を通じて感じた。

東海岸の町マカロフ、日本名で知取町にも巨大工場が存在した。ユジノサハリンスクからは列車で向かうことはできるが、ウグレゴルスクの翌日だったため、引き続き車で向かった。

同じく北部にあるため、直線距離はそんなに遠くないのだが、道路の問題で行きに通った一本道をひたすら南下してぐるっと大回りしなければならなかった。

知取町は農林水産業の街だったが、1927年に富士製紙が後背地の森林資源と知取川を生かしてパルプ工場を建設すると、大きく発展した。

工場ができてから、人口が一気に急増する。豊富な森林資源を生かして製紙工場で発展して樺太の第3の街まで上り詰めた。

知取の製紙工場は樺太の製紙業界が全力を挙げて建設した工場で施設が本当に広大だった。大正13年(1924年)に建設が始まって昭和元年(1926年)に完成、翌昭和2年から操業を開始した。

工場構内に炭鉱の坑口があり、工場の大事な燃料である良質な石炭をその場で入手できた。 広大な施設に豊富な森林資源、鉄道もあり、知取川の支流から工場も近いので製紙づくりにはうってつけの地形だ。

内部を見渡すと、この工場の特徴はほかの工場より奥行きのある空間が多いと感じた。川から原材料である木材をいかだで運んでいた。

調木、パルプ生成、抄紙、仕上げという生産ラインが直線状に整理されていて、ほかの工場より圧倒的に効率的に進化していた。まさに、製紙工場ができるために誕生した町といっても過言ではない。

昭和2年から操業開始したということは、敗戦までの18年しか動いていなかったことになる。

とはいえ、この工場は戦後の製紙工場の発展において、重要なものだったと感じた。

残念ながら、こちらの工場は、煙突を残して取り壊されてしまった。

鉄道の便のよさと不凍港

最後にホルムスク、日本名で真岡という町だ。間宮海峡に面した、水産業が盛んな町だった。 ここもやはり製紙工場ができると急発展した町だ。

ホルムスクは港湾都市であり、市場も多く、今回訪問したサハリンの街の中では一番活気があった。1945年8月20日、終戦後にソ連軍の襲撃を受けて多くの日本人が犠牲になったところでもある。

そんな街に存在した真岡工場。1919年9月操業開始した。他の工場では、周りに何もなかったが、真岡は割とすぐのところに住宅地がある。

恵須取や知取工場のように水もきれいではないし、土地も広くなく、森林も多くない。資源には恵まれていない。

それでも工場ができたのは、鉄道の便と、なにより冬でも港が凍らない不凍港(ふとうこう)だからだという強みがあったようだ。工場の建設にあたって、配慮された点は、雪解けの水をダムに貯水して工場用に使ったという。

もともと真岡は木造の工場だったが、初代工場は大火災になって、のちにコンクリートに建て替えられたそうだ。

日本はこれだけの大きい夢を形に変えたのだが、敗戦したことで多くの人を巻き込み、インフラはすべて失うことになった。9つすべての工場は、敗戦後はソ連に接収された。

その後、ソ連が製紙工場を引き継いだが、製紙業界にはあまり投資されることもなく、発展には至らなかった。日本が残した技術も陳腐化し、廃墟になっていった。

あまり本や新聞を読む習慣が、日本より少ないからか。実際に、ユジノサハリンスクでも、本屋は見かけなかった。

廃墟の歴史をひもといていくとこのように日本の壮大な夢が隠されていた。かつての日本が樺太に残した東洋の夢の証しだと思う。わずか40年だが、その間に日本が残した爪痕は、今もサハリンの大地に点在している

https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/サハリンに廃墟として残る戦前の日本製紙工場-豊富な資源を目当てに設立-現在もその姿を残す/ar-AA1pnIuc?apiversion=v2&noservercache=1&domshim=1&renderwebcomponents=1&wcseo=1&batchservertelemetry=1&noservertelemetry=1


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アイヌ理解まず地域から 儀式や伝承に使命感 ラポロアイヌネイション 差間啓全さん~たうんトーク

2024-08-26 | アイヌ民族関連

十勝毎日新聞2024/08/25 13:02

 浦幌町のアイヌ団体「ラポロアイヌネイション」(会員14人)は、前身の浦幌アイヌ協会から長年会長を務めた差間正樹さんが2月に73歳で亡くなり、新たな体制でスタートを切った。今月17日には、正樹さん...

●この記事は会員限定です。

https://kachimai.jp/article/index.php?no=615483#google_vignette


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映画「ルックバック」好演の吉田美月喜「これ同じ人?」声優挑戦のきっかけは「鬼滅」人気声優

2024-08-26 | アイヌ民族関連

日刊スポーツ[2024年8月26日5時0分]

映画「ルックバック」公開記念舞台あいさつを行った吉田美月喜(2024年8月撮影)

<ニッカンスポーツ・コム/芸能番記者コラム>

この夏話題となった映画「ルックバック」(押山清高監督)で初声優を務めた女優の吉田美月喜(21)を取材する機会に恵まれた。記者側の1つ1つの問いかけに対し、熱を持って答えてくれる姿が印象的だった。

同作は、東北の田舎町に住む小学4年生の藤野(河合優実)と不登校の同級生京本(吉田)が漫画を通じて出会い成長していく青春物語。京本役はオーディションで勝ち取った。声優業に興味を持ったのは、コロナ禍でのアニメ鑑賞がきっかけになった。それまで、ほとんどアニメを見たことはなく「自粛期間にはやった『鬼滅の刃』を見て、アニメって面白いんだなって思いました」と日々に楽しみが生まれた。「そのあと『東京喰種トーキョーグール』を見たんですけど、両作品で主人公を演じている花江夏樹さんが作品によって全然ちがっていて」と、声のみで性格や年齢も異なるキャラクターを表現する声優の技術は衝撃だった。「これ同じ人がやっているの!? って驚いて。まずそこで声優に興味を持ったというのがありますね」。役者と声優。畑は違うが、同じ表現者として刺激を受けた。

以来、声優オーディションでは不合格を経験しながらも何度もトライ。同作の押山監督に「地声にひきこもりの要素がある」と見いだされ、今回の大役を得た。初のアフレコは「想像以上に難しかったです。自分が思う声を出そうと思っていると体が動いてしまったり、力んでしまったり」と回想する。役者業を軸とするからこそ、生きたこともある。「表情から声を想像するというのは演技と似ているというか、演技をやっていて分かるとことかなと感じました。(劇中の)絵から、私だったらこういう声をしているだろうな、京本ならこういう声を出しているかな、って想像できたのは生きたのかなと思います」と応用。経験値を重ねた。

役者としてはこれまでにTBS系「ドラゴン桜」など王道学園モノへ出演したほか、主演映画「カムイのうた」ではアイヌ文化伝承者の女性を演じるなど硬派な作品も経験。現在は「今後のために」とボイストレーニングで歌の練習を積んでいるという。

「ルックバック」は6月28日の公開から動員97万人、興行収入16億円を突破。国内外で高い評価を受けており、吉田にとってより弾みを付けるステップアップ。今以上に活動の幅を広げた姿を早く見てみたい。【望月千草】

◆吉田美月喜(よしだ・みづき)2003年(平15)3月10日生まれ、東京都出身。17年にスカウトされ、芸能界入り。19年映画「町田くんの世界」でスクリーンデビュー。20年日本テレビ系「シロでもクロでもない世界で、パンダは笑う。」で連ドラ初出演。24年TBS系「マイストロベリーフィルム」で地上波連ドラ初主演。ほか、21年TBS系「ドラゴン桜」23年映画「あつい胸さわぎ」で常盤貴子とダブル主演。同年映画「カムイのうた」でも主演を務めた。162センチ。

https://www.nikkansports.com/entertainment/news/202408200001366.html


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民主党と共和党の底流に流れる個人主義とアマチュア主義とは?大統領選を前に改めて学ぶ米国の二大政党

2024-08-26 | 先住民族関連

JBpress 8/26 山中 俊之

 イスラエルとハマスの対立はなぜ収束しないのか。ロシアのプーチン大統領はなぜウクライナを侵攻し続けるのか──。最新の世界情勢を読み解くには、地政学、宗教、歴史、民族、経済といった「公式」に、政党という「変数」を加えることが必要だ。

「政党を見るという“ミクロの目”を持つと、世界を見るという“マクロの目”も備えることができ、その国や地域の実情が寄り立体的に見える」と語る元外交官で著述家の山中俊之氏が語るアメリカの政党について。

※この記事は、『教養としての世界の政党』(かんき出版)より「アメリカ」部分を一部抜粋・編集したものです。

個人主義でアマチュア志向の米二大政党

 4年に一度の米国大統領選は日本でも大きなニュースとなり、なかでも注目されるのは、民主党・共和党それぞれの代表候補によるテレビ討論です。

 1960年に行われたケネディvs.ニクソンが、本格的にテレビ放映された討論としては第一回。国民がテレビの向こうで見守るなか各候補者が登場しますが、うつむきながら政策が書かれた原稿を読み上げるのではありません。

 経済政策や環境問題などのテーマについて自由討論したり、司会者からいきなり難しい話題を振られたり、会場に観客を入れて質問を募ったり。いくつかのパターンに対応するため、想定通りにはいかないのです。

不意に痛いところを突かれて感情的になってしまったら? 

「論破!」とばかりに、圧倒的に議論で打ち負かしたら?

思わず心を揺さぶる巧みさで、エピソードを絡めて政策を述べたら?

 政策や理念だけではなく、論理的思考力や対応力、コミュニケーション能力、人間性まで視聴者に丸見えですから、投票への影響は大きい。長い選挙活動で積み重ねてきたものがこのテレビ討論でひっくり返ることもあるくらいで、だからこそ政党も候補者も必死です。

 2024年6月のバイデンvs.トランプのテレビ討論では、バイデン氏が言葉に詰まるなど大きな不安を露呈しました。ニューヨーク・タイムズが同氏の大統領選撤退を提言するなど、大きな論争を巻き起こしました。

 私は「米国の選挙は、人気投票制度だ」と感じることがしばしばあります。政治経験がなくても「人気・知名度・お金」があり、言葉巧みにディベートを乗り切れば政治経験のない政治素人でも当選しうるためです。2016年のトランプ氏の当選がまさに証拠です。ただしその背後に、絶大な政党の影響力があるのも事実です。

米国の政党が持つ個人主義とアマチュア志向とは?

 連邦制の米国では州ごとに法律も異なりますが、外交における連邦政府の力は強大です。共和党と民主党の二大政党制であることはご存知の通り。4年ごとの大統領選挙で2つの政党が交代する可能性を作ることで、「政策の偏りや権力の集中を避ける」というのが、二党制の大まかな特徴です。

 2つの政党にはそれぞれの特徴があります。そして、他国の政党と比較して「米国の政党」自体にも特徴があります。批判を恐れずにあえて言えば、それは個人主義とアマチュア志向です。なぜ個人主義でアマチュア志向なのか、米国建国当初の政党の成り立ちから見ていきましょう。

「もっと信仰に忠実に、正しいプロテスタントとして生きたい」

関連するビデオ: 【動画】ハリス副大統領、大統領候補の指名受諾演説 米民主党大会 (日テレNEWS NNN)

 16世紀の英国で、こんなことを言い出したのはピューリタン(清教徒)たち。「なに青臭いこと言ってるんだよ。こっちが伝統ある正しい信仰だよ」と英国国教会から抑圧された彼らは、「自分たちの自由な国をつくる!」と、新天地を目指しました。これが言わずと知れた米国建国の始まりです。イギリスとの独立戦争を経てようやく建国の運びとなったとき、すぐに政党もできたかといえばさにあらず。

「我々は皆、ピューリタンとしての理想を求める自由な国を全員で目指している。ちまちまグループに分かれて徒党を組むなどけしからん!」

 カトリックはローマ教皇を頂点とする“教会経由”で神とつながりますが、プロテスタントは個人が聖書に基づく信仰を通じて“神と直通”というのが特徴です。英国国教会もプロテスタントですが、ピューリタンは言ってみれば“ゴリゴリのプロテスタント”。したがって米国は、それぞれが独立した信者という個人主義が強いのです。

 基本的に米国で政治家を目指す人は「個人として自分の考えを政治に反映させよう」というタイプ。個人主義で自由が大好きな考え方のピューリタンに、政党という“グループ活動”はある意味そぐわなかった面があると私は考えます。

 しかし全員がバラバラのまま理想に燃えていても、いや、燃えていればいるほど、収拾がつかなくなるのはよくある話。

 合衆国憲法が制定されて以来「大統領選挙は4年に一度」というのは変わりませんが、無所属なのは初代大統領ジョージ・ワシントンだけです。その後は「連邦政府の役割を重視する連邦党」「州の自治を重んじる民主共和党」などができていきます。

共和党と民主党、二大政党はこう生まれた

 この民主共和党が今日の2大政党の源流で、19世紀の初めにまずは今の民主党が、続いて19世紀半ばに反奴隷制を旗印に共和党が誕生します。

 民主党をつくったとも言われる第7代大統領のアンドリュー・ジャクソン(任期:1829~1837年)は、とにかく大衆に人気がありました。

「選挙権をいろんな人に広げよう!」

「連邦政府の中央集権は州の自治制が妨げられてよくない。国にコントロールされるんじゃなく、各州が自分のことは自分でやれるようにしよう」

「他の国と貿易をして、経済を発展させて強い国にしよう」

 こんな政策を次々に繰り出す彼を支持した“大衆”とは、“エリート”と対比した場合の大衆であり、そこにマイノリティや黒人、貧困層、女性は明確な形では含まれていませんでした。

「ゴーウエスト! 米国を西へ広げてでっかい国にしよう」というのは大衆に大歓迎されましたが、ジャクソン大統領は「……というわけで先住民はさっさと引っ越してね。えっ、先祖代々の聖なる土地だからイヤ? そんなのこっちは知らないもんね!」と、ネイティブアメリカンの強制移住を断行。絶望した先住民が居住区に向かうルートは「チェロキー涙の道」と呼ばれ多数の死者が出ました。ジャクソン大統領は自身も奴隷所有者であり、奴隷制にも賛成でした。

「みんなのための国をつくりたいけど、そもそも黒人は“みんな”じゃないよね?」

 今も昔も、“みんな”の定義はかなり主観的なもののようです。(続く)

山中俊之(やまなか・としゆき)

著述家/芸術文化観光専門職大学教授

 1968年兵庫県西宮市生まれ。東京大学法学部卒業後、1990年外務省入省。エジプト、イギリス、サウジアラビアへ赴任。対中東外交、地球環境問題などを担当する。首相通訳(アラビア語)や国連総会を経験。外務省を退職し、2000年、日本総合研究所入社。2009年、稲盛和夫氏よりイナモリフェローに選出され、アメリカ・CSIS(戦略国際問題研究所)にて、グローバルリーダーシップの研鑽を積む。

 2010年、企業・行政の経営幹部育成を目的としたグローバルダイナミクスを設立。累計で世界96カ国を訪問し、先端企業から貧民街・農村、博物館・美術館を徹底視察。ケンブリッジ大学大学院修士(開発学)。高野山大学大学院修士(仏教思想・比較宗教学)。ビジネス・ブレークスルー大学大学院MBA、大阪大学大学院国際公共政策博士。京都芸術大学学士。コウノトリで有名な兵庫県但馬の地を拠点に、自然との共生、多文化共生の視点からの新たな地球文明のあり方を思索している。五感を満たす風光明媚な街・香美町(兵庫県)観光大使。神戸情報大学院大学教授兼任。

 著書に『世界94カ国で学んだ元外交官が教える ビジネスエリートの必須教養 世界5大宗教入門』(ダイヤモンド社)。近著は『世界96カ国をまわった元外交官が教える 外国人にささる日本史12のツボ』(朝日新聞出版)。

https://www.msn.com/ja-jp/news/national/民主党と共和党の底流に流れる個人主義とアマチュア主義とは-大統領選を前に改めて学ぶ米国の二大政党/ar-AA1pps2B?ocid=BingNewsVerp


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客席と一体、にぎやかに締めくくる 富山・南砺市福野で「スキヤキ」最終日

2024-08-26 | アイヌ民族関連

webun+ 8/26(月) 7:30

 ワールドミュージックの祭典「スキヤキ・ミーツ・ザ・ワールド2024」最終日は25日、富山県の南砺市福野文化創造センターであり、多彩なアーティストが情感を込めた演奏や歌で聴衆を魅了した。

 日英両国で活動する「マユンキキ&サージ」は、アイヌ語の伝統的な歌唱法やリズムを基盤にしつつ、現代音楽の要素を取り入れた独自のスタイルで演奏。世界的に活躍するブラジル音楽「マラカトゥ」の指導者、メストレ・シャコンさんとの共演でも会場を沸かせた。

 東京を拠点に活動する「チョコパコチョコキンキン」は、電子音に各国の民族的な音楽要素を加えることで生み出されるエキゾチックな世界観を披露した。

 フィナーレを飾ったのはブラジルのシンガー・ソングライター「アナ・フランゴ・エレトリコ」。伝統的なブラジリアン・ブギーと、モダンなポップセンスが融合したきらびやかな楽曲を披露し、来場者の心をつかんだ。

 同センター前庭で来場者や出演者が一緒に演奏や踊りを楽しみ、にぎやかに締めくくった。27日には東京公演がある。スキヤキは北日本新聞社共催。

https://news.yahoo.co.jp/articles/14c269341b5737f356ebc16191ad66c4f10a05bd


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【難読河川名】関西在住者が選ぶ「地元民しか読めないと思う北海道の一級河川」ランキング! 2位は「渚滑川」、1位は?

2024-08-26 | アイヌ民族関連

ねとらb8/25(日) 15:10

ねとらぼではアンケートサイト「ボイスノート」の協力のもと、関西在住者を対象に「地元民しか読めないと思う北海道の一級河川はどれ?」というテーマでアンケートを実施しました。

【画像:ランキング12位~1位を見る】

 北海道の一級河川の名前の中で、関西地方に暮らす人から「地元民しか読めない」と思われていたのは、どの河川だったのでしょうか。さっそくランキングを上位から見ていきましょう!

●第2位:渚滑川 (しょこつがわ)

 第2位は「渚滑川 (しょこつがわ)」で、得票率は13.6%でした。紋別郡滝上町の天塩岳から紋別市へと流れ、オホーツク海へ注いでいる1級河川です。河川名は、アイヌ語で滝つぼを指す「ショ・コツ」に由来しています。

 そんな渚滑川は、スポーツフィッシングのメッカとして多くの釣り人から親しまれています。また下流部では、天然記念物のオジロワシやオオワシなどが確認されており、生物の貴重な生息環境となっています。

●第1位:後志利別川 (しりべしとしべつがわ)

 第1位は「後志利別川 (しりべしとしべつがわ)」で、得票率は47.3%でした。北海道瀬棚郡今金町の長万部岳付近から流れる、道南唯一の一級河川。アイヌ語由来の「利別(としべつ)」に、旧国名の「後志(しりべし)」を冠した名前です。

 国土交通省が公表している一級河川の水質現況では、「水質が最も良好な河川」に何度も選出された清流。流域には、北海道固有種のエゾサンショウウオが生息していることが確認されています。

https://news.yahoo.co.jp/articles/810de230d3cb1355db7753287b42a6a69fae301f


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MIT、「アファーマティブ・アクション」撤廃でアジア系入学生が増加

2024-08-26 | 先住民族関連

東亜日報 8/24(土) 

MIT、「アファーマティブ・アクション」撤廃でアジア系入学生が増加

米連邦最高裁が2023年6月、大学入試や公共機関の採用などで非白人系を優遇する「アファーマティブ・アクション(積極的差別是正措置)」は違憲だとの判決を下した後、初めて行われたマサチューセッツ工科大学(MIT)の入試で、黒人、ヒスパニック(ラテン)系の入学生が減り、アジア系の学生が増えたことが分かった。

21日、米紙ニューヨーク・タイムズなどによると、MITは同日、「2028年度の学部生募集でアジア系の学生がほぼ半分を占めた」と明らかにした。米国は入学年度ではなく、卒業予定年度を基準に学籍番号を表記する。米国の主要名門大学の中で、アファーマティブ・アクション廃止後、選抜された学生の人種構成を発表した学校はMITが初めてだ。

今年のMITの新入生のうち、黒人、ラテン系、先住民族、太平洋諸島出身の学生の割合は16%で、近年の平均(25%)に比べ9ポイント低下した。特に、昨年15%に達した黒人学生の割合は、今年5%に大幅に減少した。ラテン系学生の割合も16%から11%に減少した。

アジア系学生の割合は昨年40%から今年47%に7ポイント増加した。白人学生は37%で昨年(38%)とほぼ同じだった。

黒人人権運動が活発だった1960年代に導入されたアファーマティブ・アクションは、    「逆差別」論議を呼んだ。特に、主要人種の中で学業成績が最も優秀なアジア系は、「私たちも少数派なのに逆差別を受ける」と不満を訴えた。白人も不満が多く、アジア系と白人を中心に「公平な入学選考を求める学生たち(Students for Fair Admissions・SFFA)」という団体ができ、ハーバード大学などに対して訴訟を起こし、最高裁の違憲判決を導き出した。

ただ、米国の主要大学の人種多様性が失われつつあるという批判も提起されている。特に、MITのように科学と数学の分野で高いレベルの学力が必要な大学は、人種多様性が今後さらに弱まる可能性があると指摘されている。MITの入学担当責任者のスチュアート・シュミル氏は同紙に、「黒人とヒスパニック系の学生は、(ハイレベルの)微積分、物理学、コンピューターサイエンスなどを教える高校に通う可能性が低い。このような環境の学生に配慮する努力が必要だ」と話した。

https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/mit-アファーマティブ-アクション-撤廃でアジア系入学生が増加/ar-AA1ph5nf


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