夕刊三重新聞 8/24(土) 18:52
記念館など訪問 山本館長から話聞く
「蝦夷漫画」の説明を受ける人権委員の子供たち=小野江町の松浦武四郎記念館で
三重県多気郡多気町の多気中校区と勢和中校区の学校で人権委員会の委員などを務める小中学生たち約65人が23日午前9時25分ごろから、松阪市小野江町の松浦武四郎記念館などを訪れ、アイヌ民族に寄り添った北海道の名付け親・松浦武四郎(1818~88年)を通じて人権について学んだ。
この取り組みは、多気町人権教育推進委員会が毎年夏休みを利用して開催している。この日、子供たちは同記念館の他に武四郎生誕地も訪れ、最後に同館の山下命館長(48)から、武四郎を通じた人権講話を聞いた。
同館で子供たちは学芸員から武四郎の人となりや北海道の探検の様子、アイヌの人々との関わりなどの話を聞いた。武四郎は身長148センチと小柄ながらも、生涯を通じて日本中を旅し、北海道探検を28~41歳の間に6回行い、151冊の詳細な報告書を残した。68~70歳の時には、奈良県と三重県の県境にある標高1695.1メートルの大台ケ原を登り、70歳で富士山に登頂するなど、晩年に至るまでその行動力は衰えなかった。
また、アイヌの人々のありのままの姿を伝えたいと、彼らの生活の様子を説明を加えて記した「蝦夷(えぞ)漫画」(59年)、アイヌの人々を虐げる悪質な役人や商人の実名を挙げて、その非道などを訴える「近世蝦夷人物誌」(57~58年)を記し、幕府から出版が許可されなかったエピソードも紹介された。
山本館長の講話では、明治政府に起用された武四郎が「日本の北に暮らすアイヌの人々」という意味を込めた「北加伊(海)道」という名を提案し、地名に関しても、アイヌ語を基にした呼び名にすることを示したことなどが紹介された。山本館長は「文化や言葉の違いをきちんと理解する気持ちを持っていたのが武四郎。沖縄と隠岐の島以外を旅した経験から、高いコミュニケーション能力を有していた」とその人物像を語った。その上で、「『違い』を受け入れ、尊重することが、いじめや差別をなくすきっかけになる。皆さんもそれを意識してほしい」と結んだ。
参加した学校組合立多気中学校1年・久保莉杏來さんは「(武四郎が)1日にいっぱい歩いていたのが驚きだった」、同・竹川陽菜さんは「旅に出て、いろいろな場所を歩いているのがすごいと思った」とそれぞれ話した。
https://news.yahoo.co.jp/articles/6d17c24bd396e10b82ad80b5cd7023c45432448f