ニューズウィーク 2018年12月11日(火)16時03分

<インド領・アンダマン諸島の北センチネル島で、米国人宣教師が先住民に弓矢で殺害された事件から3週間余り。文明社会と隔絶された孤島に上陸を試みたジョン・アレン・チャウ氏(26)は、いわゆる「終末思想」に基づいて、センチネル族へキリスト教への改宗を説くつもりだったことが明らかになった。センチネル族は、世界に100以上あると言われる「未接触部族」の一つ。彼らをそっとしておくべきか、接触を試み続けるべきか。海外メディアで議論が続いている。>
弓矢の洗礼
11月17日、ベンガル湾に浮かぶ孤島、北センチネル島に、若き米国人宣教師、ジョン・アレン・チャウ氏が上陸を試み、殺害された。島の住民たちは、今も文明社会との接触を拒み続ける「未接触部族」で、これまでも島に近づいた取材班や漁師が殺害されている。住民は石器時代の狩猟採集生活を今も続けているとみられるが、近づくと弓矢や投石で攻撃してくるため、その文化はおろか正確な人口や言語も謎のままだ。
チャウ氏は、地元の漁師のモーターボートをチャーターし、11月15日に島の沖合500〜700m付近に停泊。そこから一人でカヌーで島に向かったが、弓矢の嵐の洗礼を受け、負傷して戻ってきた。翌日再チャレンジしたが、今度はカヌーを破壊されて泳いでボートに逃げ帰った。そして、17日に3度目のチャレンジ。やはり弓矢の攻撃を受け、浜までなんとか歩いたところで力尽きたという。
ボートで待っていた漁師が、センチネル族がチャウ氏の遺体を引きずっているのを目撃し、死亡が確認された。その後、地元警察が遺体の回収を試みているものの、難航を極めている。回収部隊がボートのエンジンを止め、弓矢の射程距離外から岸の様子を伺ったところ、「5、6人の部族民が弓矢を持ち、何かを守るように警戒しているのが見えた」(アンダマン・ニコバル地区警察署長)ため、警察もうかつに近寄れないのだという。
「黙示録」の終末思想に基づく行動か
北センチネル島は、第2次世界大戦後、インドの連邦直轄領になっている。1990年代半ばまでは、政府の交流プログラムのもと、当局や研究者による接触が試みられたが、その結果、アンダマン諸島の別の部族との接触などにより疫病や争いが発生。以後、インド政府は積極的な手出しをせずに島民独自の暮らしを保護する方針に転換し、1996年に交流プログラムを中止した。そして、今日まで事実上アンタッチャブルな自治領となっている。
上記の方針から、インドの法律で島から5キロ以内に近づくことは禁止されている。それにも関わらず、チャウ氏はなぜ上陸を試みたのか。英大衆紙デイリー・メールは、彼が所属する教団が信じる終末思想が背景にあるのではないか、と報じている。
チャウ氏は、米中西部・カンザスシティに本拠がある『オール・ネイションズ・ファミリー』というキリスト教団に所属している。この教団は、新約聖書の『ヨハネの黙示録』に基づく終末思想を重視している。その思想とは、世界の終わりに先立ち、イエス・キリストが復活(再臨)し、自らの教えを信じる者のみを天国に導くというものだ。同教団は、「オール・ネイションズ」を冠する名の通り、「全ての国々」の民に「急ピッチで」キリストの教えを広め、救済することを最大の任務としているという。
『オール・ネイションズ・ファミリー』のメアリー・ホー代表は、チャウ氏の死を悼みつつ、「神の言葉をUnreached(未踏の民)に届ければ、その時(キリストの再臨時)に、永遠の精神的な報酬が得られる」という主旨の文章をブログに投稿している。「オール・ネイションズ・ファミリー」が、チャウ氏の今回の行動を宗教的な意味合いで積極的に支持していたと解釈できる発言だ。チャウ氏の北センチネル島上陸の試みは、2016年、17年に続いて3度目だった。いわば最末端の"国"に自分たちの教義を布教することにより、「オール・ネイションズ=全ての国々」に布教するという宗教的任務が全うされると考えていたのかもしれない。
「不法侵入よりも大きな犯罪」
欧米メディアでは、これは「宗教的に計画された訪問」だとして、総じて批判的に報じている。批判の焦点となっているのは、そもそも、島への接近を禁止しているインドの法律を犯している点が一つ。そして、その目的が「見当違い」「完全な間違い」だという、「思想の押し付け」に対する批判だ。アメリカの著名キリスト教系ブロガーも、痛烈な批判を繰り広げた。
英ランカスター大学で人権問題などを研究するカロリーナ・フォリス氏は、「こうした世論から、先住民と彼らの権利に対する考え方が、この数十年で大きく変わったことが分かる」と述べている(豪オピニオン・サイト「The Conversation」)。同氏は、かつては、先住民にとって最良の選択は、支配的な社会と融合することによって近代化することだと考えられていたが、今は、彼らに自己決断と自治の権利を認める考えが広がっているとしている。2007年の「先住民族の権利に関する国連宣言」も、未接触部族が孤立して暮らす権利を支持している。
未接触部族に限って言えば、それは「放って置かれる権利」だとも言えると、フォリス氏は言う。つまり、文明人側は、いかに善意に基づいていたとしても、その部族が外界との接触を望まない限り、接触を避けるべきだという考え方だ。チャウ氏のアプローチに対する批判の根幹には、こうした人権意識がある。
しかし、フォリス氏は、使用言語すらも分からないセンチネル族が、本当に「放って置かれる」ことを望んでいるか、彼らの侵入者に対する態度だけで推測するのは危険だと述べている。彼らの真意を知るために、コミュニケーションを取る努力はするべきだというのが彼女の主張だ。
一方、インド政府の少数部族保護機関、国家指定部族委員会(NCST)のナンド・クマール・サイ委員長は、チャウ氏の行動は、「非論理的で無知だ」と批判した。同委員長は、「先住部族、しかも、どんな言葉を話し、どんな宗教を信じているのかも分からない部族を改宗させようとするのは、不法侵入よりも大きな犯罪だ」と辛辣だ(中国国際放送ネットワークCGTN)。
「犬のタブー」がある島
センチネル族のような未接触部族は、世界に100以上あると言われている。アマゾンの熱帯雨林も未接触部族が多い地域で、特にペルーのアマゾンには4500人・16グループほどが存在するという。文明社会と地続きのアマゾンでは、北センチネル島と違って完全に孤立を保つのは難しく、これよりもずっと多くの部族が文明人の攻撃を受けて滅ぼされたり、犯罪に巻き込まれたり、疫病の蔓延に苦しんできた。そうしたことから身を守るために、アマゾンで生き残った民の中には、孤立を積極的に望む部族が多いのだ。
翻って、日本にはあらためて調べるまでもなく、未接触部族は存在しない。島国で離島も多くあるとはいえ、近代文明が隅々まで行き渡っているのが我が国だ。だから、北センチネル島の事件など地理的条件以上に遠い世界の話だと感じられる。
ただし、筆者が知る限り、「犬」という特定の動物(家畜)の上陸を許さない島はある。宮城県・石巻沖に浮かぶ田代島だ。東日本大震災の震源地のすぐ近くでもあり、筆者は震災直前の2011年1月と、直後の同年5月に訪れている。
田代島は、約80人の人口よりも猫の数がずっと多く、猫神社もあるほど猫が大事にされている「猫の島」だ。近年は、猫がのびのびと暮らす様子を見に島を訪れる観光客が多い。一方で、この島には犬が一匹もいない。それも、島の歴史上、ずっとだ。田代島に向かうフェリーで犬連れの人に出会ったが、その人も「隣の網地島に行くんです。田代島は犬はダメなんですよ」と事もなげに言っていたものだ。
「放って置かれる権利」
こうした地域の因習的な問題は、観光地としての印象や地域住民の名誉などに関わる場合があり、なかなかデリケートだ。なぜ犬はダメなのか。ストレートに聞いてもはっきりとした答えは返ってこない。地元の人も、「昔からそうだから」としか言いようがないのだ。今と違う昔の価値観に基づいている場合が多いだろうから、当たり前のことではある。そう思って、田代島の「犬のタブー」も深追いはしなかった。
古くは、民俗学者の柳田國男が田代島を題材にした随筆の中で、この問題にやはり遠慮がちに触れている。「自分の推測では犬を寄せ付けなかつた最初の理由は、島を葬地とする慣習があつたからだらうと思ふ。以前の葬法は柩を地上に置いて、亡骸の自然に消えて行くのを待つたものらしく、従って獣類の之に近寄ることを防いだ形跡は、色々と残っている」(柳田國男『猫の島』昭和14年)
柳田は、「あくまで推測である」と断りを入れて風葬の風習と犬のタブーとの関わりを示唆しつつ、こうも書いている。「そんな陰気な話はもう忘れた方がよいのだから、是以上に詳しくは説いて見ようと思はない」。日本の離島や山間地に残る風習にも、「放って置かれる権利」があるのではないだろうか。
https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2018/12/post-11398.php