かぶれの世界(新)

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介護録09秋(3)

2009-10-20 23:42:17 | 健康・病気

昨日から母はリハビリを開始した。看護婦さんの補助で初めて風呂に入れてもらい、心なしか顔色が良くなった。髪をとかしてやると容貌も変わった。だが、体の右側は依然不自由で一人でベッドから起き上がれず、車椅子で押してもらわないと動けない。

しかし、食欲だけは入院前と変わらず極めて旺盛だ。昼食が運ばれてくると必死で起きようとし、私が手を貸して起こすのを催促し、液状の食事をパジャマの上にボトボト落としながら一気に食べた。看護婦さんはこれだけ食欲があれば、体力の回復が早まると職業的な慰めを言ってくれた。

その前日には、電話連絡した叔父さんと叔母さんが見舞いに来て、果物を山ほどおいていってくれた。看護婦さんに言われて全部持ち帰ったが、私もとても食べきれない。その夜御礼の電話をした時、叔母さんによれば、母は殆ど口を利かなかったらしい。子供の時から母の性格を熟知する彼女は、母は施設の生活は絶対無理と念押しした。私もそう思うが、果たして選択可能か。

母が倒れて急遽田舎に戻り初めはバタバタしたが、先生から治療の方針を聞き、ケアマネージャやヘルパーさんに連絡して意見を聞き、先々の介護の現実的選択肢が見えてきた。母の容態が安定した4日目頃から、次第に新しい環境での田舎生活がルーチン化し、私自身も落ち着いてきた。

6時半ば目が覚めラジオニュースを聞き、7時半頃起床して血圧測定。東京にいた頃と同じヨーグルトに果物、牛乳の食事をし、約30分散歩。帰宅後東屋でコーヒーにクッキーを食べながら新聞をチェックすると9時過ぎ。今週はMLBのプレイオフ中継を暫く見て、書斎に上がりパソコンでメール・ニュース速報・マーケット動向と投資物件チェック。

10時半頃車で病院に向かう。病院は市の反対側にあり、高速道路2区間が無料のバイパスで約10m15分の距離。病室で母と話し、看護婦さんに様子を聞き、洗濯物を持ち帰る。必要なときは近くのドラッグストアで紙おむつの買い足しをする。オムツが意外に直ぐ無くなるので驚き。

家に帰ると洗濯機を回し、大急ぎで食事を作り昼食。洗濯物を干し、360度フットワーク練習後に散歩に出かけ、戻ってきて小一時間テレビでニュースをチェックすると3時過ぎ。再び書斎で本を読みメールチェックをし、洗濯物を取り入れると5時過ぎ。

夕食を作り食べ終わると直ぐ散歩、戻ると風呂に入り洗い物を終らせ、テレビを1-2時間見て書斎に戻りネットサーフィン・読書・ブログ記事投稿など、最後にNY市場をチェックして深夜ニュースを聞きながら1日が終る。こんな風に毎日多少のバリエーションで空き時間を埋めながら、生活が習慣化されリズムが出てきた。

生活が習慣化すると、頭を使わなくても良い時間が増えるせいか平穏な気持ちになれる。しかし、それは今日明日のこと、この後母がどれほど回復するかで介護生活が大きく変わる。先の見通しが不透明だと不安になる。仕事の経験ではこういう時は、最良・最悪・その中間の仮説と対応を具体的に作成し、対応を考えるべきか。■

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やりたいことなくなった?

2009-10-18 16:59:04 | 日記・エッセイ・コラム

加藤和彦氏が「やりたいことなくなった」といって自殺したと報じるニュースを聞いて、とても複雑な気持ちになった。彼は若くして成功したのでずっと年上だと思っていたが、ニュースを見て同い年と気が付いた。自分に重ね合わせて考えない訳にはいかない。

複雑なのは、私はこの数ヶ月「やりたいことなくなった」と言えるかどうか自問自答してきたからだ。それは今年の夏、長男が結婚することになり、養老院に入所している義母に新郎新婦を紹介した時以来問いかけてきたことだ。

というのは、ベッドの義母は長男夫婦が来てくれた事に礼を言った後、もう「やりたいことを全てやった」と言った。私は最初耳を疑った。家内も初めて聞いたと後から言った。小説以外でそんな劇的な言葉を生で聞くのは初めてだった。

もちろん、加藤氏の「やりたいことなくなった」と、義母の「やりたいことをやった」というのはややニュアンスが異なる。前者には悲しみが、後者には喜びの意味が込められているように感じる。しかし、両者とも脳梗塞で倒れ入院した母が示す「生に対する執着」のような生々しさを感じない。

私もやりたいことはやってきた積りだが、果たして義母と同じことを言えるか自問自答してきた。若い頃やりたいと思ったことはやった気がするが、それで満足かというと必ずしもそうではない。この年になって新しいことに興味が湧き、やってみたいと思うからだ。

私も「やりたいことなくなった」心境になったら、加藤氏が自殺した気持ちが分かるかもしれない。だが、加藤氏は余りにも高みに立った為、ささやかな興味や楽しみではいけなかったと想像する。幸いかな、私はそれ程真面目ではなく、いい加減に生きてきた。

見上げる高みはないから今が低いとも思わず、第一まだ色気が残っている。孫の顔を見てみたいし、美人とすれ違えば振り向く。それがなくなった時?それはその時考える。■

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ダウ平均大台回復の意味

2009-10-16 23:29:05 | 社会・経済

昨日早朝に登録したネット・メディアの全てから、ダウ平均が10,000ドルを回復したとニュース速報が入っていた。昨年9月のリーマンショックから今年の3月頃まで底なし沼のように思われた株式市場がこれほど早く回復するとは誰も予想しなかったのではないだろうか。世界の政府・金融当局は世界を1929年以来の大恐慌の淵から救ったといっても言い過ぎではないと私は思う。

だが、この意味するところをよく理解してないと、政府は政策を誤り、個人投資家は誤った投資をする恐れがある。そういう微妙な時期だというのが私の正直な印象だ。私の仮説は、今月初めの「2009年大胆占い3Q見直し」で既に紹介した。これをもう少し膨らませて議論したい。

ちょっと捻って語呂合わせで言うと、昨日のダウジョーンズ平均株価の10,000ドル台回復は「二つの過剰」に支えられている。普通に考えればそれは「過剰流動性」と「企業の構造改革による利益体質への転換」だが、政府や家計に比べ企業の適応の早さが二つ目の過剰だと目に映る。

二つの過剰

最初の過剰は予想された周知のことだ。世界中の政府の景気対策による金融緩和で、世界は異常な金余り状況になった。しかも、二番底を恐れて各国政府は金融緩和を継続する見込みだ。結果としてグローバルマネーはリスク許容度を高め、安全な逃避先から出て原油価格や株価相場を上昇させた。主要金融機関の保有資産の現金比率の低下がこの動きを明確に裏付けている。

もう一つの過剰は、私の思い込み仮説であり、「企業の過剰適応とそれについていけない政府と家計」だ。上記の「・・・3Q見直し」でも述べたが米国企業は消費態度の変化による消費水準の低下を新たな常態とみなして、それに合わせ徹底リストラを実行しリソースを新興国に集中した。

本日の日本経済新聞によると、早くもその成果が出てダウ平均10,000ドル回復の背景として米国主要500社の売り上げは2%増だが、利益は15%増と報じている。昨年までの消費水準に戻ることはない、今が「新しい常識」になった、その中で米国企業は早くもこのパラダイム変換にフィットして利益体質に戻ったと報じている。もしかしたら彼らはもう不景気とは思っていないかもしれない。

新パラダイムに追いつけない政治と家計

私は日本でも現状を所与の変化と受け入れ、昨年までと比べ景気が悪いとか収入が減ったとか考えるより、現状にあった政策や家計の構造改革、つまり収入にあった生活に転換をすべきだと考える。米国だけではなく日本でもそういう転換を遂げた企業が既に業績を伸ばしている。

私が過剰だと思うのは、企業の適応は国内市場から海外新興国への転換が、生き残りの為の時間との戦いとなり、短期間かつ徹底して行われたことだ。結果として多数の失業の痛みが生じたことである。相場が上昇し、市場が回復、企業業績が回復しても、雇用は悪化し続けている。競争がある限りこれは避けられない過剰だったと私は思うが。

どうも体質的に、企業に比べ政府や家計は自らを変えるという点では一歩遅れる。だが、自らを変えない限り新しいパラダイムで生きていくことは出来ない。実体経済と株価の乖離は問題だが、実体経済をかつての水準に戻そうとする政策は無意味で無力だ。ダウ平均大台回復の記念すべき日に、他人事ではなく我々自身も従来発想を越えた変化をして成果を共有すべきと感じた。■

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介護録09秋(2)

2009-10-15 23:07:51 | 健康・病気

覚悟した通り脳梗塞だった。昨日夕方、MRIの写真を見ながらの担当医の説明は明快で納得出来るものだった。CTスキャンで見つけた黒い影をMRIで更に詳しく見るという手順で、白い影のある部分とやや不自由だという体の右側が対応することから脳梗塞と判断したという。高血糖による動脈硬化が大元の原因らしい。

先生はこの程度の脳梗塞では熱は出ないのに微熱が続く原因として、右肺に胸水が溜まり肺炎にかかっていると別の写真を見せてくれた。これも脳梗塞の結果、誤嚥肺が起こった為で、母はお茶を飲むとむせていた。専門用語でいうとCRPが通常1.9のところ8.54になっていたという。

分かり易くいうと脳梗塞で消化器系が適切に機能しなくなり、飲み込みが上手く出来なくなった。これが直らないとチューブで流し込むことになると説明を受け、驚き困ったなと思った。しかし、今朝病院を訪れた時はお粥を完食したというから、最悪事態は避けられそうだと希望が持てた。

今後は3段階の治療になる。(1)点滴を主体とした治療、(2)肺炎を治したら、(3)リハビリを始める。治療期間は2-4週間になる見込みとのこと。治療してもそれ以上良くならなくなると、次の段階として介護になるが、自宅介護は難しいのではないかというのが先生の見方だった。

となると受け入れ先となる施設を探すことになるが、これが結構時間がかかるらしい。要介護レベルが現在のまま(レベル1)では受け入れが限られており、早めに介護レベル見直し申請すべきとケアマネージャに報告した時助言を受けた。

だが、母は実家の家に尋常ならざる愛着を持っており、自宅介護の可能性も諦めず研究してみたいと考えている。それもこれも母がリハビリを終った時どこまで回復しているかによる。

先の心配もさることながら、当座やらなければならないことが他にもあると、先生の説明が終わると看護婦さんから指摘された。入院している間も母の下着の洗濯、オムツの買い足し、身の回り用品一式を揃える等など。性差はないはずだが、言い訳すると男はこういうことに気が付かない。ずっと田舎にいる訳にもいかないので、家政婦を雇うとか考えないといけない。

とりあえず教えてもらった物を揃え、ついでに玄関の造花を一鉢とラジオ等を持って病院に行った。母には肺炎とだけ説明した。一昨日は無表情だったが、今朝は多少会話が成立し手のむくみが少なくなっていた。意欲が全くないと思っていたが、母は数日内に退院する積りだったようで、まだ気力が残っているように感じた。

大体のことが分かったので、叔父さんと叔母さん(母の兄弟)に母の入院を伝えた。彼らも夫々に年をとり病弱なので少し迷ったが、実の姉が脳梗塞で入院となれば伝えない訳にはいかない。叔母さんは私の健康が一番心配、頑張らないようにと言ってくれた。その積りだ。■

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介護録09秋(1)

2009-10-14 15:59:17 | 健康・病気

一昨日朝9時過ぎにケアマネージャから電話が入った。実家の玄関の鍵がかかっており返事がないので、ヘルパーさんが勝手口から入るとベッドサイドに母が倒れており、緊急で様子を見に来たという。母の意識はあるが、目の周りが内出血、脈が乱れており、至急入院させるべきと私の確認を求めるものであった。もちろん、即了解した。

その日は朝食後ずっとメジャーリーグ野球の中継を見ていたので、いつものネットカメラでの母の監視をまだしてなかった。今月に入り、居間で終日横になっていることが多くなり気になってはいたが、それでも予想外の突然の展開に驚いた。

急いでパソコンを立ち上げネットカメラを覗くと、ヘルパーさんとケアマネージャが行ったり来たりしており、暫くするとヘルメットに白衣の救急隊の方が来られ担架代わりの大きな布に母を乗せて運び出していく姿が見えた。3人の救急隊もかなり年配の方だったのが妙に印象に残った。

その後、ヘルパーさんは2時間くらいかけて家の中を清掃、整理していく姿がカメラに映った。その後、入院後母が当座必要なものを持って行って頂いた様で、本当に助かった。

午後になり、病院に付き添って行って頂いたケアマネージャから再度連絡頂いた。CTスキャンをしたが脳に異常は見つからなかった、熱が7.2度あり血圧がやや高い。しかし、症状は安定しており、今すぐ大事になるということはない、と。一安心した。

入院の手続きはしたが連帯保証人などの手続きは家族でやってくれ、といわれケアマネージャにそうそう甘えるわけにも行かないと思った。当座の対応を遺漏なくやってもらうと、ついついその先まで頼りたくなった自分に気が付いた。

直ぐにフライトを予約して、昨日朝2番目のフライトで松山空港に降りた。東京より暖かで南国に来たと思った。最短時間でバスに乗り実家に戻った。車のバッテリーを接続して正常動作を確認、事前に用意してもらっていた書類に記入して、家内が用意してくれた土産と手直にあった姪の写真を持って病院に向かった。

母は個室を希望したそうで、部屋に入った時は丁度点滴の針を刺してもらっていた。私の顔を見ても無表情で、微かに顔をゆがめただけだった。母の手足が異常にむくんでいた。後でヘルパーさんに確認すると、点滴を始めると液が漏れてむくむことがあると教えてくれた。

目の周りに内出血したような後が見え、母に「こけたのか」と聞いたが殆ど反応がなかった。欲しいものはないかと聞くと、聞き取れない声で何もいらないと返事。前回入院したときの母を世話してくれた看護婦さんは、今回は母の意欲を感じられないと私と同じ印象を語った。

その後直ぐに検査のため部屋を出て行った。自分では起き上がれず看護婦さんに支えられて車椅子に乗って行った。MRI検査という。前日のCTスキャン検査で古い脳梗塞の跡が見つかったらしいが、母の右半身がやや不自由な感じなので、更に検査するということなのか。予定以上に時間がかかり、担当の先生の話を聞けるのは検査後なので帰宅することにした。

母の様子から長丁場になりそうなので、こちらで生活する準備のため一旦実家に戻った。ヘルパーさんが綺麗に片付けてくれて、余分な食料やごみなどを処分してくれていた。買い物に出かけ食料の仕入れ、衣類や寝具などを用意した。スーパーで配食サービスの担当の方に偶然会い、ケアマネージャからサービス中止の連絡が入っていたと分かった。

今朝起きると薄着だと肌寒い、昨日の印象と違ってこちらも東京と同じ秋だった。習慣になっている散歩から戻ってくると近所の人に会うたびに母の様子を聞かれた。母が救急車で運ばれ入院したことを皆知っていた。

隣のオバサンによれば、倒れる前の日庭に立って遠くを見ている母を見て、元気そうだと思ったそうだ。二日連続の脳の検査と、前日までいつも通りに元気だったということを対比させ、素人考えで脳梗塞の疑いありという事なのか思った。いずれにしろ、これから先生の話を聞きに行く。■

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