かぶれの世界(新)

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台風一過

2011-09-21 18:05:30 | 日記・エッセイ・コラム

日松山に母を見舞い昼食を済ませ実家に戻る頃から雨足が強くなったが、台風が近づいているという実感はなかった。四国沖に停滞していた台風15号が、室戸岬から方向を変え徐々に速度を上げて紀伊半島から更に東に向かって動き出したという。

簡単な夕食を済ませた頃から雨音が強くなり、有線放送が流れたがよく聞えない。どうも大雨を注意する放送だったようだ。実際近くの地域に避難勧告が出たようだったが、私の実家が対象になるはずはないと高をくくって、何もする気にならずテレビを見て過ごした。

夜が更けて隣の地域に避難勧告が出たと知らせるテロップを見ても他人事だった。安売りのチューハイを一缶飲むと、最近の節酒のお陰かいつもより早く一気に酔いが回った。雨音は何時になく激しかったが、11時過ぎにはベッドに就いた。環境が変わっただけで何をした訳でもないのに疲れを感じた。最近、こういう時直ぐ歳のせいにする。

朝7時半頃ベッドを抜けて窓から見る景色に異常はなかった。雨は殆ど上がっていた。だが、朝食をとりながらテレビを見ると、肱川が氾濫して深夜に1万人以上に避難勧告が出て、実際床上浸水があり、広範に冠水したという。予讃線や高速道路も止まったらしい。

昼前に雨が止み家を出て、約500m先を流れる肱川支流の矢落川の様子を見に行った。途中知り合いのオバサンに会い暫く滞在すると挨拶した。彼女は朝6時頃には道路の冠水がここまで来たと、石垣に残った泥水の跡を指差しながら言った。

泥の喫水線(!)を見てやっと自分のこととして考えられるようになった。そこに立って初めて周りが全て泥水で、水位が上がって来る景色が想像できた。谷間にある集落の一番高いところが私の実家で、彼女の家は4軒下にあり5-10mの高低差があるだけなのだ。

30-40年前くらいだったか堤防が強化される前は、この辺は毎年のように氾濫していた。祖母の記憶にある限り昭和18年に実家の1軒下まで水が来たことがあるそうだ。オバサンは「あんたとこはいいね、水がこんで」と言うと、私は「その代わり土砂崩れが来るから」と笑って答えた。

道を渡って堤防に近づくと、近辺の田んぼの稲が全て荒々しく倒れていた。我が家の田んぼも例外ではなかった(他の農家に稲作を依頼してある)。2軒下のオバサンに帰りに出会い、聞くと収穫はできるらしい。機械で穫り入れ出来るのか、見掛けや味はどうかと気になる。

支流の堤防に立つと泥水が荒々しく流れていた。既に水量は減っていたが、堤防の斜面に残った泥水の跡は通常より3m程度は高かった。実家のある谷間から流れる小川との合流点の水門は開いていた。早朝冠水した時、水門は開いていて逆流してきたのだろうか。

戻って昼食を作っていると安否を尋ねる家内のメールが来た。肱川が氾濫したというニュースを見て驚いたらしい。当地が全国ニュースになったのは、数年前全国一の高温を記録した日以来だと思う。昼食を終えた後、今度は末の息子が心配して電話してきた。彼もニュースを見たという。

台風は浜松に上陸したらしい。今頃は東京が嵐に襲われているはずだ。台風一過というが、今日は秋の爽やかな日にはならなかった。朝起きると湿度100%の一夜で、台所の生ゴミに凄いカビが生えていた。午後になってもずっと低い雲が垂れ込み、急に気温が下がって冷え冷えした日になった。■

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