月曜日に昼飯を食う約束の友人から昨日メールが来た。急用で台湾に行って来る、月曜日までには戻るから、昼飯は予定通り食べよう、という内容だった。朝トラブルの第一報が入り対応していたが、一向に埒が明かないので現地で立会い処理することにしたのだという。
サラリーマンならこう早くは行かない、さすがオーナー経営者は違うと思った。だが、実はサラリーマンの私にも似た経験を何度もした。違うのは、私の場合は自主的ではなく行かされていた。それは突然というだけでなく用事を済ませて直ぐ帰る、今の言葉で言えば弾丸出張だった。
80年代後半から海外関係の業務を担当した私は、毎月のように米国出張するようになった。行き先は東海岸のボストンと西海岸のシリコンバレーが多かった。最初頃は数人のチームで旅行し、旅慣れたメンバーが宿や足の面倒を見てくれ、会議のアレンジも誰かがしてくれた。
だが慣れてくるうちに定期的な会合だけでなく、突発的な単独渡航か、多くても二人で出張するようになった。金曜の午前上司に呼び出されて明日の会議に代理で出てくれ、チケットは準備させてある、月曜日に結果を聞かせてくれという無茶な命令をたびたび受けた。特に40過ぎの私に厳しかったのが西海岸への1泊3日の旅だ。
社内の旅行エージェントで手続きをし、打ち合わせ資料を持って自宅に帰って下着など簡単な準備を済ませ、成田に向かった。この頃は海外出張といっても通勤カバンに毛が生えた程度の小さなバッグだった。荷物を預けたりすると手続きに時間がかかりすぎる。
金曜日の夕方のフライトに乗り寝る間もなく資料を読み、土曜日の早朝サンフランシスコに到着した。レンタカーを借りて101を南下し予約したホテルにアーリーチェックイン、日本から送られて来たファックスを受取り、昼飯を済ませ取引先に向かい会議や交渉した。
会議を始めて3時前後からいつも猛烈な睡魔に襲われたが、たった一人なので絶対に眠れない。通常5時前には打ち合わせを終り夜はディナー、日本と同じ仕事の延長で重要な情報がここで出てくるから油断できなかった。この頃は睡魔を通り越して疲れでフラフラ。当時の米国人は意外にも日本式の接待に慣れていた。この頃、日本企業は最大の顧客だった。
ホテルに戻ると疲れているはずなのに時差ぼけで眠れずベッドで悶々と過ごした。恥かしながらホテルのエロビデオを良く見た。翌日曜朝食を済ませ11時前後の日本行きフライトに乗った。結論が出てない時は空港の会議室を取って会議を続けたこともあった。当時残業等しないという噂の米国人も土日仕事をした。西海岸の企業家達はクレージーといわれるほど働いていたと思う。
帰りの飛行機の中で日本封切前の映画視聴が無料だった。見たかったが、先ずレポートを書いた。当時はアルコールや化粧品の内外価格差が大きく、弾丸出張のお土産は機内調達した。アルコール好きの家内は私には強過ぎるワイルドターキーやハーパーとかを渡すとご機嫌だった。
自宅に帰り風呂を浴びて家内の手料理を食べると妙に懐かしく感じた。その夜は爆睡した。翌日、朝一で上司に出張報告すると嵐が過ぎ去ったように一仕事終わった気になった。時々、何でこんなつまんない事の為に出張したんだと叱られた。サラリーマンはつらい。だが、金曜日からの案件が溜まっており、午後は海外出張など無かったように部下の報告を聞き仕事に集中した。
こんな無茶な日程の出張は長く続けられない。弾丸出張をやったのは長くとも5年間位だったと思う。その後はもっとゆったりした日程で海外出張したと思う。それでも当時は「こんな日程、やってられない」とは思わなかった。出来るのは限られた人だけと意気に感じていたかもしれない。
香港に行った友人はまだ若い、しかもオーナー経営者だ。サラリーマンだった私みたいに「やらされてる感」はないようだ。自分で考え、自分で決めたのだと思う。そこに違いを感じ、凄いなーと感心した。友人が突如海外出張に向かったのを見て、昔の私を思い出した。今の私にはとても出来ない。■