義 |
母の容態が悪化しもう長くはないかもしれないと田舎から家内に電話があった。いざという時に備えておけというアラームだろう。彼女が寝たきりになり入院した時想像したよりずっと長生きしてきたと思うが、そろそろ寿命が来たのかもしれない。
昨年見舞った時も彼女は意識がしっかりしており現実を受け入れていたと思う。だが、私の母は入院に対し激しい抵抗を示した。自分の病状はそれ程悪くない、家に戻ってやることが山ほどあると。無理やり施設に入居させた私を、それ以降母は受け入れてくれなくなった。
実母は子供たちから遠く離れた田舎で住み、この数年で体の劣化より精神の劣化が先行して、最後まで自分の希望が叶わない不幸な晩年を過すことになりそうで不憫でしょうがない。同時に、死に場所を自由に選べないのは多分母だけじゃないとも感じるが。
体が弱っていき人生の終末をどこで迎えるか、自分の死に場所を自ら決められる人は意外と少ないと思う。もっと広く考えると死に方の選択だ。母が元気な時に聞ければ少しでも希望に応えたいと努力したかもしれない。だが、母親に聞ける話ではないし、思いつかなかった。
昨年11月初め頃だったと思うが、CNNの興味ある記事をまだ記憶している。年に一度家族が集まる時期に(米国の場合は感謝祭で日本だと盆か正月だろう)、万が一死に至る病気になった時どうしたいか、元気なうちに話し合うことを勧める内容だった。
治 |
療を全て尽くした後延命治療をして欲しいのか、痛み止めはするにしても治療を中止して自然に死んでいく道(ホスピス)を選ぶか、それは病院か若しくは自宅がいいのか。予め話し合っておけば、万が一の時残された人達は希望に沿うよう努力してくれ、より幸せな最後を迎えられるといった内容だったと記憶している。
そうすれば残された人にとっても気が休まる。私は母とそんな話をしなかった。思い出せばそうすべき時はあったが、私は鈍感だった。自宅介護から始めて老人ホーム入居まで母に良かれと思って今までやってきたが、それは彼女が望んでいたことではないと思い時折辛い気持ちになった。
何時かはわからないが母の葬式は実家のある土地の習慣に従う積りだ。葬式が普通に出来るくらいの生命保険に加入している。それ程特別なことをして欲しいと願っていないと思う。我家は男が早死にする家系、二代続けて母親が息子の葬式をした家系だ。息子が母の葬式をどうするか考えるのは明治以降初めてのことになるだろう。
それじゃ私の死に場所と葬儀はどうして欲しいか、次に家族が集まる時までに考えておこう。今のところこう考える。運よく正気でいて迷惑をかけないなら自宅で家族に囲まれて死にたい。チューブだらけの延命治療は不要。死に方は私の問題、葬式は残された人の問題だ。 最後に死んだら家族葬で済ませ、残された家族は休暇をとって私の住んだ田舎や米国の家を旅行して私を感じて欲しい。骨は実家のお墓と旅先で撒いて欲しい。旅行の費用は生命保険で十分足りる、豪華なホテルに泊まり美味しいものを食べてゆっくりやって欲しい。■