かぶれの世界(新)

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非・最良執行方針を質す

2008-12-08 22:16:36 | ニュース

破産寸前の瀬戸際に追い詰められた米国の三大自動車メーカーの救済がほぼ決定したようだ。それは本格的なものではなく、来年3月までの「つなぎのつなぎ」というものだ。倒産の影響の大きさを考えれば救済以外の選択は無いのだが、民主主義プロセスは時に手間隙を掛けないと正解に届かない。時には過ちを犯し、後戻りを強いられる。

しかし、プロセスを信じていつかは正解に達すると信じる人々は、それでも希望が持てる。勿論、何事も完全ではありえない。プロセス自体を間断なくより良きものにしていくプロセスがシステムの中に組み込まれていないと、いつかシステムが信頼を失うことになる。

回りくどい能書きで始めましたが、裁判員制度の報道について一言私見を申し上げたい。

大雑把に言えば、今までの報道は一般人が裁判員になることの是非という視点で報じられている。重大事件に判決を下す準備が出来ていない、死刑判決に関わるのは耐えられない、一次産業に携わる人達には代替がない等々、の声を伝えるところに重点を置いている。

何故メディアはそういう人たちのマイナスの声ばかり取り上げるのか、私には理解出来ない。一体貴方たちは裁判員制度をどう考えているのか、反対なのか、止めさせようとしているのか、と考えてしまう。

裁判員制度は民主主義の基本的な権利

裁判員制度は民主主義の根幹を支える基本となる制度である、と私は信じる。これは国家の基礎をなす三権、司法・立法・行政のプロセスに国民が参加する基本的な権利である。参加することにより司法を透明化、時代の要請に合致したバランスの取れたものにし、ひいては民度の向上、強い民主主義国家を培っていく制度である。

この画期的な制度がキチンと機能し、所期の目的を果たしていく為に解決すべき問題は何かという視点で報道するなら良いのだが、私が目にした報道にはそれが感じられない。このブログの記事でよく話題にする背骨のない枝葉だけの「ふにゃふにゃ報道」だ。

この報道姿勢はもう一方の国民を愚弄している。近年犯罪者の人権ばかり考慮して被害者の苦しみは省みられなかったという反省が良く指摘されるが、裁判員制度を期待し積極的に関わって裁判の質を高めていこうと考えている人達の声が全く取り上げられないのと同じ構図のように私は感じる。(例外として、先日のNHKでは賛成派の声を平等に扱っていた。)

様々な理由で裁判員制度に困惑している人達がいるのは当然だ。適切な比喩ではないかもしれないが誤解を恐れず大胆に言うなら、クラスの出来ない子にレベルを合わせた教育をして学校全体の学力が低下して良いのかという、お馴染みの議論を私は思い出す。民主主義も教育も、どちらがどうかという問題ではないが。

十数年前、米国の会社に勤める友人が陪審員の通知を受け驚いたと聞いた。彼はグリーンカードを持っているが、市民権はないのに通知を受けたはずだ。その時、様々な事情で陪審員を回避する人が3割以上あると聞き意外に思った。

実は、ある調査によれば今回の裁判員制度に困惑している日本人の割合も同じ程度で、長い歴史を持つ米国と大差ないのだ。違うのは報道の姿勢ではないかというのが私の疑いだ。

再びメディア批判

先日投稿した「選挙2.0」でオバマ大統領の選挙戦でITを有効に活用した、政策の専門サイトでその道の専門家の打ち出した政策を参加者が事実確認から始め議論して詰めて行き、最終的に大統領の政策に練り上げて行くプロセスが勝利に貢献したことを紹介した。

一方で、確たるデータはない印象なのだが、日本のネット社会では、議論が極端に走る傾向があると申し上げて来た。先日亡くなった筑紫哲也氏の周辺領域に偏る傾向の問題について書いた。上記の報道の姿勢も含め、程度の差はあれ同じ遺伝子のようなものを感じる。

もう一つ、支持率が急降下した麻生首相の失言について。最近の麻生首相の一連の失言は語るに落ちる。弁護に値しないし、しようとも思わない。

だが、彼のメッセージは社会保険費の増加で将来財政破綻する、日本国が「夕張市化」してしまう、国民は国の制度に安易に頼るのではなく自助精神で健康を保つ努力をもっとして欲しい、社会保障はそれすら出来ない人達の為の最後の制度であるべき、と解釈出来なくはない。その解釈の下で本筋の議論が全く沸き起こらないのは理解に苦しむ。

混沌から最良を見出すシステム

議論を失言追及だけに矮小化し、本筋の議論に触れもしないでは、物事を良き方向に向かわせることは永遠に出来ない。多分、これはプロセスやシステム、又は民主主義や制度の問題ではないのかもしれない。私にも定かではないが、何か間違っている。

最近読んだ本(ウェブ進化論 梅田望夫著 筑摩書房)が、グーグルの検索エンジンは「膨大な玉石混交のコンテンツの中から石をふるいよけて玉を見出す」という精神で作られた、と読んでピンと来た。オバマの政策専門サイトはまさにこの精神が働いたものだ。

本筋の議論を忘れ、重箱の隅をつつく運営をしたらそうは行かなかったろう。更に、淘汰され優れたアイデアが最後に生き残る環境がそこにはあったはずだ。この環境は専門家にとって厳しい挑戦となる、いわゆる評論家なる人達は存在し得ない環境だ。

ビジネスの世界では、個々にコンセプトが明確で定義された商品の開発販売だと我が国は世界トップクラスだ。ソフトの世界でも、いわゆるサブカルチャー商品が世界で大成功したものがいくつかある。しかし、それも幹がしっかりして下支えているからだ。

国の政策レベルでも本筋の議論から逃げず、色々な意見が出てきて、それが最良の政策に昇華していく、間違えたら修正される民主的なプロセスを組み込まれたシステムが我が国でも存在し機能して欲しいと思う。メディアの果たす役割で極めて重要であり、それが文字通り国民の為の媒体のあるべき姿ではないだろうか。■

コメント (1)
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