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ITと文学

2007-12-07 15:43:22 | 本と雑誌

ータイ小説が流行っているらしい。実は一冊も読んだことが無い。本屋で立ち読みして最初の数ページで興味を失った。大雑把に言うと、携帯メールをそのまま本にした、読み易い絵文字入りの短文で行間の多い従来のライト・ノーベル調の小説というところだ。

ところがケータイ小説を軽々しく馬鹿にしちゃいけない。今年の文芸部門出版物のベストセラー・トップ3を独占したという。

そういうものが流行っているというのは2,3カ月前に最近の出版動向を伝えるテレビ番組を見て知っていた。電車の中で携帯に見入る女子高生が読んでいたのは、てっきりメールだと思っていたが、実は小説を読んでいるのだと今更ながら気付いた。

ケータイ小説は表現力に欠け、底が浅く内容が薄い、語彙が少ない等という非難がある。しかし、最近活字離れが進み出版不況に悩む業界では久々の新しいビジネス機会を逃すわけには行かないと、大手出版社も形振り構わず携帯小説の出版を計画しているという。

ケータイ小説は正に携帯電話が安価に誰にでも手に入り、それが進化してインターネットと結びついて多機能化したために生まれた表現形式で、ブロードバンドや最先端携帯電話のある日本ならではのものだ。初めて聞いた時、これは極めて日本的な発展形という風に直感的に思った。

先日、新刊本を紹介する日曜の深夜放送である翻訳家が、最近の米国の小説はやたら分厚くなったと解説しているのを聞いた。その理由は作家がパソコンのワープロを使うようになり、長文の文章を書くことが負担にならなくなったからだという。

もちろんそれで内容が冗長になったということではなく、書きたいことを全て書けるようになったとのこと。なるほどITはそういう形で作家の仕事を変えたのかと思った。しかし、日本の場合は全く思いもよらぬ形でITが貢献していたというわけだ。

IT技術を使っても片や日本ではケータイ小説のような軽い方向に向かい、一方で米国は小説が分厚くなるというのは対照的で、何がそうさせたのか気になっていた。6日のワシントン・ポスト誌ハーデン記者のブログに関する記事を読んでその質問に一部答えていると思った。

界の全ブログで使用される言語のトップは日本語で37%、次に英語の36%となっており、日本人しか日本語を使わないことを考えると、日本語ブログ人口が突出していると伝えている。日本語人口は英語人口の1/10であることを考えると驚異的なブログ人口とさえいえる。そのうち40%は携帯電話でブログ界に参加しているという。

記事は続けて、日本語ブログは米国の自己主張型よりも、内省的で政治より身の回りの小事に向かい対立を避ける内容になっている。それは日本の調和を重んずる、「出る杭は打たれる」文化から来るもので、ブログの多くは匿名であるという。日本人は欧米人の5倍もブログを読むが、それでもって具体的行動を起こすこのは5分の1以下だという。

この記事は日米のブログを対照的に説明したもので後半を省略するが、日本語ブログの内容とケータイ小説には共通するものがあるように私には感じる。どちらも本流から離れたサブカルチャーの部分であるところに先ず共通項がある。

それは何十年か前の漫画でありアニメである、もっと遡れば明治時代の私小説、江戸時代の根付や浮世絵かも知れない。私は専門家ではないが、これらは傍流で始まり、何れもまがい物扱いを受けながらも、消滅することなく独自の発展を続けて来たのではないかと思う。

ケータイ小説がこのあとどう発展するか分からないし、家族の写真や食事だけを紹介する日本語ブログがこのあとどうなるか私には全く分からない。ポスト誌の記事は間接的に日本文化を矮小化し揶揄している気がするが、必ずしも捨てたものでもないと私は思う。一時期注目された「縮み志向」は21世紀世界環境で見直されている。ただ、私のブログは主張し過ぎかもしれない。■

コメント
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