そこには、『ひとは何のために生きているのか』という究極の問題がある。
ひとは、自分のために生きているのか、何かによって生かされているのか。
耐えがたい苦しみや絶望から自殺を選択しようとするひと。
しかし、どうしても自殺の実行に踏み切る覚悟ができないひと、
あるいは難病で手足の自由が利かず自殺しようにもできないひともいる。
死のみが救いであると考えるひとに対して
私たちは、どのように支援するべきなのであろうか?
健康な人間の立場で想像するには難しすぎる問題がありそうだ。
2月9日付 CBC Canada News より
The fight for the right to die(死ぬ権利を求める闘い)
Sue Rodriguez さんは自殺幇助を禁ずる法とカナダ最高裁判所まで闘ったが、敗訴した
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1992年、Sue Rodriguez さんは、死ぬ権利についての議論を、カナダにおける注目の場に引き出した。
議会の議員たちに見せられたビデオ声明で、1991 年にルー・ゲーリック病と診断されたこの Victoria の女性は幇助自殺を禁ずる法の改正を立法者たちに訴えた。
「もし自分の死に対して自分自身が同意できないとしたら、この身体は誰のものでしょう?誰が私の命を所有しているのでしょうか?」と彼女は言った。
カナダ最高裁判所は結局 Rodriguez さんの意見と反対の裁定を下したが、彼女の闘争は大衆を刺激した。Rodriguez さんは匿名の医師の手を借りて1994年に自殺した。
ほとんどの国々と同様、カナダでは自殺幇助は違法である。しかし世界では多くの地域でこういった法律を変えようとして高まりつつある運動があるようだ。
『自殺幇助と安楽死 euthanasia の違いは何か?』
自殺幇助とは、ある人間―典型的には回復不能な疾患や慢性的な強い疼痛に苦しんでいる人―が別の人間の助けを借りて意図的に自殺することをいう。
たとえば、患者が死ぬほど大量に服用するために使うつもりであることを理解しながら薬物を医師が処方する場合もあるだろう。あるいは、医師が患者の腕に静脈針を留置した後、その患者が致死的な注射を開始するスイッチを押すという場合もあるかもしれない。
自殺幇助は、患者以外の人間にの手によってできる限り苦痛のないよう患者の命を終わらせる安楽死とは異なっている。
しかし安楽死には、医師が致死的となる注射を患者に対して行う場合のように積極的な場合もあるかもしれない。
消極的な場合もある。それは、心臓の止まった患者を医師が蘇生しないようなケースである。または医師が生命維持装置をはずすような場合もある。
『自殺幇助はいつ法的な問題となったのだろうか?』
哲学者たちは古くから “a good death”(良い死)の概念について熟慮してきた。しかし、死ぬことをめぐる個人の選択権については1970年代になってようやく真剣な公の論議として浮上してきた。
それまでは、カナダにおいて、また他の多くの国でも、自殺未遂を有罪と見なしており、懲役刑にもなっていた。しかし連邦政府は1972年に自殺未遂を処罰の対象からはずした。
患者の自己決定権をめぐる議論は今、積極的安楽死と自殺幇助の問題に重点が置かれている。というのも、慢性的な激しい痛みを抱えながら、あるいは、多発性硬化症、AIDS、あるいはアルツハイマー病などの変性疾患や末期疾患に冒されながら生きている患者が死ぬ権利を求めて闘うようになったからである。
『なぜそれが問題となるのか?』
自殺幇助を合法化したい人々は、個人は自分自身の死の時期や状況を自身で決定できるべきであると信じている。自身に死を積極的にもたらすことは、延命治療を拒絶することと違いはないと主張する人もいる。
弱者のケアにかかる経済的負担を軽減するため、彼らが自殺幇助を強要されることになるかもしれないと、反対者たちは懸念している。さらに、自殺幇助が、よりよい苦痛緩和医療を提供したり新たな救済法や治療法を見つけるべきであるという圧力の軽減につながり得ることも、彼らは不安視する。
宗教的な反対者には、人間ではなく、神こそが死の時期を決定すべきであると主張するものもいる。さらに多くの医療の専門家たちは、医師が患者の死を手伝うことは倫理的に決して許されないと主張する。
医療従事者として『安楽死』の問題は重たいものがあります
『ヒポクラテスの誓い』なり『ナイチンゲール誓詞』なりで、患者に対して不利益になるような行為は禁じられていますが、人としてはどうなのでしょう?
キリスト教では『自死』は堅く禁止されていますが、そのキリスト教国で『安楽死』なり『尊厳死』が容認されつつあり、『自死』が美徳(?)とされる(されていたかな?)わが国で『安楽死』が問題となっているのは、考えようによっては面白い問題ですね
自殺者数が高止まりで一向に減る傾向の見られない日本では、少なくとも自殺を仕方のないことと見る向きがあるように思います(家族は大変でしょうけど)。一方で、自殺幇助は厳しく罰せられます。そうなると、おのずと、我関せずの風潮が生まれます。そんな状況にあって、同様に『尊厳死』『安楽死』は所詮他人事。はたしてその苦痛をわが事のように受け止め、真剣に考えることができるでしょうか?もっと問題提起してゆくべきなのでしょうね。
最近は「リビング・ウィル」という考えも広まってきてはいますが、いざ当の本人が重態となって意思の疎通が不可能となったときには、どうしても家族の意志の方が尊重されてしまいます
その際、私たち医療従事者はどのような行動をとるのかが、今後の勉強課題になってきますね
医師としての(ですよね?)Mr.K様はどのようにお考えでしょうか
むずかしい問題ですね…原則として、本人の意思が重要であり、それが不明確な状況においては本来『安楽死』『尊厳死』はありえないのだろうと思います。
しかし、実際のところ、本人の意思が確認できない状況にあって、どこまで治療を続けるかという問題に関しては、往々にして家族の意向をうかがうことになってしまいます。何年たっても、この説明と確認が上手くできず、もどかさを感じるばかりです。そこには決して答えへの誘導があってはならないと思うのですが…。どこから先がいわゆる延命治療となるのか、一律に線を引くことはできないむずかしさがあります。