kan-haru blog 2010 東蒲田2丁目公園前丁字路の第1京浜国道側を見る(地図⑯)
< 総合INDEX へ
梅屋敷・京急蒲田間(2)
梅屋敷第1踏切から多摩堤通りまでの都市高速鉄道京浜急行電鉄本線付属街路第2号線(略称:鉄京本付2)と呼ばれる側道は、梅屋敷第1踏切南側から多摩堤通りの同第4踏切までを幅員6mの道路が整備されることで、前回(第2回その2)で第1-2踏切間を記述しましたので今回は第2-4踏切間を追って見ました。
梅屋敷第2-4踏切間工事関連地図
・梅屋敷第2-4踏切間
鉄京本付2となる工事前の区道を、北方向を見ながら同第2踏切から第3踏切までを南に辿っていきます。同第2踏切から南側の区道の幅員は2間幅となり、道路に沿った高架橋は先の京急蒲田駅が3階高架橋のため下り線高架橋は3階付近までの高さに達し、高架橋の東側は梅屋敷公園で同第2-3踏切間は50mほどの距離です。
第2-3踏切間の鉄京本付2となる工事前の区道を見る(左:梅屋敷第2踏切から道幅が広くなる[地図⑦]、中:区道に接する高架橋の東は梅屋敷公園[地図⑧]、右:梅屋敷第3踏切から第1京浜国道方を見る[地図⑨])
同第3踏切道から南側の区道は、次の北丁字路までの間のファミネス梅屋敷マンション横の道路幅員がさらに1mほど広くなっています。北丁字路から南の区道の幅員は元の幅に戻り狭くなり、総2、3階の高架橋は線路が複線幅で京急蒲田高架駅ホームの本線と空港線とに分岐しています。
第3-4踏切間の鉄京本付2となる工事前の区道を見る1(左:第3踏切南側」で区道幅員が広くなる[地図⑩]、中:歩行者専用の北側丁字路、右:歩行者丁字路南側の区道[地図⑪])
第2-4踏切間には3つの丁字路があり、中間の丁字路の先の丁字路南側には東蒲田2丁目13番地の小公園があります。
第3-4踏切間の鉄京本付2となる工事前の区道を見る2(左:第3-4踏切間中央の丁字路、中:中央の丁字路付近南側の区道[地図⑫]) 、右:東蒲田2-13小公園に接する南側丁字路)
公園に面した丁字路の対面は空き地になっており、その南のビルは側道の幅員を考慮してセットバックがされているようです。側道の最南端の多摩堤通り口には、3月には1間幅の間隔でビルが建っており、4月24日に見るとビルの取り壊しが進んでいました。
3-4踏切間の鉄京本付2となる工事前の区道を見る3(左:この辺の区道では立退きや、道幅が確保されている[地図⑬]、中:側道の終端部では1間幅のところにビルが聳ええる[地図⑭]、右:4月末にはビルの取壊しが進む[地図⑭])
梅屋敷公園側の工事
梅屋敷第2-4踏切間の梅屋敷公園側の工事は、京急高架化工事が進行中で、第1京浜国道の拡幅工事が行われる予定で、公園の対面では大田区体育館が建て替えの工事中です。
第2-3踏切間の第1京浜国道側の工事説明図
・梅屋敷公園
これらの工事により聖跡梅屋敷公園では先ず京急高架橋の築造工事のため、平成18年8月から平成23年12月までの期間が、公園の土地の一部をヤードに使用されるため占用され、無粋な姿とになりました。
京急高架化工事のため公園の土地をヤードに占用
ヤードとして占有された公園は、芝生や草木が抜かれ築山や小道が平地にされ、公園西口は網塀で囲まれた細い通路となり、境には高い白塀が建ち、その上には工事の覆いが付けられました。工事が始まると、大型の移動用の工事機により高架橋の築造が開始されました。
ヤードに占用された梅屋敷公園(左上:ヤードに占用され石碑も囲まれる、中上:公園西口は狭い通路となる、右上:梅屋敷公園脇で工事機により高架橋築造が始まる、左下・中下:ヤードに占用され無粋な塀と工事覆いで囲まれる、右下:塀の手前にも通行止めの策が設けられる06年09月)
平成9年7月には、梅屋敷公園脇の上り・下り線の3階建ての高架橋が大半完成しました。
梅屋敷公園脇の高架橋(左・中・右09年07月写真拡大)
・往時の面影を惜しむ
旧東海道は、現第1京浜国道の東側を通っていましたが、1918年(大正7年)に第1京浜国道としての拡幅工事とともに京浜急行の開通により、その時に庭園の大部分が削り取られ、明治天皇がたいそう好まれた往時の姿は失われましたが、昭和に入って当時の東京市に寄付され、梅林や多くの石碑を残して遺跡としていささかではあるが往時の名残に触れることができた梅屋敷公園(面積: 4,365㎡)でした。
ところが、さらに今後の国道15号(第1京浜国道)の拡幅整備工事により、梅屋敷公園は奥行きが約1/2ほど削られます。これにより、完全に歴史遺産の聖跡梅屋敷公園は消滅です。
梅屋敷は安藤広重の江戸名所百景にも描かれ、江戸時代には敷地3000坪に梅の木数百本と東海道の休み茶屋があり、和中散の売薬所で知れわたっており、徳川十二代将軍家慶が鷹狩りの途中に立ち寄ったり、幕末には木戸孝允、大久保利通、岩倉具視、伊藤博文などが国の行く末を論じる会合を度々持ったともいわれています。
歴史・文化遺産と潰すと復元ができませんし、交通渋滞の解消も絶対欠かせない条件です。その両方を叶える事が現代の大きな課題ですので、大田区の歴史遺産を資料で残すことは可能ですので、梅屋敷第2-3踏切間の京急高架橋下に「梅屋敷資料館」を設けてはと提案します。この資料館には、江戸時代から幕末時代の梅屋敷と旧東海道、世界大戦の大森町から六郷までの戦災記録、戦前・戦後の大森町、森が崎の工業団地の歴史を展示し、いままでの大田区の歴史発展の原点を伝え、今後歩むべき指針の資料を示してはと思います。
往時の面影を偲ぶ(左・中・右06年09月写真拡大)
< 総合INDEX へ
・毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(4月分掲Indexへ)
・カテゴリー別Index 大森町界隈あれこれ 京浜急行関連総目次2010年前期版、2009年後期版、2009年中Ⅱ期版、2009年中期版、2009年前期版、2008年後期版、2008年中期版、2008年前期版、2006・2007年版 へ
・サブ・カテゴリー別Index 高架化関連側道編、高架化全工区統合編、大森町付近工区2009年版、大森町付近工区2008年版、大森町付近工区2006・2007年版、梅屋敷付近工区、京急蒲田付近工区2009年版、京急蒲田付近工区2006~2008年版、雑色付近工区、糀谷付近工区 へ
<前回 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 関連側道整備編交通計画糀谷・蒲田東地区(第2回その2) へ
次回 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合編(第19回その1) へ
< 総合INDEX へ
梅屋敷・京急蒲田間(2)
梅屋敷第1踏切から多摩堤通りまでの都市高速鉄道京浜急行電鉄本線付属街路第2号線(略称:鉄京本付2)と呼ばれる側道は、梅屋敷第1踏切南側から多摩堤通りの同第4踏切までを幅員6mの道路が整備されることで、前回(第2回その2)で第1-2踏切間を記述しましたので今回は第2-4踏切間を追って見ました。
梅屋敷第2-4踏切間工事関連地図
・梅屋敷第2-4踏切間
鉄京本付2となる工事前の区道を、北方向を見ながら同第2踏切から第3踏切までを南に辿っていきます。同第2踏切から南側の区道の幅員は2間幅となり、道路に沿った高架橋は先の京急蒲田駅が3階高架橋のため下り線高架橋は3階付近までの高さに達し、高架橋の東側は梅屋敷公園で同第2-3踏切間は50mほどの距離です。
第2-3踏切間の鉄京本付2となる工事前の区道を見る(左:梅屋敷第2踏切から道幅が広くなる[地図⑦]、中:区道に接する高架橋の東は梅屋敷公園[地図⑧]、右:梅屋敷第3踏切から第1京浜国道方を見る[地図⑨])
同第3踏切道から南側の区道は、次の北丁字路までの間のファミネス梅屋敷マンション横の道路幅員がさらに1mほど広くなっています。北丁字路から南の区道の幅員は元の幅に戻り狭くなり、総2、3階の高架橋は線路が複線幅で京急蒲田高架駅ホームの本線と空港線とに分岐しています。
第3-4踏切間の鉄京本付2となる工事前の区道を見る1(左:第3踏切南側」で区道幅員が広くなる[地図⑩]、中:歩行者専用の北側丁字路、右:歩行者丁字路南側の区道[地図⑪])
第2-4踏切間には3つの丁字路があり、中間の丁字路の先の丁字路南側には東蒲田2丁目13番地の小公園があります。
第3-4踏切間の鉄京本付2となる工事前の区道を見る2(左:第3-4踏切間中央の丁字路、中:中央の丁字路付近南側の区道[地図⑫]) 、右:東蒲田2-13小公園に接する南側丁字路)
公園に面した丁字路の対面は空き地になっており、その南のビルは側道の幅員を考慮してセットバックがされているようです。側道の最南端の多摩堤通り口には、3月には1間幅の間隔でビルが建っており、4月24日に見るとビルの取り壊しが進んでいました。
3-4踏切間の鉄京本付2となる工事前の区道を見る3(左:この辺の区道では立退きや、道幅が確保されている[地図⑬]、中:側道の終端部では1間幅のところにビルが聳ええる[地図⑭]、右:4月末にはビルの取壊しが進む[地図⑭])
梅屋敷公園側の工事
梅屋敷第2-4踏切間の梅屋敷公園側の工事は、京急高架化工事が進行中で、第1京浜国道の拡幅工事が行われる予定で、公園の対面では大田区体育館が建て替えの工事中です。
第2-3踏切間の第1京浜国道側の工事説明図
・梅屋敷公園
これらの工事により聖跡梅屋敷公園では先ず京急高架橋の築造工事のため、平成18年8月から平成23年12月までの期間が、公園の土地の一部をヤードに使用されるため占用され、無粋な姿とになりました。
京急高架化工事のため公園の土地をヤードに占用
ヤードとして占有された公園は、芝生や草木が抜かれ築山や小道が平地にされ、公園西口は網塀で囲まれた細い通路となり、境には高い白塀が建ち、その上には工事の覆いが付けられました。工事が始まると、大型の移動用の工事機により高架橋の築造が開始されました。
ヤードに占用された梅屋敷公園(左上:ヤードに占用され石碑も囲まれる、中上:公園西口は狭い通路となる、右上:梅屋敷公園脇で工事機により高架橋築造が始まる、左下・中下:ヤードに占用され無粋な塀と工事覆いで囲まれる、右下:塀の手前にも通行止めの策が設けられる06年09月)
平成9年7月には、梅屋敷公園脇の上り・下り線の3階建ての高架橋が大半完成しました。
梅屋敷公園脇の高架橋(左・中・右09年07月写真拡大)
・往時の面影を惜しむ
旧東海道は、現第1京浜国道の東側を通っていましたが、1918年(大正7年)に第1京浜国道としての拡幅工事とともに京浜急行の開通により、その時に庭園の大部分が削り取られ、明治天皇がたいそう好まれた往時の姿は失われましたが、昭和に入って当時の東京市に寄付され、梅林や多くの石碑を残して遺跡としていささかではあるが往時の名残に触れることができた梅屋敷公園(面積: 4,365㎡)でした。
ところが、さらに今後の国道15号(第1京浜国道)の拡幅整備工事により、梅屋敷公園は奥行きが約1/2ほど削られます。これにより、完全に歴史遺産の聖跡梅屋敷公園は消滅です。
梅屋敷は安藤広重の江戸名所百景にも描かれ、江戸時代には敷地3000坪に梅の木数百本と東海道の休み茶屋があり、和中散の売薬所で知れわたっており、徳川十二代将軍家慶が鷹狩りの途中に立ち寄ったり、幕末には木戸孝允、大久保利通、岩倉具視、伊藤博文などが国の行く末を論じる会合を度々持ったともいわれています。
歴史・文化遺産と潰すと復元ができませんし、交通渋滞の解消も絶対欠かせない条件です。その両方を叶える事が現代の大きな課題ですので、大田区の歴史遺産を資料で残すことは可能ですので、梅屋敷第2-3踏切間の京急高架橋下に「梅屋敷資料館」を設けてはと提案します。この資料館には、江戸時代から幕末時代の梅屋敷と旧東海道、世界大戦の大森町から六郷までの戦災記録、戦前・戦後の大森町、森が崎の工業団地の歴史を展示し、いままでの大田区の歴史発展の原点を伝え、今後歩むべき指針の資料を示してはと思います。
往時の面影を偲ぶ(左・中・右06年09月写真拡大)
< 総合INDEX へ
・毎月1日付けのIndexには、前月の目次を掲載しております(4月分掲Indexへ)
・カテゴリー別Index 大森町界隈あれこれ 京浜急行関連総目次2010年前期版、2009年後期版、2009年中Ⅱ期版、2009年中期版、2009年前期版、2008年後期版、2008年中期版、2008年前期版、2006・2007年版 へ
・サブ・カテゴリー別Index 高架化関連側道編、高架化全工区統合編、大森町付近工区2009年版、大森町付近工区2008年版、大森町付近工区2006・2007年版、梅屋敷付近工区、京急蒲田付近工区2009年版、京急蒲田付近工区2006~2008年版、雑色付近工区、糀谷付近工区 へ
<前回 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 関連側道整備編交通計画糀谷・蒲田東地区(第2回その2) へ
次回 大森町界隈あれこれ 京浜急行の高架化 全工区統合編(第19回その1) へ
現在、梅屋敷公園前の第1京浜国道(旧東海道)の向かい合わせには、東京オリンピッ
クの際に建てられた旧大田区体育館を閉館して、跡地に大田区総合体育館の建設中で
平成24年に竣工の予定です。
完成すると、スポーツを行う場としてだけではなく、ハイレベルな試合を身近な場所
でみて楽しむ機能も充実させるなどの計画で進行中ですので、大勢の人の集客が予定
されます。
社会的要請で、梅屋敷公園が縮小されますが、歴史遺産は引き継いて後世に残す必要
があります。大田区では、総合体育館の完成とともに、新たな文化地区と旧跡梅屋敷
の史跡を融合した整備を計画して進めて行くものと期待しています。
今となってはその様な水場を含めて復元することは不可能に近いと思われますが、最近は旧東海道を歩いてみようとする人たちも少なくないので(私も日本橋~金谷まで歩きました)、資料館とまでは行かなくても、せめて当時の様子を街道歩きをしている人たちに伝えられるものを残していただければありがたいと思います。