通でがんす

いろんな広島を知って、ひろしま通になりましょう!
(旧ブログタイトル:通じゃのう)

赤穂義士大石父子供養墓

2021年12月14日 | 見て歩き
今日、12月14日は
四十七士(しじゅうしちし)
討ち入りの日。



元禄(げんろく)14年3月14日
(1701年4月21日)、
江戸城松の廊下で、
赤穂(あこう)藩主
浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が
高家筆頭(こうけひっとう)
吉良上野介(きらこうずけのすけ)
に斬りつけ、即日切腹に処せられた。

これにより、浅野家は断絶となる。

翌元禄15年12月14日(1703年1月30日)、
大石内蔵助(おおいし くらのすけ)
以下、赤穂義士47人が吉良邸に討入り、
上野介の首を取った。



広島市東区
聖光寺(しょうこうじ)にある
赤穂義士(あこうぎし)大石父子供養墓
を紹介していこう。








↓聖光寺については、こちら↓

広島山 聖光寺





今日は、聖光寺にある
赤穂義士大石父子供養墓
についての話でがんす。








聖光寺入口の階段右側にあるのが
赤穂義士大石父子供養墓碑。








三門(山門)を通って境内に入り、
階段を上って左側にあるのが
大石内蔵助、主税(ちから)
父子の供養墓。

内蔵助・主税を含めた
赤穂義士四十七士の墓は
東京の泉岳寺(せんがくじ)にある。

聖光寺、泉岳寺ともに
曹洞宗のお寺じゃそうな。





↓泉岳寺については、こちら↓

曹洞宗 江戸三ヶ寺 萬松山 泉岳寺








向かって右側が父・内蔵助、
左側が嫡男・主税の供養墓。

内蔵助:忠誠院刃空浄剣居士(ちゅうせいいんじんくうじょうけんこじ)

主税:超倫院刃上樹剣信士(じんじょうじゅけんしんし)


それぞれの戒名が正面に刻まれている。

四十七士の戒名は討ち入りを賞賛して、
「刃…剣信士(じん…けんしんし)」
とつけられた。

また、位号には格付けがあって、
内蔵助のみ「居士」で、
あとは「信士」。

ちなみに、藩主の浅野内匠頭は、

冷光院殿前少府朝散大夫吹毛玄利大居士(れいこういんでんさきのしょうふちょうさんだゆうすいもうげんりだいこじ)

と「大居士」がついている。

主税につけられた「超倫院」は、
ウィキペディアで
次のように説明されていた。



なお大石親子は、家格が殿様の名代が務める譜代の城代家老(代々世襲)のため、別格扱いで赤穂藩での菩提寺の花岳寺では、良金の戒名には院号の超倫院が付されている。

(「大石良金」ウィキペディア)






以下、余談。

…といいつつ、
ここからが本題なんじゃが。



なぜ、広島の聖光寺に
大石父子の供養墓が作られたのか?

それが説明板に刻まれている。






四十七士のひとり
寺坂吉右衛門(てらさか きちえもん)
は、討ち入り後に逃げ出した
とされる人物。

その寺坂には、

刀道退身信士(ちくどうたいしんし=逃げた人)

という、ありがたくない戒名が
つけられた。

しかし、この説明板では、
生き残った寺坂が
討ち入りの成功を広島藩に報告した
ことになっている。



赤穂といえば今の兵庫県。

それがなぜ、
わざわざ広島までやって来て
討ち入りの成功を報告しなければ
ならなかったのか?

そして、
内蔵助父子の遺髪を
葬って欲しいと申し出たのか?



キーワードは「浅野」。

実は、広島藩の浅野家と
赤穂藩の浅野家とは、
本家と分家の関係にあった。



江戸時代、初代広島藩主となったのが
福島正則(ふくしま まさのり)。

その福島は、広島城を幕府に無断で
修理したことを問われて転封された。

代わって広島藩主となったのが、
豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)の
五奉行の一人であった
浅野長政(あさの ながまさ)の
次男・長晟(ながあきら)。

これ以降、幕末まで
浅野家が藩主として広島藩を治めた。

長政の三男が長重(ながしげ)で、
長重の嫡男の長直(ながなお)が
正保(しょうほう)2年(1645年)、
赤穂藩主となる。

そして、孫の長矩の代に改易されるまで
浅野家が赤穂藩主を務めた。



広島藩の浅野家と
赤穂藩の浅野家は
こういう関係にあった。



討ち入りの成功を報告した
寺坂に対して、
赤穂義士は罪人であることから
広島藩主の菩提寺・
國泰寺(こくたいじ)でなく
聖光寺に葬ったというわけじゃ。





↓國泰寺については、こちら↓

「国泰寺」広島県公式観光サイト ひろしま観光ナビ





【参考文献】

山本博文『これが本当の「忠臣蔵」 赤穂浪士討ち入り事件の真相』(小学館 江戸検新書)  2012年)





訪問日:2017年5月2日






今日は、
赤穂義士大石父子供養墓
について話をさせてもろうたでがんす。



ほいじゃあ、またの。
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『映画手帳』1977年12月号(その2)邦画編

2021年12月12日 | まんが・テレビ・映画


そのむかし、広島で出版されていた
月刊情報誌『映画手帳』。

この雑誌(1977年12月号)をもとに、
今から44年前、1977年12月の広島を
紹介しています。

前回は、このころ映画館で上映されていた
洋画について。





↓前回については、こちら↓

『映画手帳』1977年12月号(その1)洋画編







今日は、1977年12月
広島で上映された映画(邦画編)
についての話でがんす。








【松竹東洋座】

幸福の黄色いハンカチ

男はつらいよ 寅次郎頑張れ!
ワニと鸚鵡とおっとせい




『幸福の黄色いハンカチ』は、この年の
日本アカデミー賞、
キネマ旬報賞、
毎日映画コンクール、
ブルーリボン賞など、
国内の映画賞を総ナメにした名作。

高倉 健さん、
武田鉄矢さん、
桃井かおりさんとともに旅をする、
広島の自動車会社・マツダの
赤いファミリアも主役のひとり。

これは山田洋次監督の、
「大衆車で色は赤」
という指定に基づくものだという。




(『赤の勇姿 北の大地疾走』
「マツダ100年 作品中の名車」
中国新聞 2020年5月14日)






以前、わしが勤めていた会社では
毎年8月に社員旅行に行っていた。

1泊2日で、
たいていはバスで移動。

2日目の午後、広島へ帰るときは
お休みタイム。

その時は、
寅さん(『男はつらいよ』)か、
釣りバカ(『釣りバカ日誌』)の
ビデオをセットして、
ガイドさんも休憩モード。
(DVDでなく、ビデオテープの時代)

『男はつらいよ』は、
その程度でしか観たことがないのが
未だに残念じゃ。

いつかリベンジをせねば!
…と思いつつ、今日に至るわけじゃが。







【広島東宝】

はなれ瞽女おりん

霧の旗
惑星大戦争




わしの大好きな映画のひとつが
『惑星大戦争』。

『映画手帳』の
1977年12月号を買ったのも、
これが目的じゃった。

…が、何かがおかしい。

写真をよくよく見てみると、
見慣れた轟天号(ごうてんごう)が、
見たことのない轟天号に
なっとるではないか!









(『惑星大戦争』サウンドトラック 東宝レコード)



2つの絵を見比べてみると…。

『映画手帳』の広告(上)は、
映画会社から支給されたイラスト(下)
ではない、描き直したものである。

轟天号は斜め45度で飛び立つから
カッコいいのであって、
30度くらいで飛んでも迫力不足じゃ。



以下、
この絵が描かれたことについての
わしの勝手な妄想。



「社長、この広告なんですがの。
小さくて横長の画面に
宇宙船やなんやらが
ゴチャゴチャと入っとったら、
見づらいですよ」

「そんな、お前。
いらんもんは
ちょちょいと消してしもうたら
それでええじゃないか」

「いやー、
それでも見づらい思いますよ」

「うーん…。
ほいじゃ、どうすりゃええかいの?」

「この写真を元にして、
出入りの絵描きにささっと描いてもらや
ええと思うんですがの」

「分かった。
ほんならそれでやってもらおうか」




事の真相はともかく…。

この轟天号にお目にかかれたのは、
この雑誌を目にした
広島県民だけじゃろか?

それとも、全国的に
出回ったものなんじゃろか?







【広島東映・的場東映】

新・巨人の星
BIG-1物語 王貞治

宇宙戦艦ヤマト
サイボーグ009




今年(2021年)は、
MLBのロサンゼルス・エンゼルス
大谷翔平(おおたに しょうへい)選手が
二刀流で大活躍し、話題をさらった。

この年(1977年)の話題のひとつが、
9月3日にプロ野球・巨人の
王 貞治(おう さだはる)さんが
通算756号ホームランを放って、
ホームランの世界記録を達成したこと。

どちらも、日本中が熱狂しました。

その王さんの半生をつづる
ドキュメンタリー映画が
『BIG-1物語 王貞治』。

当時37歳だった王さんは
初の国民栄誉賞を受けたが、
27歳の大谷さんが、
「まだ早い」と辞退したのは
ご存じのとおり。





この年の夏に公開され、ヒットしたのが
『宇宙戦艦ヤマト 劇場版』。
(配給収入/9.3億円
ウィキペディアより。以下同じ)

それまで
「まんが映画」と呼ばれていたのが、
これ以降は「アニメーション映画」と
呼ばれるようになったんじゃの。

1978年夏には
『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』
が公開され、こちらも大ヒット。
(配給収入/21億円)

さらに1979年夏には、上記2作品に
『海のトリトン 劇場版(前編)』
を加えた3作品が
「宇宙戦艦ヤマト フェスティバル」
として公開された。




映画『銀河鉄道999』前売り券の袋に印刷された「宇宙戦艦ヤマト フェスティバル」の告知


それ以外にも
こういう形で興業をしとったんじゃの。

それにしても、
旧作の『サイボーグ009』(1966)
と抱き合わせでの公開とは…。



ヤマトを配給した東映は、
実は面白くなかった。

ヤマトの稼ぎのほとんどは、
製作会社のオフィス・アカデミー
=西崎義展(にしざき よしのぶ)さん
のふところへ入っていったからだ。

その東映は、1979年夏に
映画『銀河鉄道999』を公開、
「ヤマト フェスティバル」
に勝つことができた。

(999 配給収入/16.5億円
ヤマト 配給収入/5.1億円)





【駅前東映】

ごろつき部隊(1969)
新座頭市物語 笠間の血祭り(1973)

新網走番外地 吹雪の大脱走(1971)
青春の殺人者(1976)

人斬り与太 狂犬三兄弟(1972)
子連れ狼 冥府魔道(1973)

やくざの墓場 くちなしの花(1976)
大菩薩峠(?)




駅前「東映」なのに、
1本は東映で、そのほかは
いろんな会社の映画を上映しています。

『新座頭市物語』は日活、
『青春の殺人者』は今村プロ、
『子連れ狼』は勝プロ、
『大菩薩峠』は?
(調べてみると、
日活・東映・大映・東宝と
いろんな会社で製作されています)
という具合に。




『やくざの墓場 くちなしの花』
といえば、主演を務めた
渡 哲也(わたり てつや)さんの
ヒット曲「くちなしの花」(1973年)
が使われていることでも有名。



♪いまでは指輪も まわるほど
やせてやつれた おまえのうわさ
(略)
くちなしの白い花
おまえのような 花だった

(作詞・水木かおる、作曲/遠藤 実)




ここは3本立てなのですが、
うち1本は成人映画なので
紹介していません。

あしからずご了承ください。





【五日市有楽】

仁義の系譜
緋牡丹博徒 お竜参上
昭和残侠伝 死んで貰います

笛吹童子
白馬の王子
ドカベン
一休さん




分からんのが、
この五日市有楽。

1週間ごとに
邦画と成人映画を交互に上映している。

館内のポスター貼りとか、
予告編の上映は
どうされとったんじゃろか?



あと、上映作品も分からん。

『笛吹童子』といえば、1977年に
人形劇『新諸国物語より笛吹童子』
がNHKで放送されていた。

が、調べた限り、この作品が
映画化されたことはないらしい。

1972年版に実写ドラマ化された
『新諸国物語 笛吹童子』もあるが、
こちらも映画化されたことは
ないらしい。

まさか、1954年に公開された
映画『新諸国物語 笛吹童子』
までさかのぼることはないと思うが…。



『白馬の王子』で思い出すのが、
東映製作のテレビアニメ
『燃えろアーサー 白馬の王子』だが、
この作品の放送が始まったのが
2年ほど後の1980年4月。

「白馬の王子」を
「白鳥の王子」の
誤植(ごしょく。文字の間違い)
とすると、
1977年3月に公開された
「東映まんがまつり」ではないか?
という推測が成り立つ。



このときに上映されたと思われる映画
(1977年3月版東映まんがまつり)
は、以下のとおり。


『世界名作童話 白鳥の王子』
『ジャイアンツのこども野球教室』
『超電磁ロボ コン・バトラーV』
『大鉄人17』
『ドカベン』
『一休さん ちえくらべ』




『日本アニメーション映画ポスター史(上)平出文己男コレクションより』(アニメージュ文庫 1987年7月)






以下、余談。



『ドカベン』といえば、
2020年に漫画家からの引退を発表された
水島新司(みずしま しんじ)さんの
大ヒット漫画。

前年(1976年)から
テレビアニメ化され、
1977年には実写映画化された。

このヒットを受けて、
水島さんのヒット作のひとつ
『野球狂の詩(…きょうのうた)』も
テレビアニメ化、
実写映画化されているんじゃの。





以下、さらに余談。



『宇宙戦艦ヤマト 劇場版』
が公開される前から、
アニメブームが盛り上がってきていた。

これを受けて、東映動画の
「東映アニメーション・ファンクラブ」
が、1977年の夏ころに発足。

シナリオや設定資料集、
スチールやポスターなどを
販売していた。

また、過去に上映された映画や、
テレビでは再放送されない
白黒時代のテレビアニメの
フィルム上映会も行っていた。

1977年といえば、
家庭用ビデオデッキなど
まだ普及していない時代。

アニメファンや
白黒アニメを見ていなかった世代には、
フィルム上映会は
とてもありがたかった。

『映画手帳』によると、
東映アニメーション・ファンクラブは
12月18日(日)、平和記念館で
次の作品の上映会を行っている。



午前10時半=「サイボーグ009」「レインボー戦隊ロビン」など四本・五百円

午後2時=「ホルスの大冒険」など二本・五百円




たとえば、『ホルスの大冒険』は
映画なのでそのまま上映。

たとえば、『サイボーグ009』は
白黒テレビ版(1968年)なので、
第2話「Xの挑戦」
第16話「太平洋の亡霊」
第26話「平和の戦士は死なず」など
人気のあった作品を上映していた。

ただ、このときに
どの作品が上映されていたかは
分からんが…。





今日は、1977年12月
広島で上映された映画(邦画編)
についての話をさせてもろうたでがんす。

次回は、
テレビで放送された映画作品、
テレビ映画編の予定でがんすけぇの。



ほいじゃあ、またの。
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『映画手帳』1977年12月号(その1)洋画編

2021年12月11日 | まんが・テレビ・映画


10月末、紙屋町シャレオで行われた
「古本まつり」で本を探していると、
とても懐かしい雑誌に出会った。

そのむかし、広島で出版されていた
月刊誌『映画手帳』
(のち『月刊レジャー広島』)
1977年(昭和52)12月号である。

この雑誌をもとに、今から44年前
1977年12月の広島を
紹介していきたいと思うとります。

第1回目は、このころ上映されていた
洋画について。





今日は、1977年12月
広島で上映された映画(洋画編)
についての話でがんす。





最初に…、
今から44年前、
1977年12月の広島市内に
どれだけの数の映画館があったか
ご存じでしょうか?



答えは、27館!

すごい数ですね。

ちなみに、
今の広島市内にある映画館は以下の8館。
(中国新聞「本日の映画案内」掲載順)



サロンシネマ、
八丁座、
横川シネマ、
横川有楽座、
広島バルト11、
イオンシネマ広島、
109シネマズ広島、
イオンシネマ広島西風新都




映画館の数では負けていますが、
スクリーンの数で比べると
今の方が多いでしょう。



当時の映画館を
『映画手帳』での紹介順に
書き出してみると…、



朝日会館、
リッツ劇場、
宝塚劇場、
OS東劇、
スカラ座、
東映パラス、
新天地劇場、
サロンシネマ、
ステーションシネマ、
名画座、
的場シネマ、
大劇、
横川シネマ、
シネマパーラー、
松竹東洋座、
広島東宝、
広島日劇、
タカノ橋日劇、
広島東映、
的場東映、
的場有楽座、
ピカデリー小劇、
南座、
駅前東映、
横川銀映、
ロキシー座、
五日市有楽




わしがよく通った映画館があれば、
「こんな映画館があったの?」
と、名前すら知らない映画館もある。

今も健在なのは、
横川シネマの1館のみ。

横川銀映は横川有楽座に名前を変え、
サロンシネマはタカノ橋から
市中央部の八丁堀に移転して
現在も営業を続けている。

東映パラス・広島東映は、
東急ハンズ広島店の8階で
広島東映・広島ルーブルに
名前を変えて営業していたが、
今はサロンシネマが入っている。

福屋本店東館8階の
名画座と松竹東洋座には、
今は八丁座が入っている。





…前置きが長くなりました。

今回は、
『映画手帳』1977年12月号に
「洋画スケジュール」で紹介してある
映画について話をしていきます。

(成人映画は紹介していません。
あしからずご了承ください。
個人的には興味があるのですが…)







【朝日会館】

華麗なる挑戦
ランナウェイ

オルカ
カプリコン1(ワン)




映画タイトルが2つずつ書いてあるが、
このころの映画はまだ
2本立て上映が普通だったんじゃの。





【リッツ劇場】

スラップ・ショット
トランザム7000

ガントレット
アウトローブルース




『ガントレット』で
主演・監督を務めたのが、
90歳を超えた今もなお
俳優・監督・プロデューサーとして
活躍していらっしゃる
クリント・イーストウッドさん。

クリント・イーストウッドさんが
手がけられた作品のひとつが、
『硫黄島からの手紙』(2006年)。

この映画で知った俳優さんが
二宮和也(にのみや かずなり)さんで、
のちにアイドルグループ・嵐の
メンバーであることを知ったんじゃの。





【宝塚劇場】

人間の証明

007/私を愛したスパイ




今まで紹介した映画館は
2本立て上映だったが、
ここは1本立て上映だった。



映画『人間の証明』といえば、
「母さん、僕のあの帽子、
どうしたでしょうね?」
のキャッチコピーで大ヒットした
角川映画の第2弾。

「読んでから見るか、見てから読むか」
というキャッチコピーも
流行ったもんじゃ。

『人間の証明』は、
この年の邦画配給で第2位に入る。

1位は、
「天は我々を見放した」で有名な
『八甲田山』、
3位は、
「祟(たた)りじゃ~っ!」で有名な
『八つ墓村』じゃった。



お気づきの方もおられるかと
思いますが、今回は「洋画編」。

なんで邦画(日本映画)が
出てくるかというと…。

映画を製作するのが「製作」で、
その製作された映画を
映画館で上映するのが「興業」。

製作された映画を
映画館で興業するためには、
間を取り持つ人が必要となる。

それが「配給」という仕事。

自社の作品(本)を映画にすることで
どちらも宣伝し、ヒットさせる
「メディアミックス」戦略で
映画界に一大旋風を巻き起こしたのが、
角川映画。



『人間の証明』は日活撮影所で撮影し、配給は東映、興行は東宝洋画系という従来の日本映画界では考えられない組み合わせで映画界に新風を巻き起こした。

(「角川映画」ウィキペディア)




…というわけで、
『人間の証明』は洋画系の映画館で
上映されたんじゃの。





【OS東劇】

スクワーム
ブレイキング・ポイント

ジョーイ
放浪紳士 チャーリー




『放浪紳士 チャーリー』は、
1975年にアメリカで製作された映画で、
日本公開は1977年12月17日(土)から。

ちなみに、
チャップリンが亡くなったのが
この年の12月25日。

チャップリンが亡くなったので、
この映画に足を運ぶ人が増えたのか、
どうだったのか?





【スカラ座】

王子と乞食
ビバ・ニーベル

がんばれ!ベアーズ特訓中
ザ・カー





【東映パラス】

人間の証明

さよならエマニエル夫人




見たい見たいと思いいつつ、
未だに見ていない映画のひとつが
『エマニエル夫人』だったりする。



甘いムードの主題歌と半裸のシルビアが籐椅子で足を組む姿が話題を呼び、ファッショナブルでロマンチックな女性向きポルノを意味する「ソフトポルノ」なる新語が誕生。「エマニエルする」(行きずりの情事)、「エマニエル型」(自由奔放に性を楽しむ女性)などの新語が流行語になった。

(グループ・昭和史探検『昭和流行語辞典』三一新書 1987年)








【サロンシネマ】

愛のメダリスト
アメリカン・グラフティ

波止場
叫びとささやき

男はつらいよ 寅次郎頑張れ!
ワニと鸚鵡とおっとせい




全部で50作品作られた
映画『男はつらいよ』の第20作目が
『寅次郎頑張れ!』

渥美 清(あつみ きよし)さんが
まだお元気で活躍されていた
ころの話ですね。

それにしても、サロンシネマで
『男はつらいよ』を上映していたとは、
知らんかった…。





【ステーションシネマ】

ソドムの市(1975)
アラビアンナイト(1974?)

合衆国最後の日(1977)
怒りの山河(1977)

悪魔の手毬唄(1977?)
愛の妖精 アニーベル(1977)

家(1976)
地獄の貴婦人(1974?)

キングコング(1976)
未来世界(1977)




ステーションシネマは、
ステーション=広島駅
にあった映画館。

封切りが終わった映画を上映する
2番館と呼ばれる映画館だった。

作品数が多いのは、
1週間ごとに上映作品を変えるため。

作品名の後の( )内の数字は、
その映画の上映年。

「?」とあるのは、
同じタイトルで複数の作品があるため、
たぶんこの年の作品であろう
ということで書いとります。





余談じゃが…。



2025年春の開業を目指して
建て替え工事中のJR広島駅ビル。

ここにも
映画館(シネマコンプレックス)が
併設される予定じゃそうな。





【名画座】

羅生門(1950)
二十四の瞳(1954)

楢山節考(1958)
忠臣蔵(1958)

大陸横断超特急
ジェットバス

シーザス・クライスト スーパースター
スター誕生




名画座、
名作といわれる映画を
主として上映する映画館のこと。

名画かぁ…、
いっそ(=全然)観とらんのう。

この中で『羅生門』だけは、
映画・ビデオと何度か挑戦してみた。

今年は4Kデジタル修復版にも
挑戦してみたが、
なぜか途中で飽きてしまうんじゃの。





【的場シネマ】

シェーン(1953)
レマゲン鉄橋(1970)

グレートレース(1965)
スコルピオ (1973)

バニシング・ポイント(1971)
ウォーキング・トール(1975)

シェルブールの雨傘(1964)
嵐が丘(1939)




作品名を見ると、
ここも名画座的な役割を果たした
映画館なのでしょう。

『シェーン』
『シェルブールの雨傘』
『嵐が丘』

…これらの作品も観とらんのう。





以下、余談。



このころの映画代金は、
大人1,300円(前売り1,000円)
学生1,100円(前売り900円)
じゃった。



以下、わしが生れた1963年以降の
映画封切館の入場料金一覧を示す。



1963年(昭和38) 350円
1966年(昭和41) 500円
1969年(昭和44) 700円
1972年(昭和47) 800円
1975年(昭和50) 1,000円
1976年(昭和51) 1,300円
1988年(昭和55) 1,000円

( 『値段の明治大正昭和風俗史 上』朝日文庫 1987年)






今日は、1977年12月
広島で上映された映画(洋画編)
についての話をさせてもろうたでがんす。


次回は、
邦画編の予定でがんすけぇの。



ほいじゃあ、またの。
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毛利輝元、広島築城を決定す

2021年12月05日 | 広島の話題


(撮影日:2021年11月13日)

今年(2021年)は、
毛利輝元(もうり てるもと)が
広島城に入城した天正19年(1591)から
430年目にあたる。

そこで広島城では、
企画展「輝元、広島城に入城す」を
開催中(11月13日から12月12日)じゃ。





↓広島城については、こちら↓

広島城ホームページ





今回は、
輝元が広島に城を築こうと決めるまで
の話でがんす。





広島城について間違った知識のひとつに、
「広島城は、戦国武将の
毛利元就(もとなり)が築いた」
というのがあるそうじゃ。

が、元就ではなく、
孫に当たる輝元が築いた
というのが本当のところなんじゃの。





元就は安芸国吉田郡山
(あきこく よしだ こおりやま。
現:広島県安芸高田市吉田町)
という、山間部にある
小さな国の領主じゃった。

そこから智略(ちりゃく)を使って
有数の戦国大名にのし上がり、
中国地方のほぼ全土、
約100万石を手にする。

元就は長男・隆元(たかもと)に
家督を譲るが、
その隆元は父より先に亡くなってしもうた。

そこで、隆元の長男で元就の孫にあたる
輝元が11歳で跡を継ぐことに。

元就が輝元の後見となり、
また、叔父にあたる
吉川元春(きっかわ もとはる)、
小早川隆景(こばやかわ たかかげ)
らがそれを補佐した。

元亀2年(1571)に元就が亡くなった後
輝元の時代になっても、
郡山を本拠とするのは変わらんかったそうじゃ。





時代は下って
天正10年代前半(1583年から1587年)。

輝元は郡山城の修理を手掛け、
城下町吉田の整備を行う。

また、吉田から向原(むかいはら)・
温品(ぬくしな)を経て
瀬戸内へ通じる道の整備も行う。

この道は、三篠川(みささがわ)
に沿って作られた幹線道路じゃったんじゃの。





ここまで見てくると、
輝元が郡山を離れる理由が見当たらん。

ほいじゃ、なんで広島に
新しい城を築くことにされたんじゃろか?

それは天正16年(1988)、
豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)と会い、
聚楽第(じゅらくだい)、
大坂城を見たからといわれとる。




毛利氏が本拠としていた郡山城は、
広島湾岸から40キロほど内陸にある
山城(やまじろ)。

山の上に造られた山城は、
戦(いくさ)が多い戦国時代には有効だった。

ほいじゃが、戦が減って、
また、毛利氏の力が強くなって、
中国地方を支配するようになると、
手狭で不便になってきた。

山城に代わって出てきたのが、
聚楽第や大坂城といった
近世城郭(きんせいじょうかく)。

交通の便がよい平地に、
城と城下町が一体となり
政治・経済の中心として機能する
平城(ひらじろ)。

聚楽第や大坂城をその目で見た輝元は、
郡山城という山城が時代遅れ
であることを強く感じたんじゃの。

そこで輝元は、陸上と海上・河川
それぞれの交通の便がよい
太田川(おおたがわ)河口部のデルタ地帯
当時、五ヶ村(ごかむら)と呼ばれていた
今の広島に城を築くことを決めた。

陸上は京と九州を結ぶ西国街道、
海上は瀬戸内海を、
そして河川は太田川(おおたがわ)
を使った交通が交わる場所が
広島じゃったんじゃの。

聚楽第や大坂城を見た輝元は、
その年(天正16年)の末、
年明け後の「佐東御普請」を決め、
翌17年(1589)3月から築城を始めた。





以下、余談。



さきほど、
「佐東御普請」という言葉が出てきた。

佐東(さとう)は
聞きなれない地名だが、
かつて沼田郡(ぬまたぐん)
と呼ばれていたところで、
現在の広島市西区の一部、
安佐南区の大部分、
安佐北区の一部(太田川より南)
にあたるそうじゃ。



(「輝元の広島築城 古文書でたどる」中国新聞 2021年12月3日)

何が書いてあるか
ちんぷんかんぷんで、
わしにもよう(=良く)読めんが…。

上の文書の右から3行目に
「佐東廣嶋(広島)」と書いてあって、
これが「広島」という地名が
初めて使われた文書とされるそうじゃ。





【参考文献】

『資料解説書 広島城』公益財団法人広島市文化財団広島城 2016年

『広島城』学習研究社 1995年

下中邦彦『日本歴史地名大系 第35巻 広島県の地名』平凡社 1982年






今回は、
輝元が広島に城を築こうと決めるまで
の話をさせてもろうたでがんす。

次回は、
輝元が広島城に入城する話を
させてもらう予定でがんすけぇの。



ほいじゃあ、またの。
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