通でがんす

いろんな広島を知って、ひろしま通になりましょう!
(旧ブログタイトル:通じゃのう)

広島電鉄家政女学校

2015年08月10日 | 広島の話題
広島電鉄家政女学校

太平洋戦争中

運転手、車掌として電車やバスに乗務






太平洋戦争中、

広島市内に、たった2年半しか存在しなかった学校があった。

それが、広島電鉄家政女学校(以下「女学校」と略す)。





戦争が起こると、男性は戦場で戦うため、男手が足りんようになる。

広島市内で電車やバスを運行する広島電鉄も、男手不足に悩んどった。

そこで、女学生を集めて働きながら学べる、全寮制の女学校の設立することにした。





女学校は国民学校高等科(今の中学校)の卒業生が対象で、

本科2年、専門科1年の3年制の学校。

校舎と寮は、広島市の皆実町(みなみまち。ゆめタウン広島があるあたり)にあったそうじゃ。





半日授業で、半日勤務。

給料がもらえるうえに、女学校の卒業資格ももらえ、

全寮制なので、衣食住が保障されとる。





女学校は1943年(昭和18年)4月に開校、

72人が第1期生として入学した。

その多くは、広島県、島根県の郡部、瀬戸内海の島の出身者じゃったそうな。





翌1944年(昭和19年)の2期生は139人、

そして、1945年(昭和20年)の3期生は98人と、

全部で309人の生徒がおった。





そのうち戦争も激しゅうなって男手不足も深刻になり、

半日授業、半日勤務のはずが、

終戦前ころは、早朝から深夜まで運転手、車掌として勤務しとったそうじゃ。





女学生が運転手?

そう。女学生に運転を任せにゃいけんほど、

男手が足りとらんかったんじゃの。





そして、広島に原子爆弾が投下された1945年8月6日。

爆心地から約2キロメートルの場所にあった校舎は燃え、

教師1人と、生徒30人が亡くなった。

もちろん、乗務中に被爆、死亡した生徒もおってじゃ。





生き残った生徒たちは、広島市西部の井口(いのくち)にあった

姉妹校の広島実践高等女学校(現:広島修道大学附属鈴峯女子高校)に避難した。





そして、9月。

避難先の広島実践高等女学校の講堂で、廃校通知を聞かされる。





終戦後、男たちが戦地から引き揚げてきたことから、

その穴埋めとして期待されとった女学生は

お役御免になったわけじゃ。





太平洋戦争中、

広島市内に、たった2年半しか存在しなかった女学校があった。

それが、広島電鉄家政女学校。

その女学校は3年制であったため、卒業生はいない。





【参考文献】

堀川惠子・小笠原信之:著『チンチン電車と女学生』日本評論社 (2005年)






今日は、広島電鉄家政女学校について話をさせてもらいました。

ほいじゃあ、またの。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする