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上下町出身の元三段跳び世界記録保持者は?

2010年05月15日 | スポーツ

三段跳(さんだんとび)といえば、ホップ・ステップ・ジャンプと3回跳んで、その距離を競う競技じゃの。



【問題】
5月9日(日)に亡くなった、府中市(旧・甲奴郡(こうぬぐん))上下町(じょうげちょう)出身で、元三段跳世界記録保持者は、次のうち誰でしょうか?

1.織田幹雄(おだ みきお)
2.小掛照二(こがけ てるじ)
3.田島直人(たじま なおと)
4.南部忠平(なんぶ ちゅうへい)









【正解】
2.小掛照二



【解説】
広島県上下町(現府中市)出身で、9日に77歳で死去した陸上男子三段跳びの元世界記録保持者、小掛照二さんの告別式が14日、東京都港区の斎場で営まれた。
陸上、スポーツ関係者たち約400人が参列し、別れを惜しんだ。

日本オリンピック委員会(JOC)の竹田恒和会長と、日本陸連の桜井孝次名誉副会長が弔辞を述べた。
2000年シドニー五輪女子マラソンで金メダルを獲得した高橋尚子さんが遺族に渡した手紙も棺に納められ、「小掛先生の情熱があったから、金メダルがとれた」などと紹介された。

五輪男子マラソン代表だった瀬古利彦(せこ としひこ)さんは「マラソンを強くしないといけないが口癖だった。遺志を継ぎ、強い選手を育てたい」としみじみと話した。

「小掛さんしのぶ 東京で葬儀」中国新聞 2010年5月15日)




以下、中国新聞の「生きて~日本陸連名誉副会長 小掛照二さん」から小掛の生涯を振り返ってみる。



1932(昭和7)年、府中市上下町の農家の長男として生まれる。



1948(昭和23)年、上下高に入学。
同高の佐々木龍二教諭によって「半ば強引に」陸上部へ入れられた。

1年の時の広島県高校総体では走り高跳び、三段跳びでいきなり優勝。
2年の49年もめきめきと記録を伸ばし、広島県総体を2種目連覇。

「<3> 全国へ 無名のジャンパー飛躍」中国新聞 2010年1月22日)




当時、三段跳は日本のお家芸じゃった。
小掛と同じ広島出身の織田幹雄(アムステルダム五輪、1928年)、南部忠平(ロサンゼルス五輪、1932年)、田島直人(ベルリン五輪、1936年)と、3大会連続で金メダルを獲っていた。



高校最終年の50年、走り高跳びと三段跳びは1年生からの3連覇を達成。
宇都宮市(うつのみやし)であった全国高校選手権には優勝候補として臨んだ。

走り高跳びは2位で走り幅跳びも2位。
最後が三段跳びだった。
記録は14メートル50の日本高校新記録だったよ。

優勝が決まった直後、一人の紳士が近づいてきたんだ。
「小掛君、幅跳び、高跳びも素晴らしいが、君はこれから三段跳びに絞りなさい」と言われた。
顔を見てびっくり。
ベルリン五輪(36年)三段跳び金メダリストの田島直人さんだった。

さらに「東京の大学へ来なさい。おれがコーチになってやるから」と言った人がいてね。
何と日本初の金メダリスト(28年アムステルダム)の織田幹雄さんだよ。
2人の三段跳びの金メダリストから声をかけられて、感動したね。

「<4> 高校王者 メダリストからの進言」中国新聞 2010年1月26日)




早稲田大学進学後は伸び悩んだが、1955(昭和30)年に大昭和製紙(現日本製紙)へ入社後、記録を伸ばした。



56年、メルボルン五輪の最終選考となる日本選手権(仙台市)で、ついに世界記録を樹立する。

スピードに乗っていたし、踏み切りも合った。
着地の瞬間、日本記録と世界記録(16メートル23)の旗が、後ろにあるのでびっくりしたよ。

従来の記録を25センチも更新する16メートル48の世界新記録樹立。

田島さんが一番に握手してくださった。
「目の前でぼくの日本記録を破られて、うれしいよ」と言ってね。

「<6> 社会人時代 驚異的な世界記録樹立」中国新聞 2010年1月28日)




メルボルン五輪の合宿中、カメラマンの要望で何度も跳んで足首をねんざ。
ほとんど練習できないまま本番に臨み、8位に終わる。



五輪で実感したのは、ベストの状態で戦う難しさ。
これまでの金メダリストの偉大さが、あらためて分かった。



「<7> 初の五輪 「金」最有力 けがで不発」中国新聞 2010年1月30日)




4年後のローマ五輪予選会で3位となり、代表入りは間違いないと思われたんじゃが、落選。



ショックも大きかったけど、恨みの方が強かった。
これだけ努力してきたのに、陸上界はこんなにひどいことをするのか、とね。

発表の翌日、スパイクやユニホームなどをすべて燃やし、陸上界に別れを告げた。

(「<8> 五輪落選 努力実らず陸上に別れ」中国新聞 2010年2月2日)




その後、仕事に打ち込む。

2年後、織田から「君が現役時代に果たせなかった五輪チャンピオンの夢を、指導者としてかなえてほしい」と誘われ、第二の人生を指導者として歩むことにしたそうじゃ。

1964(昭和39)年の東京五輪をめざし、日本陸連の強化委員に抜てきされ、聖火リレー最終ランナーを選ぶよう指示される。



最終ランナーは誰が務めるのか、と世間は大騒ぎだったね。
当時高校生以下で将来性のある選手を選べ、という指令だった。
1人注目した選手がいた。
広島・三次高(みよしこう)3年の坂井義則(さかい よしのり)君。
400メートルで国体で優勝するなど、将来性は高かったが、それ以上に生年月日が目を引いた。
「1945年8月6日」。
広島に原爆が投下された日に生まれたんだ。
世界に平和をアピールするにはこれ以上のものはない、と確信した。

本番2日前に坂井君を自宅に招き、赤飯で前祝いもした。
当日は緊張したね。
坂井君も聖火が近づくにつれ、落ち着きがなくなるのが分かった。
でも彼はすべて時間通りにこなし、大役を全うした。

聖火がともった瞬間、世界中の人が見ている中でヒロシマをアピールできた、と実感できたね。

「<9> 指導者の道 世紀の瞬間アシスト」中国新聞 2010年2月3日)




坂井は、原爆が投下された1時間半後、三次市(みよしし)で生まれた。
坂井自身は被爆者ではないが、父は被爆者健康手帳の保有者じゃそうな。

開会式当日の10月10日(現在の体育の日)、坂井は国立競技場にある163段の階段を駆け上がり、聖火台に点火した。
10万713人目の聖火ランナーじゃったそうな。



1980(昭和55)年のモスクワ五輪では、前年に起きたソ連のアフガニスタン侵攻(しんこう)を受け、日本を含む西側諸国がボイコット。
当時の日本男子マラソンは、瀬古利彦(エスビー食品)と宗茂(そう しげる)、猛(たけし)の兄弟(旭化成)がいて、メダル獲得は間違いないといわれとったんじゃ。



1984(昭和59)年のロサンゼルス五輪は陸上監督として臨み、宗猛が4位入賞した。
調整不足の瀬古は14位、宗茂が17位じゃった。



わしが小掛の名前を知ったのが、このころから始まった、マラソン代表選考をめぐる騒動じゃ。

ソウル五輪の男子マラソン選考で、出場を義務付けられていた福岡国際マラソンを、瀬古はけがのため欠場した。



万全の状態の瀬古を見るべきだと思い、選考レースの一つだったびわこ毎日の結果を待った。
瀬古は優勝。
だが世間から批判を浴びた。

理事会で代表に福岡国際1、2位の中山竹通(なかやま たけゆき)選手(ダイエー)、新宅永灯至(しんたく ひさとし)選手(エスビー食品)、そして瀬古選手を決めた。

瀬古の実力と経験は、国際舞台では欠かせない。
各国の有力選手は瀬古をマークしてくる。
そうなると中山、新宅がノーマークになる。
特に中山は最初から一人で飛ばすのが彼のスタイル。
メダルは期待できた。

期待された中山選手はメダルまであと一歩の4位。
瀬古選手も9位に終わり、金メダルの夢はまたしてもかなわなかった。

瀬古は自分の役割を心得てくれた。
中山は自分のレースができなかったね。
競技後、中山に「なぜ集団から出なかったんだ」と聞いた。
すると「出たくても、やはり怖かった」と。
これが五輪なんだ。
五輪で勝つのはこんなにも難しいのか、とあらためて実感した。

「<11> ソウル五輪 批判も浴びた選手選考」中国新聞 2010年2月5日)




当時、福岡国際マラソンを欠場した瀬古に対して、中山が「這(は)ってでも出てこい」と発言したと報道されたことは有名。
これは、瀬古が欠場したことの感想を聞かれた中山が、「自分なら這ってでも出ますけどね」と答えたというのが真相らしいんじゃ。

この件に関しては今年の1月、2人が和解の握手を交わしとります。



2月28日の東京マラソンを盛り上げるイベントで実現したトークショーのテーマは「日本のマラソンを語る」。
冒頭で冗舌(じょうぜつ)な瀬古氏が「おれは中山のことが好きだけど、中山は(おれのことが)嫌いだった」と先手を打つと、中山氏は「ずっと雲の上の存在。それと勝負とは違う」とやり返す場面も。

「瀬古、中山両氏が“和解”の握手」スポニチ 2010年1月26日)




1991(平成3)年の世界選手権東京大会は、日本選手団長兼監督として臨んどられます。



「世界選手権は今後の日本陸上界の運命を決める重要な大会。私は進退をかけて戦う」とコーチ陣の前で宣言したんだ。
指導者も、選手も私の決意を知り、大会の重要さを分かってくれたね。

私は「最終日はセンターポールに日の丸が上がりますよ」と言ったんだ。
すると本当に最終日に谷口が優勝してくれた。
国立競技場に君が代が響いた光景は忘れられないよ。

「<12> 世界選手権 進退をかけ東京で「金」」中国新聞 2010年2月6日)




この大会で、男子マラソンの谷口浩美(たにぐち ひろみ、旭化成)が金メダルを、女子マラソンの山下佐知子(やました さちこ、京セラ)が銀メダルを獲得されとります。

谷口は、翌92年のバルセロナ五輪でメダル候補とされていたが、給水地点で転倒、シューズが脱げてしまうアクシデントもあり、8位。
ゴール後のインタビューで、「こけちゃいました」とコメントしたことが有名じゃの。



同じくバルセロナ五輪の女子マラソンの3人目枠を、松野明美(まつの あけみ)と有森裕子(ありもり ゆうこ)のどちらにするかで揉(も)めたことも有名。

松野は記者会見を開いて、「自分を選んでほしい」とアピールしたが、落選。



自信を持って有森を選んだ。

しかし、心ない嫌がらせが小掛さんを襲った。
内容は日に日にエスカレートし、警察に被害届を提出。
約1カ月間も続いた。

五輪マラソンは8月の猛暑の中でのレース。
有森は東京世界選手権4位と真夏のマラソンを経験しており、暑さ対策はできている。
有森抜きでは戦えないと確信していた。

本番で有森選手は暑さをものともせず、銀メダルを獲得。

今度は知らない人から「おめでとう。さすが専門家の選考は違う」など、お褒(ほ)めの言葉をいただいたね。
本当にほっとしたよ。

「<13> バルセロナ五輪 批判に負けず信念貫く」中国新聞 2010年2月9日)




そして、現役時代に果たせなかった五輪金メダルを、指導者としてかなえる日がやってきた…。



2000(平成12)年シドニー五輪女子マラソンの高橋尚子選手(当時積水化学)だ。

初めて高橋を見たのが97年の大阪国際女子マラソン。
初マラソンだったが、小出義雄(こいで よしお)監督が「いいのがでてきましたよ」と太鼓判を押していた。

競技場にトップで高橋が入ってきた時の光景は忘れられない。
最後の直線50メートルで、ようやく優勝が確信できた。

泣くまい、と思っていたが、君が代が流れたシーンではやはり涙が出たね。
選手として金メダルがとれなかった56年のメルボルン五輪から44年か。
随分(ずいぶん)と時間はかかったが、これで陸上人生は終わってもいい、と正直思ったよ。

「<15> 高橋尚子 悲願の五輪王者誕生」中国新聞 2010年2月11日)




その他にも、男女の都道府県対抗駅伝、東京マラソンなど、数多くの大会も創設されとります。



高橋がこんなことを言ったんだ。
「私の陸上のスタートは京都の女子駅伝。高校の時に初めて出て区間45位だったんですよ。でも新しいシューズやユニホームをいただけるし、トップ選手から声をかけてもらえる。最高の場でした」

国際舞台で活躍できる男子ランナーを育成する駅伝を、ぜひ広島で開きたかった。

しかし60年以上の歴史があり、福山市 ― 広島市をつなぐ中国駅伝があった。
理解を得るために何度も広島に行った。
だが60年以上も続いたレース。
「おれたちの夢を消すのか」とも言われた。

96年1月、中国駅伝は全国都道府県対抗男子駅伝(ひろしま男子駅伝)に生まれ変わった。

第1回は最終7区の大逆転で開催地広島が初代王者に。
ドラマチックな幕開けとなった。

記念すべき好スタートが切れた。
表彰式で広島が優勝旗を受け取る光景は私も誇らしく思ったよ。
男子駅伝を広島で開催し地元に恩返しができた。
陸上人生の中で忘れられない思い出となるだろう。

「<14> 男子駅伝 開催奔走 故郷に恩返し」中国新聞 2010年2月10日)





2000(平成12)年、国際オリンピック委員会(IOC)のオリンピックオーダー(五輪功労賞)銀賞を受賞。
2005(平成17)年には、旭日中綬章(きょくじつちゅうじゅしょう)が授与されとります。



↓三段跳の過去の記事については、こちら↓

海田町出身の、日本人初の五輪金メダリストは?



今日は、小掛照二と戦後の日本マラソンについて勉強をさせてもらいました。
今日もひとつ勉強になったでがんす。



ほいじゃあ、またの。


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