「広島市の南東部にある、黄金山(おうごんざん)をぐるり一周する今回の企画。前回は、出汐町バス停をスタートして旧陸軍被服支廠(ひふくししょう)までを紹介したんじゃけど…」
旧陸軍被服支廠
「今回は、旭町(あさひまち)近辺、旧国鉄の宇品線跡を紹介していこうかの」
「被服支廠のある細い路地から道路に出ると、そこは、旧国鉄の宇品線が走っていたところなんじゃ」
宇品線(うじなせん)は、広島県広島市の広島駅から南下し宇品駅までを結んでいた日本国有鉄道(国鉄)の鉄道路線である。
(「宇品線」ウィキペディア)
「宇品線は、日清戦争の兵隊や物資を運ぶために作られたんよね」
「広島駅が開業したのが1894年(明治27年)6月で、当時は、神戸を始発とする山陽鉄道の終点じゃった。そして、この年、日清戦争がおこり、1889年(明治22年)に築港された宇品港(うじなこう)から朝鮮半島へ軍隊を輸送することになったんじゃ」
「で、広島駅から宇品駅までの交通手段がないけぇ、突貫工事で宇品線を作った…と」
「たった17日で完成させたという話も残っとるんじゃの。こうして、宇品線は軍事用の路線として整備されたんじゃ。余談じゃが、広島電鉄の宇品線が開通するのは、21年後の1915年(大正4年)4月」
「原子爆弾が投下されたときは、負傷者を宇品へ運んだりしたんよ」
「戦後は、原子爆弾で建物を失った官庁が、宇品線の沿線にある軍用地やその建物を利用していたこともあって、通勤通学の足として親しまれとったんじゃの。前回紹介した旧陸軍被服支廠も、戦後は、大蔵省中国財務局の庁舎、広島大学の校舎、隣接する皆実高校や県立広島工業高校の用地として使われとったそうじゃ」
しかし、諸官庁が都心部へ移転して利用者は次第に減少し、昭和45年度には収支係数4049という日本一の赤字路線になった。
(「宇品線」『広島県大百科事典』中国新聞社 1982年)
「収支係数(営業係数)というのは、100円の利益を得るのに、どれだけ費用がかかるかというのをあらわす指数のことじゃの」
「ということは、100円の利益を得るのに、その40倍近い4049円の費用をかけていたと…」
「そんな赤字路線の宇品線は、1986年(昭和61年)に廃線となったんじゃ」
「しばらく行くと西旭町集会所があって、その裏手にポッポ広場があるんじゃの」
「ポッポ広場?」
「名前の由来」
ここは旧国鉄宇品線下大河駅があった場所です。
下大河駅は、昭和6(1931)年11月から昭和41(1966)年12月までの35年間にわたり、通勤、通学などの多くの人たちに利用され、地域の中心としてにぎわいました。
平成13(2001)年12月、ここに地域の人たちと南区役所が協働で広場をつくりました。地域の人たちは、この地が鉄道の駅だったことを記念し「ポッポ広場」と名付けました。
(ポッポ広場にある看板より)
「1966年じゃけぇ、今から47年前まで、ここに下大河駅(しもおおこうえき)があったんじゃね」
「広場には、蒸気機関車のモザイクもあるんじゃ」
「ポッポ広場前の交差点から、北側と…」
「南側を見る」
「こうやって、「ここを宇品線が走っていました」と残しとかんと、全然分からんね」
「民家の塀にこれがかけてある」
「南警察署交差点の北東側には、宇品線のモニュメントとして、短いホームや踏切などが残されてとるんじゃの」
「踏切警報機、」
「遮断機に」
「車止め」
「こんなごっつい鉄を、どうやって曲げとってんかね?」
訪問日:2013年(平成25年)4月27日
「今日は、旭町にある、旧国鉄の宇品線跡について話をさせてもらいました」
「次回は、丹那町(たんなちょう)近辺を紹介する予定じゃ。ほいじゃあ、またの」
旧陸軍被服支廠
「今回は、旭町(あさひまち)近辺、旧国鉄の宇品線跡を紹介していこうかの」
「被服支廠のある細い路地から道路に出ると、そこは、旧国鉄の宇品線が走っていたところなんじゃ」
宇品線(うじなせん)は、広島県広島市の広島駅から南下し宇品駅までを結んでいた日本国有鉄道(国鉄)の鉄道路線である。
(「宇品線」ウィキペディア)
「宇品線は、日清戦争の兵隊や物資を運ぶために作られたんよね」
「広島駅が開業したのが1894年(明治27年)6月で、当時は、神戸を始発とする山陽鉄道の終点じゃった。そして、この年、日清戦争がおこり、1889年(明治22年)に築港された宇品港(うじなこう)から朝鮮半島へ軍隊を輸送することになったんじゃ」
「で、広島駅から宇品駅までの交通手段がないけぇ、突貫工事で宇品線を作った…と」
「たった17日で完成させたという話も残っとるんじゃの。こうして、宇品線は軍事用の路線として整備されたんじゃ。余談じゃが、広島電鉄の宇品線が開通するのは、21年後の1915年(大正4年)4月」
「原子爆弾が投下されたときは、負傷者を宇品へ運んだりしたんよ」
「戦後は、原子爆弾で建物を失った官庁が、宇品線の沿線にある軍用地やその建物を利用していたこともあって、通勤通学の足として親しまれとったんじゃの。前回紹介した旧陸軍被服支廠も、戦後は、大蔵省中国財務局の庁舎、広島大学の校舎、隣接する皆実高校や県立広島工業高校の用地として使われとったそうじゃ」
しかし、諸官庁が都心部へ移転して利用者は次第に減少し、昭和45年度には収支係数4049という日本一の赤字路線になった。
(「宇品線」『広島県大百科事典』中国新聞社 1982年)
「収支係数(営業係数)というのは、100円の利益を得るのに、どれだけ費用がかかるかというのをあらわす指数のことじゃの」
「ということは、100円の利益を得るのに、その40倍近い4049円の費用をかけていたと…」
「そんな赤字路線の宇品線は、1986年(昭和61年)に廃線となったんじゃ」
「しばらく行くと西旭町集会所があって、その裏手にポッポ広場があるんじゃの」
「ポッポ広場?」
「名前の由来」
ここは旧国鉄宇品線下大河駅があった場所です。
下大河駅は、昭和6(1931)年11月から昭和41(1966)年12月までの35年間にわたり、通勤、通学などの多くの人たちに利用され、地域の中心としてにぎわいました。
平成13(2001)年12月、ここに地域の人たちと南区役所が協働で広場をつくりました。地域の人たちは、この地が鉄道の駅だったことを記念し「ポッポ広場」と名付けました。
(ポッポ広場にある看板より)
「1966年じゃけぇ、今から47年前まで、ここに下大河駅(しもおおこうえき)があったんじゃね」
「広場には、蒸気機関車のモザイクもあるんじゃ」
「ポッポ広場前の交差点から、北側と…」
「南側を見る」
「こうやって、「ここを宇品線が走っていました」と残しとかんと、全然分からんね」
「民家の塀にこれがかけてある」
「南警察署交差点の北東側には、宇品線のモニュメントとして、短いホームや踏切などが残されてとるんじゃの」
「踏切警報機、」
「遮断機に」
「車止め」
「こんなごっつい鉄を、どうやって曲げとってんかね?」
訪問日:2013年(平成25年)4月27日
「今日は、旭町にある、旧国鉄の宇品線跡について話をさせてもらいました」
「次回は、丹那町(たんなちょう)近辺を紹介する予定じゃ。ほいじゃあ、またの」
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