「2月16日(木)の中国新聞に、天満屋が「閉店 最終売りつくし」の新聞広告を出しとったんじゃ」
「いよいよ3月4日(日)で閉店なんじゃね」
「広島八丁堀店は、1954年(昭和29年)5月1日に、広島市の八丁堀にオープンしたそうじゃ」
「58年も前になるんじゃね」
「この新聞広告には、1955年(昭和30年)10月1日、現在の場所に開店した時のフロアガイドが掲載されとったんよ」
「へぇ」
「これを見たら、当時は、地上5階、地下1階建てじゃったんじゃの」
「今は地上11階、地下1階じゃね」
「エスカレーターも3階までしかなかったんじゃ」
「エレベーターは5階まで行っとるね。今と同じところもあるけど、違うところもたくさんあるね」
「半世紀以上も前じゃけぇの、今回はそれを見ていこうと思うんじゃ」
「まず1階は、紳士服・紳士洋品・帽子・洋傘・ベビー用品など」
「「足袋(たび)」とあるね。隣に「靴下」とあるけぇ、この時代には足袋を履(は)いとる方がおられたんじゃね」
「足袋を履くということは、草履(ぞうり)や下駄(げた)を履いとる人がおられたということじゃの。ちなみに、わしの叔父さんは、昭和40年代まで下駄を履いとられたのう」
「そういえば、かまやつひろしが歌った『我が良き友よ』はいつじゃったっけ?」
「1975年(昭和50年)じゃ」
♪下駄をならして奴がくる~
「ちなみに、この曲を作詞した吉田拓郎(よしだ たくろう)は、広島市育ちじゃの」
「あと、1階には「公衆電話」もあったね」
「一般家庭に、電話がまだ普及しとらんかった時代じゃけぇの」
「街のタバコ屋さんには、赤電話が置いてあったよね」
「映画『ALWAYS 3丁目の夕日』にも出てきとったのう」
「10円玉1枚で、3分間話ができたもんね」
「ところが、10円で3分間しか話せんようになったのは、1970年(昭和45年)の1月30日からなんじゃ」
「ほんま!? それまではどうじゃったん?」
「1通話10円で時間無制限。つまり、公衆電話に10円玉を1枚入れると、好きなだけ話ができたそうじゃ」
「女の子にはえかったかもね」
「クラーク・ケントがスーパーマンに変身しようとした時、公衆電話で長話をされとったら困るよのう」
「それはアメリカの話じゃけぇ、日本のことは関係ないじゃろ?」
「話を元に戻すと、1月30日は市内通話料金が3分で10円になった日ということで、この日は「3分間電話の日」になっとるんじゃの」
「携帯が普及した今じゃ、街中で公衆電話を探す方が大変じゃね」
「わしのお袋は、「街に公衆電話がのうなって困っとる」と言うとるで」
「まだ携帯を持っとられんけぇね」
「2月22日(水)の中国新聞によると、広島県内の携帯普及率が初めて9割を超えて91・1%になり、都道府県別順位で10位になったそうじゃ」
(青文字部分、2012年2月22日追加)
「2階は、洋服・呉服・学生服など」
「「紳士既製服」と「紳士服地」とあるね」
「紳士服は、生地を選んで仕立てるのが主流じゃったけぇの」
「紳士服も既製のものを買うのが当たり前になったね」
「テーラーをやっとられた叔父さんの店に行くと、縫いかけの服が掛けてあったもんじゃ。そういや、オーダーメイドのワイシャツもあったのう」
「「テーラー(tailor)」という言葉も、聞かんようになったね」
「オーダーメイドから既製服になって、お客の顔が見えんようになってしもうた、と叔父さんも言うておられたのう」
「3階は、履き物・化粧品・文房具・時計・ミシン・ラジオなど」
「ミシンといえば、今は電気式が当たり前じゃけど、このころは足踏み式や手回し式じゃったね」
「わしの家にも足踏み式のミシンが置いてあったのう」
「うちの家にもあったよ。NHK朝の連ドラ『カーネーション』で、戦争中、主人公の糸子(いとこ。演:尾野真千子)がミシンを供出しろいうて言われたんよ」
「あぁ。戦争中は金属供出があったけぇの」
「その時は、ミシンで軍服を作るということで何とか見逃してもらえたんじゃけどね」
第二次世界大戦が始まると家庭用ミシンの製造は禁止され、戦時中、ミシンは軍用ミシンのみ製作されることになる。
(「ミシン」ウィキペディア)
「4階は、催場・美術画廊・台所用品・食器など」
「「茶華道用具」とあるね」
「お嫁に行くのに、茶道や華道を習わんにゃいけん時代じゃたんかのう?」
「それをいうなら、着付けも必要じゃったんかもね」
「5階は、玩具・科学教材・オルガン・食堂など」
「「おもちゃ」じゃのうて「玩具」という言い方が、時代を感じるね」
「「科学教材」といえば、学研の「科学」と「学習」の「科学」の方じゃの」
「ピアノじゃのうて、オルガンを売っとったんじゃね」
「やっぱり、ピアノよりオルガンの方が安いんかのう?」
「それもあるし、鍵盤数が少ないけぇ、場所もとらんよね」
「わしが物心ついたとき、家にオルガンが置いてあったんよ」
「店に飾ってあったオルガンを、息子がじっと見よったけぇ買うてきたんじゃ、いうてお義父さんが言よっちゃったよ。親心じゃね」
「どら息子2人じゃったけぇ、ほとんど弾かんうちに捨てられてしもうたよのう」
「うちらが子どものころは、デパート(もしくは百貨店)の食堂で食事をするというのが、最大級のごちそうじゃったね」
「どこへいっても、結局はお子様ランチしか食べんのじゃがの」
一般的に、何点かの料理を1つの皿に盛るように区切られたランチプレートにチキンライス・オムライス・チャーハンといったご飯が山形に盛られ、おかずにはハンバーグやエビフライ・唐揚げ・ナポリタン・プリンといった子供に人気の高い料理が添えられる。
店やメニューによっては、注文するに当たり“小学生まで”としている場合がある。
理由は、子供連れの家族を狙った客寄せの意味が大きく、多種類の料理を盛り付ける手間が掛かり、あまり利益が上がらないためである。
(「お子様ランチ」ウィキペディア)
「屋上は、子供の国・展望台・パーラー」
「「パーラー」という言葉に時代を感じるね」
「「ムーンロケット」「キャタピラー」「サンダーネイル」などの乗り物があるんじゃの」
「「サンダーネイル」は観覧車なんじゃね」
「展望台から見えた、あのころの広島の街はどげなかったんじゃろうか?」
1950年代半ば(昭和30年代初め)から1960年代後半(昭和40年代半ば)にかけてが屋上遊園地の全盛期であった。
現在と比べ子供達の娯楽が乏しかったこともあって、子供達にとってはまさに天国であり楽園的な存在でもあった。
今やデパートの存在価値はすっかり薄れてしまったが、大正時代から昭和50年ぐらいまでは日曜日ともなると家族揃って半日から1日がかりでデパートで過ごすという事は行楽行事の一つでもあり、おもちゃ売り場、大食堂、屋上遊園地と子供達はその日を楽しみに待ち望んだ。
(「屋上遊園地」ウィキペディア)
「地下は、食品売り場」
「「鰹節」とあるね」
「むかしは、それぞれの家に鰹節の削り器があったもんじゃ」
「鰹節は、使う直前に削るのがおいしいけぇね。ところで、今のようにパックに入った鰹節が売られるようになったのはいつごろじゃろか?」
「1969年。今から43年前のことじゃそうな」
風味を保つことのできる削り節の研究が続けられ、1969年(昭和44年)ににんべんが発売したのが「フレッシュパック」である。
包装に3層構造の合成樹脂フイルムを使用するとともに酸素除去のために不活性ガスを充填することで長期間風味を保つことに成功したこの商品は多く売られ、他社からも同様の製品が発売された。
(「削り節」ウィキペディア)
「へぇ。「削り節」って言うんじゃね」
「大正時代には、福山市にあった富士ワ安部商という会社が、紙袋で包装した削り節を考案したこともあるそうじゃ。もっとも、風味が失われるという問題が解決されとらんかったそうじゃがの」
「そういゃ、ソフトクリームの売り場がないね」
「ソフトクリームは1951年(昭和26年)、当時、日本を占領していた連合国軍によって広まったそうじゃ」
1954年(昭和29年)~1956年(昭和31年)頃
ソフトクリームの第一次ブーム到来
復興期の日本に初めて登場したソフトクリームは、またたく間に人々の心をつかみました。
朝鮮動乱の特需景気もあって街には飲食店が増え、有力店はいち早くソフトクリームに着目し、米軍払い下げのフリーザーを買い求めました。
まもなく、デパートの食堂や有名レストランでも販売されるようになり、国産フリーザーの開発や、粉状・液状ミックス(クリームの原料)の販売とともに1954年以降、第一次ブームに火がつきました。
(「歴史館」日世ソフトクリームランド)
↓天満屋については、こちら↓
天満屋ホームページ
↓広島市内にあるデパートについての関連記事は、こちら↓
1月11日(月)で屋上遊園地の営業を終えるデパートはどこ?
復興の記憶~広島 戦後の商業史~ 泉美術館
「今日は、天満屋の新聞広告に載っていた、57年前の広島八丁堀店について話をさせてもらいました」
「ほいじゃあ、またの」
「いよいよ3月4日(日)で閉店なんじゃね」
「広島八丁堀店は、1954年(昭和29年)5月1日に、広島市の八丁堀にオープンしたそうじゃ」
「58年も前になるんじゃね」
「この新聞広告には、1955年(昭和30年)10月1日、現在の場所に開店した時のフロアガイドが掲載されとったんよ」
「へぇ」
「これを見たら、当時は、地上5階、地下1階建てじゃったんじゃの」
「今は地上11階、地下1階じゃね」
「エスカレーターも3階までしかなかったんじゃ」
「エレベーターは5階まで行っとるね。今と同じところもあるけど、違うところもたくさんあるね」
「半世紀以上も前じゃけぇの、今回はそれを見ていこうと思うんじゃ」
「まず1階は、紳士服・紳士洋品・帽子・洋傘・ベビー用品など」
「「足袋(たび)」とあるね。隣に「靴下」とあるけぇ、この時代には足袋を履(は)いとる方がおられたんじゃね」
「足袋を履くということは、草履(ぞうり)や下駄(げた)を履いとる人がおられたということじゃの。ちなみに、わしの叔父さんは、昭和40年代まで下駄を履いとられたのう」
「そういえば、かまやつひろしが歌った『我が良き友よ』はいつじゃったっけ?」
「1975年(昭和50年)じゃ」
♪下駄をならして奴がくる~
「ちなみに、この曲を作詞した吉田拓郎(よしだ たくろう)は、広島市育ちじゃの」
「あと、1階には「公衆電話」もあったね」
「一般家庭に、電話がまだ普及しとらんかった時代じゃけぇの」
「街のタバコ屋さんには、赤電話が置いてあったよね」
「映画『ALWAYS 3丁目の夕日』にも出てきとったのう」
「10円玉1枚で、3分間話ができたもんね」
「ところが、10円で3分間しか話せんようになったのは、1970年(昭和45年)の1月30日からなんじゃ」
「ほんま!? それまではどうじゃったん?」
「1通話10円で時間無制限。つまり、公衆電話に10円玉を1枚入れると、好きなだけ話ができたそうじゃ」
「女の子にはえかったかもね」
「クラーク・ケントがスーパーマンに変身しようとした時、公衆電話で長話をされとったら困るよのう」
「それはアメリカの話じゃけぇ、日本のことは関係ないじゃろ?」
「話を元に戻すと、1月30日は市内通話料金が3分で10円になった日ということで、この日は「3分間電話の日」になっとるんじゃの」
「携帯が普及した今じゃ、街中で公衆電話を探す方が大変じゃね」
「わしのお袋は、「街に公衆電話がのうなって困っとる」と言うとるで」
「まだ携帯を持っとられんけぇね」
「2月22日(水)の中国新聞によると、広島県内の携帯普及率が初めて9割を超えて91・1%になり、都道府県別順位で10位になったそうじゃ」
(青文字部分、2012年2月22日追加)
「2階は、洋服・呉服・学生服など」
「「紳士既製服」と「紳士服地」とあるね」
「紳士服は、生地を選んで仕立てるのが主流じゃったけぇの」
「紳士服も既製のものを買うのが当たり前になったね」
「テーラーをやっとられた叔父さんの店に行くと、縫いかけの服が掛けてあったもんじゃ。そういや、オーダーメイドのワイシャツもあったのう」
「「テーラー(tailor)」という言葉も、聞かんようになったね」
「オーダーメイドから既製服になって、お客の顔が見えんようになってしもうた、と叔父さんも言うておられたのう」
「3階は、履き物・化粧品・文房具・時計・ミシン・ラジオなど」
「ミシンといえば、今は電気式が当たり前じゃけど、このころは足踏み式や手回し式じゃったね」
「わしの家にも足踏み式のミシンが置いてあったのう」
「うちの家にもあったよ。NHK朝の連ドラ『カーネーション』で、戦争中、主人公の糸子(いとこ。演:尾野真千子)がミシンを供出しろいうて言われたんよ」
「あぁ。戦争中は金属供出があったけぇの」
「その時は、ミシンで軍服を作るということで何とか見逃してもらえたんじゃけどね」
第二次世界大戦が始まると家庭用ミシンの製造は禁止され、戦時中、ミシンは軍用ミシンのみ製作されることになる。
(「ミシン」ウィキペディア)
「4階は、催場・美術画廊・台所用品・食器など」
「「茶華道用具」とあるね」
「お嫁に行くのに、茶道や華道を習わんにゃいけん時代じゃたんかのう?」
「それをいうなら、着付けも必要じゃったんかもね」
「5階は、玩具・科学教材・オルガン・食堂など」
「「おもちゃ」じゃのうて「玩具」という言い方が、時代を感じるね」
「「科学教材」といえば、学研の「科学」と「学習」の「科学」の方じゃの」
「ピアノじゃのうて、オルガンを売っとったんじゃね」
「やっぱり、ピアノよりオルガンの方が安いんかのう?」
「それもあるし、鍵盤数が少ないけぇ、場所もとらんよね」
「わしが物心ついたとき、家にオルガンが置いてあったんよ」
「店に飾ってあったオルガンを、息子がじっと見よったけぇ買うてきたんじゃ、いうてお義父さんが言よっちゃったよ。親心じゃね」
「どら息子2人じゃったけぇ、ほとんど弾かんうちに捨てられてしもうたよのう」
「うちらが子どものころは、デパート(もしくは百貨店)の食堂で食事をするというのが、最大級のごちそうじゃったね」
「どこへいっても、結局はお子様ランチしか食べんのじゃがの」
一般的に、何点かの料理を1つの皿に盛るように区切られたランチプレートにチキンライス・オムライス・チャーハンといったご飯が山形に盛られ、おかずにはハンバーグやエビフライ・唐揚げ・ナポリタン・プリンといった子供に人気の高い料理が添えられる。
店やメニューによっては、注文するに当たり“小学生まで”としている場合がある。
理由は、子供連れの家族を狙った客寄せの意味が大きく、多種類の料理を盛り付ける手間が掛かり、あまり利益が上がらないためである。
(「お子様ランチ」ウィキペディア)
「屋上は、子供の国・展望台・パーラー」
「「パーラー」という言葉に時代を感じるね」
「「ムーンロケット」「キャタピラー」「サンダーネイル」などの乗り物があるんじゃの」
「「サンダーネイル」は観覧車なんじゃね」
「展望台から見えた、あのころの広島の街はどげなかったんじゃろうか?」
1950年代半ば(昭和30年代初め)から1960年代後半(昭和40年代半ば)にかけてが屋上遊園地の全盛期であった。
現在と比べ子供達の娯楽が乏しかったこともあって、子供達にとってはまさに天国であり楽園的な存在でもあった。
今やデパートの存在価値はすっかり薄れてしまったが、大正時代から昭和50年ぐらいまでは日曜日ともなると家族揃って半日から1日がかりでデパートで過ごすという事は行楽行事の一つでもあり、おもちゃ売り場、大食堂、屋上遊園地と子供達はその日を楽しみに待ち望んだ。
(「屋上遊園地」ウィキペディア)
「地下は、食品売り場」
「「鰹節」とあるね」
「むかしは、それぞれの家に鰹節の削り器があったもんじゃ」
「鰹節は、使う直前に削るのがおいしいけぇね。ところで、今のようにパックに入った鰹節が売られるようになったのはいつごろじゃろか?」
「1969年。今から43年前のことじゃそうな」
風味を保つことのできる削り節の研究が続けられ、1969年(昭和44年)ににんべんが発売したのが「フレッシュパック」である。
包装に3層構造の合成樹脂フイルムを使用するとともに酸素除去のために不活性ガスを充填することで長期間風味を保つことに成功したこの商品は多く売られ、他社からも同様の製品が発売された。
(「削り節」ウィキペディア)
「へぇ。「削り節」って言うんじゃね」
「大正時代には、福山市にあった富士ワ安部商という会社が、紙袋で包装した削り節を考案したこともあるそうじゃ。もっとも、風味が失われるという問題が解決されとらんかったそうじゃがの」
「そういゃ、ソフトクリームの売り場がないね」
「ソフトクリームは1951年(昭和26年)、当時、日本を占領していた連合国軍によって広まったそうじゃ」
1954年(昭和29年)~1956年(昭和31年)頃
ソフトクリームの第一次ブーム到来
復興期の日本に初めて登場したソフトクリームは、またたく間に人々の心をつかみました。
朝鮮動乱の特需景気もあって街には飲食店が増え、有力店はいち早くソフトクリームに着目し、米軍払い下げのフリーザーを買い求めました。
まもなく、デパートの食堂や有名レストランでも販売されるようになり、国産フリーザーの開発や、粉状・液状ミックス(クリームの原料)の販売とともに1954年以降、第一次ブームに火がつきました。
(「歴史館」日世ソフトクリームランド)
↓天満屋については、こちら↓
天満屋ホームページ
↓広島市内にあるデパートについての関連記事は、こちら↓
1月11日(月)で屋上遊園地の営業を終えるデパートはどこ?
復興の記憶~広島 戦後の商業史~ 泉美術館
「今日は、天満屋の新聞広告に載っていた、57年前の広島八丁堀店について話をさせてもらいました」
「ほいじゃあ、またの」
じゃが、正直な話、天満屋八丁堀店に行くことがないんですよ。
買いたいと思う商品がないし、見たいと思う催しもあんまりなかったですけぇの。
そういう意味では、閉店も仕方ないかな、と個人的には思うとります。
ただ、一昨年の10月に、MARUZEN&ジュンク堂書店ができてからは、時々、立ち寄らせてもろうとります。
ザワザワしていない、静かで落ち着いた店内という意味では、広島市内でもトップレベルにあるんじゃないですかの。
そういう意味では、この書店は続けて欲しい、と思うとります。