通でがんす

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(旧ブログタイトル:通じゃのう)

鍋桟橋から呉駅まで(その2)

2013年05月25日 | 見て歩き
「鍋桟橋(なべさんばし)からアレイからすこじま経由で呉駅まで、広島電鉄のバス路線に沿って呉の街をめぐる、今回のシリーズ」

「前回は、鍋桟橋近辺について話をしたんじゃが」

「今日は、警固屋(けごや)公民館前から淀川製鋼前バス停までを紹介しようと思う」





「警固屋っていう地名はどこからついたん?」

「そのむかし、平清盛(たいらのきよもり)が音戸の瀬戸を切り開いたとき、清盛公を警固する武士たちがこの地にいたので「警固屋」と名づけられたといわれとる。ほかにも…」



「けごやは食小屋なるべし。平相国、追門を切りぬかれし時、食廠(かしきこや)をこゝに設けられ」

(「警固屋村」『広島県の地名』1982年)




「このあたりに食料を集めた食小屋があったことことから、この地名がついたともいわれとるんじゃの」

「「平相国」って、清盛公のこと?」

「ほうじゃの。「平相国(へいしょうこく)」と読む。相国というのは、太政大臣(だいじょうだいじん)のことをいうそうじゃ」





「警固屋公民館前に、鍋小島(なべこじま)が残されとるんじゃ」





鍋小島(別名 法ケ崎(のりがさき))

昔、この付近は、岩礁が多く、漁場であり海難場所でもあった。
安永年間のたび重なるしけに犠牲者が多く、海難防止と犠牲者の冥福を祈り、安永6年(1778年)に大乗妙典一石一字塔(だいじょうみょうてんいっせきいちじとう)が建立された。
建立後は、海難も減少し、霊験あらたかなりと信仰され、この塔の経石を拾い、もて遊ぶ者は、腹痛をおこし、また鼻血が抜けたと伝えられ、祟りを恐れて、その経石は、宇佐神社の境内に祀られている。
現在、塔塚石(とうづかいし)のみ昔のもので、大正5年9月に新台石(しんだいせき)に再建されたものである。




「むかしは、このあたりまで海じゃったんじゃね」

「今は埋め立てられて、こんな形で残されとるんじゃの。で、これが大乗妙典一石一字塔」









「山を見ると、こんな感じ」

「おー、急傾斜地の上に家が建っとるね」

「広島県は急傾斜地崩壊危険箇所の数が、日本一多いんじゃと」

「広島県は、呉、尾道と坂の町が多いね」

「海があって、すぐ山になっとるけぇの」







「警固屋公民館前バス停。ここから先が、元の呉海軍工廠(くれかいぐんこうしょう)があった場所になるそうじゃ」









「おー。むかしの工場、という感じがするね」

「日新製鋼呉製鉄所の建物。工場萌えというか、工場好きの人には、たまらんのじゃないんかの」







「ダイクレの工場の横に、巨大な岩がある。これも、海の名残りなんかの?」







「歴史のありそうな、レンガの建物じゃね」



ダイクレ第2工場亜鉛メッキ工場は旧砲煩部精密兵器工場

(奥本剛『呉・江田島・広島 戦争遺跡ガイドブック』2009年 光人社)




「砲煩って?」

「砲煩というのは、大砲や機関銃などの兵器のことじゃそうな。読み方は分からんかったがの」







「日新製鋼前バス停」







「淀川製鋼前バス停」





訪問日:2013年(平成25年)5月12日





「今日は、鍋桟橋から呉駅までということで、警固屋公民館前から淀川製鋼前バス停までについて話をさせてもらいました」

「次回は、アレイからすこじまの予定じゃ。ほいじゃあ、またの」

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